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拡大にまきこまれた

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 水田稲作の村落から始まった、あくまでも個々の現実に則してものごとを考え解決していくという方針は、外から入ってくるもののうち、都合のいいところだけ採り入れてつなぎ合わせていくという、おなじく現実的な方針と合体した。たとえば外国から渡来してくる技術に関して、いらないものはいらないものとして排除し、必要なものだけを受け入れて研究し、工夫と改良を加えては拡大させていく方針が、明治に変わる頃にはすでに日本のものとして定着していた。

 時代の進展とは技術の進歩のことだ。進歩とは、技術の機能範囲が拡大されることだ。そしてその拡大に支えられて、人口が増加した。進展していく時代のなかで、日本には鎖国から開国への推移があった。

 鎖国という言いかたは、おそらく間違いだろう。たいへんに巧妙な管理、と言ったほうがいい。日本はアメリカに開国された、開国しなければ武力でこじ開けられたはず、などと言われているが、日本がおこなったのは、開かずにいることに予測されるコストを、開くことへのコストに転換することだった。

 開国とは、国際情勢にまきこまれた上で、拡大を自ら選んでいくという方針だった。開いたあと、そこから前方に向けて拡大していくことを可能にする土台が自分のところにあるのかないのかに関して、日本はあると判断した。

 西欧の技術や制度だけが、いきなり大量に、日本に注ぎ込まれることになった。追いつき追い越せとは、きわめてわかりやすいかたちと内容での、まきこまれにほかならない。だから開国は、まきこまれたことによる拡大という方針の、決定的な肯定だった。

 当時としては巨大な資本を投下して、大量生産の工場を作ること。その工場での大量生産を引き受ける、全領域にわたる大量の人材を育成すること。作った物を売るための大きな市場を確保すること。拡大の現実的な主題はこの三つだった。この拡大がいかにおこなわれたか、明治からの歴史年表を拾い読みするだけでも、よくわかる。

 明治と改元されたのは一八六八年の九月八日のことだ。その九月の二十日、京都を出発した天皇は、十月十三日に東京に到着した。途中で道草をくったからこうなったのではない。歩く。人のかつぐ駕籠に乗る。馬に乗る。馬や牛の引く車に乗る。交通手段としてはそれだけしかなかったから、京都から東京までそれだけの日数がかかった。

 その四十四年後、明治四十五年、一九一二年の六月、東京の新橋から下関まで、展望車つきの特急列車が定期運行を開始した。特急列車だけが単独に実現されたのではなく、周辺が広く拡大されつつ上昇したことを考えに入れると、四十四年はけっしてかかりすぎではなく、むしろ早すぎるほどに早い。これは激変と言うべき種類の変化だ。

 大正は十五年続いた。その三年めには、日本は第一次世界大戦に参加した。昭和に改まる前年、大正十四年、コール・サインがJOAKの東京放送局が、試験放送を開始した。おなじ年に神田と上野のあいだの高架が完成し、山手線は環状運転が出来るようになった。

 そして昭和。太平洋戦争開戦の年、昭和十六年、一九四一年には、国家総動員法が改正され、国家の権限が大幅に拡大された内容となって、施行された。国民学校令や生活必需物資統制令が公布され、大都市では米が配給通帳制になった。乗用車のガソリンが八十パーセントまで使用制限を受けるようになり、国民勤労報国協力令が公布された。電球は切れたのと引き換えに新品を販売すべし、などと商工省が通達を発したりした。

 次の年、昭和十七年、マニラの占領からガダルカナル島攻防の失敗と撤退までの年だが、関門海底トンネルの竣工と、食塩の通帳配給制、衣料・味噌醬油の切符制の開始という、大きすぎる対比が、年表に列挙してある項目のなかから僕をとらえる。

 日本は明らかに無理をしていた。無理と言っても、ちょっと尋常ではない種類の無理だ。拡大に向けて限度いっぱいに突進していく、という方針だったらしい。このような突進を可能にするには、国内のあらゆるシステムが、すさまじい強さでひとつの方向に統制されている必要がある。統制は強力になされていた。

