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日本語の発想による英語

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 日本語から英語へ単純に置き換えることの出来ないものの極小例は、「の」は「オヴ」、「から」は「フラム」、というような単語、そして「一杯やりましょうよ」は「レッツ・ドゥ・ワン・カップ」といった片言だろう。日本語世界から英語世界へと置き換えることの出来ないものの、極大はなにだろうか。英語とはまったく違う日本語の発想の上に立って展開される世界観。極大を簡単に表現するなら、それはおそらくこういうものだ。

 日本語による発想の上に立って展開される世界観とは、日本語の背後にある日本社会の運営システムや文化の、ぜんたいのことだ。自分たちのものの考えかた。自分たちのありかた。自分たちの社会や国家の機能のしかた。そしてそれらと自分との関係のありかた。日本語から英語へと、単純には置き換えることの出来ないものの極大は、これだ。

 自分たちの社会システムや文化が、単純には何語にも置き換えることが不可能である事実は、日本語によって営まれるシステムや文化のぜんたいが、強い独自性を持っていることを意味する。その独自性が、英語世界というおなじく強烈な独自性の鏡に、映し出される。あるいは、英語世界という分厚く強固な壁に衝突して、跳ね返される。鏡に映るもの、壁に当たって跳ね返ってくるものを、よく見るといい。それはいったいなになのか。

 日本語ではない世界とは、日本語の外にある世界のすべてだ。そこにはたとえば英語世界がある。一般的な日本人の身の上における、この英語世界との最初の小さな接触は、学校における英語教育だ。そしてこの教育のほとんどすべては、なんの役にも立たず駄目であるという地点に、ひとまず到達する。英語教育だけにかぎらないが、駄目の頂点に大学があり、高校や中学校、小学校などがそれに奉仕している。

 この駄目さは、しかし日本国内では、一定の機能を果たしている。自分の都合を成立させるため、という機能だ。学校教育における日本の都合とは、能力も思考も均質に揃った、組織に対して忠実で勤勉な人材を、企業群のために大量に供給し続ける必要だ。この必要に、官僚という手続き管理者は、応えすぎるほどに応えた。教育の駄目さが、閉鎖した国内文脈のなかでは、驚くべきことに、国を支えるシステムとして機能した。

 このシステムのなかでは、英語という外国語は、進学のための試験で取る点数という次元にまで、貶められている。こんな数字はおそろしく小さなしかも仮のものであり、国外では絶対に通用しない。国外でこそ真に通用すべきものが、国内でしか通用しないものへと、変形され変質されている。

 自分たちのこのような国内システムが、英語という鏡に映し出される。自分の都合を満足させることだけで完全に自己充足するという種類の、内向きな日本システムだ。日本の学校で慣習的におこなわれている英語の勉強は、このシステムの一部分であり、当然のこととしてそれは、英語そのものからは恐ろしいほど遠く隔たっている。

 場所は日本のなかでも外でも、どこでもいい。いつもの自分たちの言葉である日本語の外へ出て、最初から日本語の外にいる異質な人たちと、たとえば英語を共通語として、おたがいに意思をつうじさせていくとき、なんの無理もなしにつうじる様子こそ、言葉がその人の体に根を下ろしているなによりの証拠だ。そしてそのような証拠が、その人の基本的な魅力を作っていく。他者に対して自分の言葉をつうじさせようとする工夫も意思もない人が、その他者に感じさせる魅力のなさや不快さあるいは不気味さなども、日本人にとっての英語という鏡は映し出す。

 自分の英語が他者につうじることの身体性や魅力などは、日本の学校教育の英語には、いっさいない。そんなものは無視したとか思いもつかないということではなく、自分の都合という視野に入ってはこないものだから、したがってすべて切り捨てたということでしかない。問題は英語にかぎらない。日本語世界の内部での、人のありかたそのものが、日本語の外で通用しない。日本というシステムが持つもっとも大きな特徴は、このあたりにある。

 自分が学んだ外国語によって、相当に高度なところまで、そしてかなり細かな部分まで、異質な他者と意思をつうじさせることが出来る身体性が、確実なものとして存在していて初めて、その人の外国語は魅力を持つ。英語の勉強をとおしてめざすべきは、このような魅力であるはずだ。

 日本語世界内部で生きていくための言葉としては、精神にも肉体にも張りついて剝がせない言葉として、いつも使っている自国語がある。自分は言葉にはなんら不自由していないという認識が、自国語のおかげで常に誰の意識の根底にもある。そしてその認識の内部にとどまったまま、外の言葉である英語を、日本語でなんとかしたいものだ、などと思う。

