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ロミオはジュリエットに誠実に。そして誰もが、それぞれの夏を越えていく(3)

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2からのつづき)

ぜひ、聞かせてください。

 これです。このペーパーバックです。

きれいですね。ひと目見ただけで、読みたくなりますね。

 僕も、ブックストアの棚で見たとき、そう思いました。このくらいきれいだと、もうなにも考えず、自動的に、反射的に、僕は買ってしまいます。買ってからずっと、気になりつつも読む機会がなかったのです。と言うよりも、季節が夏になるのを、僕は待っていたのです。タイトルの『サマー』にあわせて、夏に読もうと思っていて、やがて夏が来て、僕は読みました。

いかがでした?

 素晴らしい小説でした。ある日、まったく偶然に、なんの予備知識もなく、ブックストアでめぐりあって手に入れた一冊の小説ですけれど、グレン・サヴァンの『ホワイト・パラス』とおなじく、こんないい小説にめぐりあえるのは、うれしいことです。なんとも言えず、楽しいことです。

 この夏は、まるで夏らしくなかったでしょう。京都の祇園祭は、僕にとっては夏らしい暑さだったのですが、地元の女性が言うには、この程度ではまったく夏ではなく、今年は夏が来ないままに終わってしまった、ということでした。その夏の京都で、僕は『サマー』を読んだのです。

このデザインの美しさは、内容を反映しているのでしょうか。

 この外観のとおりの内容、そして書きかたです。このペーパーバックの表紙に使ってある絵は、とてもいい絵だと僕は思いますけれど、ひとつの絵ですから、イメージを喚起すると同時に、限定的にも作用しますよね。しかしこの小説の内容は、言葉で書かれているのですから、イメージの喚起に関して、限定がないのです。相当なところまで、イメージは大きく広がります。表紙を超えた内容ですよ。

物語の背景となっている季節は、夏なのですね。どこの夏ですか?

 ニューイングランドです。ニューイングランド沖の、小さな島です。あのあたりの夏の、強く明るい光と、その光のなかにあるいくつかの色が、登場する人物たちの気持ちと見事にかさなっていて、夏の推移、そして夏の光とそのなかの色を追っていくだけでも、この作者の感覚や力量の素晴らしさが、よくわかります。

やがて日本語に翻訳されるかもしれない、ということをいまふと思うのですが、日本語への翻訳はむずかしそうだな、という感じがしますね。

 具体的に、簡潔に、くっきりとわかりやすく書いていく、という書きかたですから、とりあえず地の文は、翻訳出来ると思います。問題は、会話ですね。比喩で言うなら、テニスにおける気のきいたストロークのやりとりによるワン・セッションのような、短い簡潔な台詞の会話なのですが、たとえばごく簡単な、いろんなふうに頻繁に使う動詞を、どう日本語にするか、むずかしいと僕は思うのです。

 この小説を支える精神と深くかかわることですが、登場する何人かの人物たちの誰もが、誰に対してもけっしてもたれかかることなく、誰もがくっきりと独立した個人なのです。そのような人物たちのあいだにこそ成立する会話だとしたら、日本にそのような人物のありかたがもしなければ、会話もまた成立しないわけで、むずかしいのはここです。日本には精神的に存在しないものを、簡単な日常の日本語で表現しなければいけないのですから。

どんなストーリーなのですか。

 ひと夏のあいだに、登場人物たちにとって、ひとつの劇的な変化が生まれる、その変化の物語です。もっとも劇的な変化は死です。十七歳の女性の一人称による記述の、彼女の母親の死の物語でした。

 有名な彫刻家が父親であり、彼の妻は、ボストンの名門の家の娘で、絵を描く人だったのですが、結婚してからは常に夫とともにいて、外でのこれといった仕事はしていないのです。語り手の十七歳の女性は、ここの夫婦の二番めの娘です。ジェニファーといいます。彼女にはヒラリーという姉がいて、姉は女優を志願しています。人物の設定や背景、そして配置は、まるで絵に描いたようですけれど、これがぜんたいにとってうまく効果を上げていました。

 この一家四人は、毎年、ニューイングランドの島にある別荘で、いっしょに夏を過ごすのです。物語のなかに描かれている夏にも、四人はこの島へ来ています。コッド岬から船で六時間のところだそうです。一家の足は、彫刻家の父親が操縦する、パイパーという軽飛行機です。物語のぜんたいは、六月、七月、八月、九月の、四つのパートに分かれています。別荘で過ごす夏とは、この四か月のことなのです。お盆をはさんで三泊四日とは、ずいぶんちがいますね。

 この四つのパートが、それぞれさらに細かく、いくつもの章に分かれています。その章のどれもが、あっさりと短く、その短い的確さのなかに、作者の鋭い頭の良さを、僕は読んでいるあいだ常に、感じていました。

 一家が夏を過ごすために別荘へ来たときには、母親はすでに癌なのです。肝臓に転移していて、助かる見込みはもうないのです。はじめのうちは、見た目にはなんら変わりなく、自分の病気のことは人に知らせず、なにごともなかったかのように、夏の恒例のパーティを気丈にきりもりしたりするのですが、ほどなく肉体的な崩壊がはじまっていきます。

 夏の推移にあわせて、母親はすこしずつ確実に崩壊していきます。説明や描写を極力すくなくした書きかたは、これで充分であるという確固たる判断にもとづく、計算ずくのもので、見事でした。