 歴史年表に記載してある項目で観察するこの時代は、見れば見るほど悲惨なものだ。拡大すなわち戦争という判断の誤りが、惨憺たる時代を作った。なぜ戦争をしたか。拡大のためだ。なぜ拡大をめざしたか。不足を補うためだ。なにが不足していたのか。日本には資源がほとんどなかった。だからまず海外に資源の調達先を確保しなければならなかった。その資源で物を作る工場が、国内には不足していた。それだけの資本がまだ整っていなかったからだ。作った物を売ることの出来る市場もなかった。

 近代化とは工業化だったが、それと同時に日本は、軍事化も強力に推し進めた。結果として物資も生産力もそちらへまわってしまい、人々の生活は大きく制限を受け続けた。財閥と軍部とが結託して見つけたのは、武力による外への拡大という活路だった。

 一九〇三年まで戻ろう。明治三十六年、東京の新橋と品川とのあいだに、東京電気鉄道が開業した。日比谷公園が開園した。東京がまだやっとこの程度だったのに、参謀本部・軍令部首脳会議は、開戦時の陸海軍共同作戦計画を決定したりしていた。開戦とは、日露戦争の開戦だ。

 一九〇四年、明治三十七年、日露戦争を始めた日本は、徴兵令を改正して、より戦闘的なものにした。一九〇六年、明治三十九年、年表のなかの言葉によれば、サンフランシスコの学務局、おそらくスクール・ボードだと思うが、日本人学童の隔離を命令した。アメリカ西海岸における排日の気運高まる、というやつだ。

 一九〇七年、東京の株式は暴落した。日本人労働者移民のアメリカへの渡航を制限するように、アメリカの駐日大使は日本に要請した。一九一四年、日本海軍は赤道以北のドイツ領南洋諸島を占領した。一九二〇年、広島県の呉で長門という戦艦が完成した。

 一九二五年、大正十四年、治安維持法が成立して施行された。外への拡大に対する、たとえばアメリカからのさまざまな抵抗を受けとめながらも、日本は無理に無理を重ねていた。外への拡大というただひとつの方向に向けて、その無理は国内のすべてを強力に統制した。

 一九三一年、昭和六年、日本は満洲事変を開始した。事変とは、日本による言い換えだ。一九三六年、五相会議で「国策の基準」というものが決定された。なおも軍事拡張して外へ出ていく、という方針だ。次の年、国際連盟の総会は、日本の対外行動を非難する決議をした。そしてこの年、日本は大本営を設置した。

 一九三九年の日本は、朝鮮で創氏改名を強行した。一九四〇年、航空用のガソリンの西半球以外への輸出を、アメリカは禁止した。一九四一年、昭和十六年の日本は、すでに書いたとおり、国家総動員法の日本だった。国内のあらゆる領域を官僚が強力に統制し、外への軍事拡大というただひとつの方向に向けて、可能なかぎりの圧力を人々の生活にかけた。

 日本国内のすべては、国策を遂行する官僚によって、厳しく統一されていった。そのことの結果として生まれた一点集中の力が、戦前そして戦中の全期間をとおして、外への拡大つまり戦争を支えた。戦後の日本では、占領が終わるとすぐに、産業や金融の当事者たちは、自分たちの世界を戦前とおなじように編成しなおした。統一や統制は近代化をほどこされることによって、さらにいっそう強化され、今度は経済復興という唯一の方向に向けられた。

 このことのすべてを支えた勤労者に、安定した職場を提供したのは、日本全国に林立することとなった会社群だった。勤労者たちの生活を保障するというかたちで、会社群は社会ぜんたいを引き受けた。経済復興は至上の目標であり、そのことのためになされることはすべて、合理とされ善とされた。だから会社群も、この上ない合理や善として、人々から迎えられた。

 人々の生活は少しずつ安定していき、あるときから、生活は急激に向上し始めた。復興という方針は拡大という価値へと転換した。拡大の方針を最高の善として、人々は受けとめた。全方位への拡大によって、全方位への開発がなされ、そのことをとおして規模は拡大され、パイは大きくなり、生活は向上した。このことのどこに文句があるのか、という価値観の国と人々へと、日本は変質をとげた。