 成りゆきまかせで身につけた日本語という自国語によって運営される、自国人どうしの日常のみが圧倒的に支配するいまの日本という状態は、注目に値する。

 日本語は関係の維持や調整のための言葉だ。人と人との関係は、日本語世界では大きく二種類に分かれる。内と外のふたとおりだ。だから日本語には、内輪の言葉と不特定多数向けの紋切り型のふたつが、強力な二本の柱として立っている。このふたとおりの言葉によって、現実は充分にこなしていくことが可能だ。

 内輪のための言葉とは、なんらかの組織や集団、グループなどに所属している人たちが、その組織内部でおたがいに日常的に使う言葉だ。隅々にいたるまですでにとっくに出来上がっている組織内部での、成員どうしの相互関係の維持や微調整のための、細々としたどうでもいいようなことのための言葉であり、そのような言葉にふさわしく、なあなあの世界と呼ばれることが多い。これが日本的な和などと呼ばれた時代もあった。内輪は日本に無数にある。そしてこのような単なる内輪を、和という普遍的な価値だと人々が思い込んだ時代が、かつてあった。

 日本における内輪の代表は、広い意味での会社組織だ。日本では労働人口の七十パーセント以上の人たちが、なんらかの組織に雇用されている。日本は会社組織で埋めつくされた文化だ。だから内輪の言葉は、特に会社の内部で、極限に近いところまで発達した。

 紋切り型の言葉のもっとも一般的な、したがってもっとも頻度の多い使用例は、会社という内輪からその外に向けて、言葉が発せられるときだ。自分の都合にとっては必要ないから、本質的にはいっさいかかわらないことを前提にした対象に向けての、固く冷たく一方的な、排除的で拒絶的な言葉だ。この紋切り型の言葉も、戦後の日本という会社立国のなかで、行きつくところまですでに行きついた感がある。内容をなんらとらえることのない、したがって責任の発生しにくいしかけとなっている、字面だけは漢字でもっともらしく整った言い換え用法は、その典型例だ。

 個人が自分の意見を自分の言葉できちんと喋って人に伝えること、つまり自前で集めた充分な量の正確な情報を、自分の頭で的確に分析した上に立って、人前で論を展開してその人たちを説得するといった作業に、日本社会は価値を認めていない。そのような価値が発揮されるルートが社会システムのなかに存在しないのだから、言葉はけっしてそのようには使われない。

 なにのどこがどのように問題なのか、それを自分はどうしたいと思うのか、そのことに関してどのような提案があるのか、自分はなにをどう引き受けるのか。引き受ける領域とそれに対する自分の責任の表明としての、自分が喋る言葉のすべてといったことに、一度たりとも思いをおよぼすことなく、もちろん実践などせずに、人々は人生を送っていく。社会システムがそのようだから、当然の結果として、人々のありかたはそうなる。

 喋る言葉がこうなら、書く言葉もそれにふさわしいありかたとなっている。小、中、高、さらには大学で、日本語で文章を書くトレーニングが、いったいどのようにおこなわれているか。そのようなトレーニングのための時間は、現実としてはかぎりなくゼロに近いのではないか。ごく少ないトレーニングが、論理のための言葉づかいのトレーニングであると自覚され実践されている様子を、僕は想像しにくい。

 もっとも一般的に実践されているのは、感じたままに書きなさい、という作文作法ではないか。とにかく書き手の主観のおもむくままに書く、という方法だ。おぼろげに頭に浮かぶことのぜんたいを、端から列挙するかのごとく、絵巻物のように書いていく、などとしばしば表現される方法だ。

 構造が徹底して絵巻物なら、それもいいかと僕は思う。しかし徹底はされていない。いまここではこれについてなんとなく書いていて、ふと思いついてそこのそれについて少し書き、視点はまた動いてあそこのあれについて書く、というふうにぜんたいは書かれていく。結果として、その文章のなかでひとつの方向が見とおせるようなことは、起こり得ない。中心もない。論理の方向を定めた前進性など、望むべくもない。出来上がった文章は、なにを言いたいのか不明のものとなる。

 思ったとおりを書く、つまり思いつくままに書くとは、思いつかないこともたいへん多いままに書いていく、ということでもある。なにをどう書いてもいい、ということだ。まったく不充分なぜんたいを補うために、主観的に教訓を引き出すという、文芸的にひねこびた策がしばしば採択される。

