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ロミオはジュリエットに誠実に。そして誰もが、それぞれの夏を越えていく(1)

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 彼女との待ち合わせの町に、僕は午前中に到着した。ホテルに、彼女から電話がかかってきた。待ち合わせ場所までの道順を、彼女は電話で僕に教えてくれた。その道順を、僕は、ファイロファクスの黄色いページに書きとめておいた。

 町の西の端から海にむけて、細く長く、しっぽのように、半島が湾曲しつつのびていた。その半島の突端にある、長く続く海岸を、彼女は待ち合わせ場所として指定していた。

 半島の途中まで、電車があった。終点で駅の外へ出てくると、梅雨に入る寸前の、夏のような晴天の日には、海の香りが満ちていた。

 真夏なら、半島の突端までバスがあるという。だから僕はタクシーに乗った。海に沿った道路を、半島の突端にむかった。道路はすこしずつ高くなっていき、やがて広く海を見下ろすようになった。

 海岸がはじまっているところで、僕はタクシーを降りた。果樹園のように樹が植えてある部分が、長く帯状に、道路の海側に続いていた。そのなかを抜けていき、僕は海岸を見下ろす高台に出た。草の生えたスロープの下に、淡いベージュ色の海岸が、半島のこちら側から突端を越えてむこう側まで、続いていた。海岸には陽が射し風が吹き、人の姿はなかった。

 高台の縁に沿った道をしばらく歩いていくと、人の姿が見えた。彼女だった。僕を見て、彼女は手を振っていた。僕も手を上げた。

 植えこみを背にして、芝生が広い庭のように広がっていた。その中央に、彼女は、ディレクターズ・チェアをふたつ、ならべていた。片方の椅子にすわってゆったりと脚を組んでいる彼女は、サングラスごしに僕を見て笑顔だった。

 僕も、ディレクターズ・チェアにすわった。頭上からは陽ざしが明るくきらめいて降り注ぎ、海からは心地良く風が吹いた。宿題を発表する場所としては、最高のロケーションのひとつだと、僕は思った。ディレクターズ・チェアをふたつ、折りたたんでメルセデスに乗せ、町からここまで半島の反対側を走って来たのだと、彼女は言っていた。

 風に彼女の髪がなびき、スカートの裾が軽やかにはためき、僕としては可能なかぎり丁寧に言葉を選びつつ、メモを見ながら彼女を聞き手に、出来るだけきちんと喋らざるを得ない状況だった。

いまアメリカで仕事をしている、小説のエディターたちの仕事ぶりについて、思いをはせることはないですか。

 ありますよ。小説のエディターたちが働いている現場を、僕は直接には知らないのです。小説ではない本を作る現場についてなら、かなり知っています。そこからの類推とか、間接的に知ることの出来る部分、あるいは、出来あがった商品である本を読んでいて感じとることの出来るものなどを頭のなかでひとつにまとめていくと、女性エディターたちの力を、僕は強く感じます。

 女性のエディターたちが、いまいい仕事をしているように、僕は思います。いろんな出版社の要職に、何人もの力のある女性たちがいて、それぞれに力を発揮しています。その現状を、商品として送り出されてくる本のほうから見ていると、ひとつの興味深い流れのようなものが、すでにはっきりとあるように思います。あるひとつの出版社が刊行していく小説のなかに、担当女性エディターの名を冠したシリーズが生まれてくるというようなことは、具体的に手に取ることの出来る、新しい出来事です。

彼女たちの仕事の、どのあたりにもっとも共鳴しますか。

 小説に限って見ていくと、ポピュラー・フィクションというものの、質の高さ、つまり面白さを、充分に期待出来るようになりつつあることが、僕はうれしいです。文学、としてとらえると読者をせまく限定することになるし、通俗小説として扱ってしまうと、それぞれの作品の質に対して礼を失することになる、という微妙な中間領域に位置する小説が、この世のなかにはたくさんあるのです。ポピュラー・フィクションとしか言いようがないので、僕はそう言うのです。これから、この領域が、期待出来そうです。

 言葉で描かれた小説の世界の、面白さの質の水準が一定の高さをクリアしていて、個性豊かにオリジナルであるとき、その作品を文学としては扱わず、コマーシャルな結果を期待出来るような、つまり広く多数の読者に売れるような扱いで刊行していくという、ふたつの異なったテーマのバランスをうまく取る作業が、女性のエディターたちは直感的にうまいような気がするのです。実際に、彼女たちは、そのような領域で大きな実績をあげつつあります。