 会社群が引き受けた日本社会とは、会社が作り出すものと質的に合致した社会だった。会社の質はそのまま日本の質となった。会社はなにを作ったか。戦前からのさらなる延長として、規格品の大量生産とその販売を、会社はおこなった。その営みのすべてを、官僚が統制して方向をつけた。

 どこまでいっても方向はひとつである、という問題が日本の問題となった。定められたひとつの方向からはずれるものはすべて、容赦なく排除しながら突き進むという、固く閉ざされた方針は日本そのものとして、現在も続いている。

 官僚による戦前からの厳しい統制が、なぜいまも続いているのか。日本が体験した敗戦と戦後というものが持つ、驚愕せずにはいられない特殊なかたちと性質が、統制の維持に深く関係している。

 日本の戦前と戦後は、ひとつにつながっている。けっして切れてはいない。その戦前と戦後において、国家の運営システムは、完全に内向きなものとして、完成された。内向きのシステムを現出させたのは、拡大の方針だった。そして一般の国民という存在は、このシステムの外に置かれた。

 だから国家が運営されればされるほど、人々の置かれている状況は、幸福というものから際限なく乖離していくことになる。拡大のエネルギーは、国内では内向きのシステムを構築するという、反作用をした。内向きのシステムは国家を運営する人たちの利益、そして国家を支える会社群の利益のために、機能した。

 戦後の日本という会社立国のなかで、勤労者ぜんたいの七十パーセント以上もの人たちが、会社その他なんらかの組織に雇用されて、給料をもらう人となった。会社は自分の利益のための都合にしか興味も関心も持たない、きわめて狭量で内向きの、したがって脆い存在なのだが、その会社群を政府は守って支え、ついにはそれによりかかるまでになった。

 会社という世界は、人々の生活を向上させつつ支える絶対の善のようになり、社会は会社群のなかに取り込まれ、会社の外にはなにもないという状態が達成された。これを可能にしたのは、会社群を現場として日本に充満した、すさまじい量の内向きのエネルギーであり、それが日本の技術や経済を、現在までの高みへと持ち上げた。

 すべては国内のためであり、すべてはその国内で間に合うという、内向きに完結した世界、それが日本となった。そしてその内向きに完結した世界のほとんどすべてが、これからの日本にとって、マイナスの領域での問題となっている。戦後の日本は失敗だったとは言えないにしても、問題が解決されないままであるなら、遅かれ早かれすべては失敗へと着地するほかない。

 戦後の日本は、歴史つまり教訓としての過去から、絶たれた。過去は見なくてもいいことになった。だから当然、人々は過去から学ばない人になった。過去はないことにするという方針で、戦後の日本は自分を規定した。現在だけが次々に目の前にあらわれる、という状況を人々は生きることとなった。常に現在だけを相手にしていればいい。現在のみが連続する。その現在がかたっぱしから消えていくのに呼応して、次々に新しい現在が立ちあらわれる。

 日本語という言葉を、主として経済活動の効率の高さを維持するために、戦後の日本は単なる記号へと変えた。過去から絶たれたことの、これは好例だ。新仮名づかいは、歴史のなかに深く根を持っている意味から、言葉を切り離した。言葉に歴史など必要ない、現在の役に立ちさえすればそれでいい、という方針だ。過去は現在の効率にとってはコストでしかなく、そんなものは切り離して捨てるに越したことはない、というわけだ。

 さまざまなかたちで戦後の日本は自らの過去を全否定した。現在をもっとも効率良く運営するためだ。そしてその運営の中枢で指導原理のように機能したのは、戦前・戦中となんら変わらない、強力な統制だった。人々の日々のなかには現在のみが連続した。現在は次々に消えていき、次々にあらわれた。蓄積されてやがて文化の底力となるようなものはどこにもない、という種類の日々だ。

 経済が復興し、さらに上昇していった時代のなかで、現在のみを相手にしていれば生活は安定するだけではなく、目に見えて向上すらしていった。価値は現在というものただひとつであり、それこそが最大の価値であるとする統制は、雇用の安定や給料の上昇など、人々の生活の向上と直接に結びついた。すべてを単一の価値へと向かわせた統制力は、人々の生活という最末端で、常に何乗にも増幅され続けた。