 そこに残るのはなんの役にも立たない文章だ。このような文章作法は、会社組織内部の人になってからも、継承されていく。書くための準備が充分ではないから情報が決定的に不足していて、整理は行き届かないから問題はいっこうに見えず、解決に向けての論理の道筋など、望むのは最初から無理というような文章を、多くの人が書く。

 片仮名書きされて日本語となった外国語が、いまの日本語のなかでどのような機能を果たしているかについては、すでに書いた。片仮名語について書いたなら、漢字語にも触れないわけにはいかない。漢字はもとは絵だ。絵であるとは、意味そのものである、ということだ。意味そのものとして漢字は機能的に整理されきっているから、きわめて具体的で端的な意味を持つと同時に、当てはまる範囲の恐ろしく広い、抽象的な概念語としても使える性格を、漢字語は強く持っている。

 漢字語に託されたもっとも重要な機能は、ひと目見ればすべてわかる、という機能だ。音声を聞いただけでは、どんな漢字がどのようにつらなっている言葉なのか、見当すらつかないような漢字語でも、紙の上に文字となっているのを見れば、ひと目ですべてがわかる。内容はわからなくても、だいたいこういうことという把握は、たちどころに出来る。

 ひと目ですべてがわかるとは、真の理解にせよ単なる納得にせよ、わかりかたの迅速きわまりない速度、つまり効率の良さだ。しかし非常に多くの場合、漢字を見るだけでは、真の理解は出来ないような気がする。単なる納得をするだけでいいなら、漢字による言葉をひと目見た次の瞬間には、達成出来てしまう。効率の良さを妨げない次元での納得を、漢字によって次々に迅速におこない、全員に共通した納得の幅を広げていく。日本で漢字が果たしたのは、このような機能だった。

 外国人にとって日本の漢字の学習は非常に難しい、としばしば言われる。難しいのは漢字そのものではなく、それらの使われかたに密着して存在する、漢字による日本人たちの物事の理解のしかただ。どの次元でどのように納得し、次の問題にそれをどうつなげながら、理解や情報を共有していくのか。これは日本そのものだから、初歩的な学習者の段階にある外国人には、確かにわかりにくいだろう。

 漢字言葉を縦横に使うことによる効率の良さに支えられて、明治以降の日本はここまで来た。漢字があったがゆえに、たとえば学校で教える全教科を、日本語で教えることが出来た。いまでもそうだ。英語ですら日本語で教えている。日本の学校における教育とは、なにごとにせよ全員がおなじ程度に揃って迅速に納得するという、効率の高さと均一さとを目的とした、漢字教育だった。

 ずっと続いてきたこのような教育に正面から対立する出来事として、僕の知るかぎりではいまのところ最初にして唯一の出来事が、沖縄にある。主としてアメリカの男性軍人と地元の日本女性とのあいだに生まれた、多くの場合は二重国籍の子供たちが、英語による教育を日本に対して望んでいる、という出来事だ。

 英語による教育を沖縄という地元で受けようとすると、選択肢は厳しく限られる。基地の学校は有料で、費用はかならずしも安くはない。外国人学校は一校だけ。アメリカ人の経営するフリー・スクールが、数百人の教育を引き受けている。以上のような現状のなかで、日本語で教えているように英語でも自分たちに教えてほしいと、子供たちは日本に求めている。

 日本の国籍でいくなら日本の教育の枠のなかに入り、すべての教育を日本語で受けるようにと文部省なら言いたいだろう。二重国籍の子供たちに対する、日本語以外の言葉による教育は、制度として保障しなくてはいけない。日本国籍だけの子供が、僕も英語で教育を受けたいと言ったなら、その子供は日本でどのような体験をすることになるのだろうか。

 日本が学校の全教科を日本語で教えてきたのは、日本という国家の意志の表明だ。国家意志としての言葉の問題は、一九九八年のカリフォルニアにもひとつあった。カリフォルニア州では一九六八年から、英語とスペイン語との二か国語教育をおこなってきた。英語が得意ではないスペイン語系の移民に対する、一種の救済策だ。この二か国語教育が、住民投票の結果、廃止されることになった。廃止と存続の票は二対一にも分かれたという。