 この母親は、常に前向きの、毅然とした力のある、自分自身の哲学を持った、そして才能と容姿に恵まれた女性なのです。夫とは一心同体であり、ふたりはいつもいっしょで、このふたりが別々になったり、どちらかひとりだけとなったりすることが、まわりの誰にもおよそ考えられないような、そんな夫婦なのです。一単位の夫婦として、ふたりはたいへんに成功しているのです。しかし、彼女のほうは、死ななければならないのです。

 九月になると、この島には雨が降り霧が立ちこめ、セーターが必要な肌寒い日が続くようになります。夏の終わりです。この頃になると、母親は、まだ死んではいない、というだけの状態であり、彼女にとって来年の夏はもう絶対にあり得ません。

 夏が終わるすこしまえに、母親の四十九歳の誕生日があります。キャンドルを象徴として一本だけ立てたケーキがあり、そのキャンドルの火を、母親はやっとのことで吹き消します。

 このとき、上の娘のヒラリーが、Make a wish.と、母親に言います。なんとも言いようのない非情な、鋭いきらめきのある、しかし優しい台詞です。娘はその台詞を母親に言い、母親は、「才能のある彫刻家ともういちど結婚し、素晴らしい娘をふたり、もういちどもうけたい」と言うのです。

 母親自らによる死の宣言であると同時に、四人の家族が完璧な愛のなかにある一瞬でもあるのです。さりげなく簡潔に、二、三行で書いてあります。この場面は、この小説の頂点ですね。ここからあとは、エピローグみたいなものです。

こういう小説にとって、もっとも大事なものは、なになのでしょうか。

 さきほども言いましたけれど、誰もが誰に対しても、けっして寄りかかっていない、という事実です。ほんとうに、寄りかかっていないのです。だからこそ、その人たちのなかに、愛が成立するのです。そのときどきの、その場その場の事情にあわせて、その事情を当事者たちがなんとか納得していくための方便みたいな、自分たちはそれが愛だと思っているけれどもじつは愛とは似ても似つかない別なものではなく、純粋な、普遍的な、愛なのです。

 じつによく出来た小説でした。簡潔な説明や描写のなかに、さりげなく小さいけれども的確な工夫がいくつもこらしてあり、もっと大きな工夫もあるし、とにかくなにも言うことはないですよ。

 たとえば、娘のジェニファーは、病気の母を乗せて父親が操縦する飛行機が墜落すれば、ふたりはまず確実に死ぬから、次の日にはふたりともどこにもいず、したがってひとりだけとり残された父親に会うという悲しいことを体験せずにすむ、というアイディアを、一種の願望として得るのです。

 このアイディアが、彼女の一人称の願望として、何度もくりかえし出てきて、ついには彼女は、父親のパイパー機に、知らずに離陸してしまえばかならず墜落するような、簡単ではあるけれど決定的な細工をほどこすことまでするのです。

 その細工をするにあたっては、飛行機の構造をよく知らなければならず、飛行機は嫌いであるにもかかわらず、彼女は島で飛行機操縦のレッスンを受けます。教官である、ほぼおなじ年齢の少年を、彼女は恋人として得ます。失うだけではないのですね。この少年の造形も、こうでしかあり得ないほどに、完璧でした。

 一家で夏を過ごすためにこの島の別荘へ来るたびに、父親はその家のテラスから見た海岸を水彩でスケッチし、それを額に入れて別荘の居間の壁にかけておくのです。十何年にまたがる、十何点かの、おなじ場所から見たおなじ風景を描いた絵が居間の壁にかけてあり、すでにスペースはいっぱいになっています。

 これから先のをかける場所がないから、十数点の絵を配置しなおし、そのことによってさらにあらたなスペースを作り出すといい、というような母と娘のやりとりが出てきますし、その海岸は年ごとに波に浸食され、狭くなっていきつつある、という工夫すらしてあるのです。描いた順番に見ていくと、海岸はどんどん狭くなっています。そして、その絵は今年で終わりであり、来年も父親がおなじスケッチをすることは、まずあり得ないのです。こんな繊細な、しかも決定的な工夫がいたるところにこらしてあり、それらすべてが、さきほどの誕生日のクライマックスを支えるのです。

最後は、どんなふうに終わるのですか。

 別荘で過ごした夏を終わって、父親は、夏のはじめに比べるともはや正視に堪えないほどに変化してしまった妻をともない、ジェニファーのボーイフレンドが操縦する飛行機で、ボストンへ帰っていきます。姉といっしょにジェニファーはさらに一日だけ別荘に残り、来年の夏まで閉じておくための後始末をし、次の日、ボストンへ帰ります。非常に正しい終わりかただと、僕は思います。

タイトルが、SUMMERというひと言であるのは、象徴的ですね。

 SUMMERの一語を、夏、というふうに名詞でとらえると、季節としての夏や、それによって影響される心の状態などを普通にはイメージするのでしょうけれど、動詞的にとらえたほうが正解だと、僕は思います。普通の動詞としては、夏を過ごすとか、避暑をする、という意味がありますが、それをもっと広げて、夏にたいへんな出来事があり、それを正面から受けとめて乗り越えていく、というような意味の動詞ですね。

(了)

底本:片岡義男エッセイ・コレクション『本を読む人』太田出版 一九九五年

今日の1冊|Lisa Grunwald, Summer, 1987

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リサ・グリュンワルド 女性 小説 片岡義男エッセイ・コレクション『本を読む人』
2017年9月10日 00:00