 面白さの質をかなり高いところに維持した小説が多くの読者に届くということは、たとえばこの僕のところにも届いてくるということですから、これは非常にうれしいことです。面白い小説を読む楽しさを、作家たちから受けとるだけではなく、作家たちのむこうで仕事をしている、すぐれた女性の編集者たちの力としても感じることが出来るようになったのは、うれしいことです。

最近の例を、なにかひとつ、あげてくれませんか。

 First novelがいいですよ。固有名詞ではなく、普通名詞です。第一作ですね。処女作。その作家にとっての、最初の長編小説です。背後に編集者の力をもっとも強く感じとることの出来るのは、それまで誰も知らなかった新人作家の、最初の長編小説だからです。

 どの作家も、かならず一度は第一作を書くのですから、これまでに登場してきた作家の数だけ、第一作があるのです。第一作というものは、したがって珍しくもなんともないのですが、いまあらためて、僕は第一作というものに興味を抱いています。

 明日、もし僕がブックストアへ出かけていけば、その店の棚で、新しい作家の第一作を一冊、僕はみつけるかもしれないのです。名前も背景も、とにかくなにも知っていないひとりの新人作家が、この一、二年のあいだに、あるいはこの数年のあいだに書いてきて最終的にかたちをなしたその第一作を、完成品として、ある日、僕はブックストアの棚に発見するのです。

 目にとまり、面白そうだなと思い、手に取ります。表紙の絵を見たり、内容の簡単な紹介や書評の引用を読んだりしますね。僕の興味のありかたと重なってくるような面白さをその本に感じると、ぜひ読みたいと思うし、引用されている書評は、どれもみな、いろんな言いかたでその作品を絶賛していたりします。

 僕はその本を買いますよ。作者がどんな人なのか、どのような状況のなかでその作品を書いたのか、予備知識は当然なにも持っていない僕の手のなかで、その第一作は、作品として完全にそれのみで、独立しているのです。

 その作品を書き、世のなかへ出していくことにより、ようやく第一作を持った作家となる人の、その第一作の原稿とつきあい、いかなるプロセスを経るにせよとにかくその作品を完成させ、コマーシャルな結果を期待しつつ、同時に質の高さにも自信を持って刊行していくのは、なかなか出来ないことなのです。そうして出来あがった一冊の本を読者として手に取るとき、昔はそれほどでもなかったのですが、いまはエディターの力というものを、その本の背後に僕は強く感じています。

ハードカヴァーだと、うしろに作者の写真が白黒で載せてあり、簡単な紹介文がありますね。ペーパーバックでも、写真が載っていることがありますし、紹介文もありますね。

 紹介文は、ほんの五、六行でしょう。どの大学を出たか、というような簡単な学歴と、職歴、そしていまはどこに住んでいて、妻とふたりの子供がある、といった程度のことしか書いてないですから、その作者に関しては、事実上は依然としてなにもわからないままなのです。

 しかし、じつによくわかるのは、その短い簡単な紹介文の最後のワン・センテンスであるThis is his first novel.という文章ですね。第一作、という言葉が僕の気持ちのなかに引き起こす期待や興奮のむこうに、その第一作を完成品として世に出したエディターの仕事ぶりを、僕は思います。

その作品が面白いときは、なおさらですね。

 そのとおりです。原稿が、一部分にせよ形をなしてから、ひとつの可能性としてエディターの手に渡り、出版に値するかどうかの点検を受けるのが普通のありかただと思うのですが、どんな経路でその原稿がエディターの手に渡ったか、原稿はどんなふうだったのか、ぜんたいのかたちをなすまでに作者とエディターとのあいだにどのようなやりとりがあったのか、書きなおしはしたのか、エディターから作者はどのような提案や忠告、あるいは勇気づけを得たのか、といった背景への興味がわいてきますが、そのような興味は、最終的には、すべてエディターの仕事ぶりへの興味に帰結します。

 この原稿にはなにかある、といういちばん最初の感触を経て、これは良い作品になる、という判断がやがてあり、これを自分のところから出版しよう、という決意が最終的にあるのです。一冊の小説は、相当に複雑なプロセスをかいくぐって、僕たち読者の手に届くのです。届くまでのプロセスは、そのほぼぜんたいが、そっくりそのまま、エディターの力量なのですから、興味はつきないですね。

(2へつづく)

底本:片岡義男エッセイ・コレクション『本を読む人』太田出版 一九九五年


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2017年9月8日 00:00
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