 バイリンガル教育とは、カリフォルニア州の場合は、スペイン語系の人たちがいつまでもスペイン語に頼り続ける、ということだった。そのようなバイリンガル教育は英語の側にとっては負担以外のなにものでもない、という現実論は以前から強くあった。正式な第二言語として選ばれたのがなぜスペイン語だけなのかという現実論も、アメリカでは無視出来ない。

 このようなさまざまな現実論をはるかに超える最高の現実は、スペイン語に頼り続けているといつまでたってもアメリカの価値の内部には入れず、その当然の結果として人生はいっこうに埒が明かない、という現実だ。この現実はアメリカという国の意志だ。その意志をついに受けてと言うべきか、アメリカでの人生に成功したければ英語でいくほかないと、スペイン語系の人たちも意志を表明した。

 漢字という便利きわまりないものを徹底的に利用してきた日本という国家の意志について考えるとき、カリフォルニアのバイリンガル教育をめぐる問題は、参考になると僕は思う。

 どういうことだかひと目見ればわかるという性格、そして幅の広い概念語であると同時に、たいそう具体的な言葉でもあるという性格、そしてさらに、ひとつひとつの漢字は端的な意味として整理されきっている、といった多面的な性格がひとつに溶け合うと、ふたつ以上の漢字をくっつけて新たな造語を作る作業が、おそらくは無限に可能であるという、さらにもうひとつの性格が生まれる。漢字は冷たくて固いのだが、造語においては臨機応変な柔軟さを発揮する。発揮された結果の造語は、ほとんどの場合、固くて冷たい。

 少ないという意味の「少」、子供という意味の「子」、そしてなにかが変化して様子やかたちを変えるという意味の「化」の三つをこの順番でつなげてひとつにすると、少子化という新語が出来る。子供の数が少なくなっていきつつある現象、というような意味だ。その現象にはなんの理由も原因もなく、いつのまにか子供の数が少なくなっていく現象だけがそこにある、という印象を大きく含んだ言葉だ。いったん説明を聞いてしまえば、なんのことだかひと目でわかるから、少子化という新語を誰もが多用することになる。

「化」というひと文字がたいへんに曲者だ。曲者として意図的に使ってあるから、たいへんな曲者になる。時間の経過のなかでいつのまにかそうなった、という印象を人々にあたえる役を担った曲者だ。子供の数が少なくなる原因は、ただひとつしかない。人々が子供を生まないからだ。なぜ生まなくなったか。いろんな理由があり得るが、もっとも大きな理由は、いまのこの国で子供を生んで育てるなんてまっぴらだ、と人々が身にしみて痛感しているからという理由だ。こんな理由で人々が子供を生まなくなるような国は、国の運営のしかたとしておそらく最大級の失敗を犯している。

 少子化という言葉を作った人は、そのことをよく承知している。承知しているからこそ、人々には事態を直視させずに隠蔽すべしという方針で、少子化という言葉をひねり出した。人々に事態を直視させないでおく利点は、問題の核心がぼかされ、したがってその核心に関して追及されることがなく、責任が発生しないということだ。

 問題の核心を意図的にはずすような造語、あるいは実体はほとんどなにもないのに字面だけはもっともらしいから、その言葉がひとつそこにあるだけで既成事実となるような造語が、戦後の日本では加速度的に増加し、いまはすでに飽和点に近い。

 少子化という言葉は、漢字による造語としては単純なほうだが、事情をいっさい知らない人が「ショーシカ」という音声だけを聞いても、少子化という三文字を思い浮かべることはまず不可能だ。背景にある事情のあらましと、少子化という造語をいったん知ってしまえば、以後は文字を見るだけですべては一目瞭然だ。文字を見ただけで事態を一目瞭然に納得する能力を持っていないと、日本ではやっていけない。

「ショーシカ」という音声だけでも、少子化という言葉がすでによくなじんだ文脈に助けられればなんのことだかわかるが、その音声はあくまでも文字に依存している。音声による伝達と受容だけでは完全ではなく、文字を見て納得してこそ完全であるという基本システムを、日本の漢字は作った。

 言葉はなにのための道具なのか。日本語は良く言ってひとりひとりの心に奉仕するものだ。あらゆるものが、言葉によって、主観という曖昧さのなかに、安住の地を見つける。とにかくすべては主観のなかにある、ということで問題は完結してしまう。英語は人の心の外にあるものに奉仕する。事象や事柄、実際に起きたこと、現実、そこにあるその問題、などに奉仕する。