 日本ぜんたいが単一の価値に統制されたことは、あるところまでは、つまり成長期のあいだは、非常な好都合として日本ぜんたいに作用した。世界でナンバー・ワンのジャパン、と言われるほどに強力に、それは作用した。ひとつに統制された日本は、いったいなにをして、ナンバー・ワンにまでなったか。マス市場向けの規格品を、良質に安価に、そして大量に作って売っただけだ。いまの日本に蓄積があるとするなら、そのことの蓄積だけはある。しかしそのような蓄積では、それまでなかったような新しい問題が起こったとき、解決方法を考えることすら出来ない。

 戦後の日本がめざしてなし遂げたのは、国内という閉ざされた単一な世界の完成だった。すべては内であり、内がすべてであり、外はなかった。外とは、なにか。変化だ。非常に多くの場合、変化はやっかいで深刻な問題だ。そのような変化の最たるものは、世界の質がそれまでとは大きく変わったときだ。

 日本について言うなら、日本が資本の輸出国となったとき、まず誰よりも先に日本という当人にとって、世界の質はそれまでとは別なものに変わった。アメリカについてだと、金本位制をやめたニクソン大統領のとき、アメリカはそれまでとはまったく別のアメリカへと変質した。今後はドルを自分の都合のままに操作するというあからさまな宣言が、アメリカによる金本位制の廃止だった。操作しなければならないほどにドルは不健康なのであり、この不健康さがアメリカの基本だ。世界の質の激変ではないか。ここからアメリカが歩んだのは、コンピューターのネットワークを駆使する金融の国への道だった。

 このような変化に対しては、国家として絶対に対応しなくてはいけないはずだが、日本は対応をしなかった。問題の本質を直視しなければ、変化を認めなければ、対応の必要はないという態度でいることが出来る。これまでどおりでいきたい、という自分の都合を優先させると、変化は読めない。状況はどうあろうとも自分の都合を優先させるのは、自分というもののありかたが、たいそう弱いからだ。

 国家としての安全保障をアメリカの傘の下に置いたのは、弱い自分にとってぴったりの、現実的な方法だった。健全なかたちでの外交などありようもないから、日本は徹底してその領域でさぼることが許された。日本は国家としては外を見なくていいという、たいそう異例なありかたを手に入れた。

 外を見るのは経済活動のときだけだった。外とは、一件ごとに決済される、商談の相手でしかなかった。外にある複雑で多様な世界を、商談相手の外国という、ひとつのものとして日本はとらえた。要するに外国、というひとつにくくったものとしてしか、外を見てこなかった。

 経済活動で発揮されるエネルギーは、じつは内向きのエネルギーだ。経済活動をおこなえばおこなうほど、日本は内向きの国へと変質した。プラスとマイナスとをすべて合算して平均をとれば、経済の拡大は自分たちの生活の向上だ、と人々は考えた。自分たちが体験しつつある、前代未聞と言っていいほどの内向きへの変質は、たいへん見えにくい状況となった。

 内向きのエネルギーの発生源は、民間では会社だった。会社は自分のところの利益のみを追求する。営業品目にあがっていない世界は、それがなにであれ、会社にとってはこの世に存在しないも同然となる。戦後の日本で個人に対して徹底的に影響をあたえたのは、会社というもののこのようなありかただ。私人としての自分、そしてその自分による利益の追求、これが人々の人生となった。

 自分という小さくて私的な存在は、異様なまでに肥大することになった。戦後の人が現在ひとまずたどり着いたのは、世界とは自分や私であるという、きわめて私的で内向きな、しかも空疎なありかただ。そしてこのありかただけが、現在の日本人のよりどころとなっている。

 日本の内部に多くの未解決の問題があるのを、彼らは知っている。彼らの内向きのエネルギーは、手がつけられないほどに高まりきっている。問題をどうすればいいのかが、彼らにはわからない。このことこそが現在の不況を生んでいるのだが、どうしていいかわからない人たちは、耐えるほかない。だからこの不況に回復の見込みはない。言葉ではおなじ不況だが、これまでの不況とは質が完全に異なる。

底本:『日本語で生きるとは』筑摩書房 一九九九年

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2017年8月15日 00:00
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