 奉仕するとは、それらを可能なかぎり正確にとらえ、観察し分析を加えて問題を見つけ、論理的に対応して解決していく作業の、始まりから終わりまでを意味する。日本語世界では、これとは反対のことが、ごく普通のこととして、常に起こっているのではないか。

 たとえば文章を読むとき、人々はぜんたいを漫然と読む。読めば誰でもなにかを感じる。私はこう感じました、私はそう思いました、という感想が残るだけだ。書かれていることをその機能だけでとらえる読みかたなど、思ってもみないことであり、聞いたこともない。だから文章がいくら書かれても、それがいくら読まれても、言葉は論理的には機能していかない。社会システムがそのような仕組みになっている。言葉が論理的に機能することなど、社会は望んでいないし必要ともしていない。

 英語世界で問題にされるのは、これはそうであるとか、それはそうではないといった、主観を離れたところにある事実関係だ。英語では世界をそのように認識する。主観を可能なかぎり客観へと接近させようとする。そのためには、言葉は論理的にならざるを得ない。逃げ場がある言葉を許容しない。しかし日本語世界には、逃げ場がたくさんある。そのもっとも中心的なものは、事実の直視を回避するために張りめぐらせた、さまざまな工夫だ。

 英語で自分の意思を相手に伝えるとき、まず日本語が頭に浮かぶなら、その日本語による表現を細かく砕き、純粋に意味だけを残し、それを英語にするといいということについて、僕はすでに書いた。

 純粋に意味だけにするとは、自国語ゆえに多くなる言葉数のうち、考えてみれば必要ないもの、言わずもがなの部分、きわめて日本語的な表現や言いまわしなどを、自分の使う言葉のなかからすべて捨ててしまうことを意味する。あとに残るのは要するに論理だけであり、それを筋道に沿って配列し、正しい英語で述べていく。

 自国語である日本語でなされる発想から、無駄なものを可能なかぎり削り落とし、自分の論理の展開のために必要なものだけにし、もっともわかりやすい筋道に沿ってそれらを配列し、正しい英語表現という共通のルールに乗せて、相手に届ける。このことのためにこそ英語が必要なのであり、このことのためにこそ英語を勉強するはずなのだが、日本人の多くがめざすのは、安直に覚えることが出来てすぐに役に立つという種類の、英会話だ。

 自分のものとして獲得しようとする言葉の質が、きわめて低い。それに志も低い。目標とも言えないような低いところに、目標とする言葉が設定してある。絶対に自分自身以外ではあり得ないこの自分、という存在が使う言葉のひとつとなるはずの英語になによりも必要なのは、用法の正しさの上に立ったスタイルだ。

 スタイルとは思想のことだ。手軽に安直に覚えてすぐ役に立つ種類の言葉に、思想など託せるものではない。そのような言葉にもしスタイルがあるとするなら、それはペラペラというスタイルだ。ペラペラという言葉は、まことに言い得て妙な、その意味では正しい言葉だった。

 外国語を正しく学習していく過程において、その学習者はおおむね孤独であるという原則は、無理なく成立すると僕は思う。言葉というものは、孤独において、もっともよく学べるのではないか。そして、孤独においてというありかたは、日本人にとっては不得意科目の最上位に、位置するものなのではないか。

 人生の最初から最後まで、なんらかの集団や組織の成員として過ごすことが、日本人の生きかたやありかたの大前提となっている、と日本人自らが盛んに言う。自分たちは常に群れのなかにいて、同調や微調整に明け暮れているという。このようなありかたが身につききった時期に、会社の仕事の一端というような切実さをともなって、英語を勉強する必要が立ち上がったりする。

 彼らに英語がきちんと学べないのは、彼らが孤独というものを知らないからではないかという仮説は、仮説であることを越えて、充分に成立する。孤独を知らないとは、考え抜けるところまでとにかく徹底して考え抜く、といった作業と無縁のままであるという意味だ。徹底して考え抜く作業のなかから、言葉の機能が生まれていく。言葉は徹底して考え抜くための道具だ。

 群れのなかの同調者たちには、自前で徹底して考え抜く作業は、単に不必要であるだけではなく、明らかに邪魔なものですらある。だから彼らには、その真の意味においては、じつは言葉すら必要ではない。日本人の日本語という大問題を、日本人は引き受けることが出来るのかどうか。

底本:『日本語で生きるとは』筑摩書房 一九九九年


『日本語で生きるとは』 バイリンガル 日本語 英語
2017年8月17日 00:00
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