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自分探しと日本の不況

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 いまの日本は消費不況のなかにあるという。物が売れないのだ。なにがどのくらい売れれば気がすむのか、という問題はいまはかたわらに置いておくとして、売れないのは人々が買わないからだ、これは誰にでもわかる。なぜ買わないのか。買えないからだ。おかねがないから買えない、という側面は間違いなくある。失業した、収入が減った、将来が不安だ、買い控える、もともとあまり稼げない、といったしばしばあげられる理由には、物はひとまわりいきわたり、人々は日常のなかにさほど不足を感じていない、というような要素も加えられている。

 物が売れない最大の理由は、自分がないという状況のなかに、じつに多くの人がおちいっているからだ。そもそも自分がないから、いまそしてこれから、長く続くはずの時間のなかで、自分がどうありたいのか、どんな自分になりたいのか、どんな仕事を自分はしていきたいのか、そのためにはいま自分はなにをすべきか、といった目標がどこにもないし、いつまでもそれは定まらない。したがって身辺の細々したことにかまけるだけの、次元の低く、範囲は狭い生活のなかを、時間は無為に流れていく。多数の人たち、しかも若い人たちがこんな状態だと、物は売れるはずがない。

 現在の日本が体験している消費不況は、消費を支えるべき圧倒的多数の人たちが、自分を持っていないからだ。個体としてのこの自分という人、そしてその人が生まれてからずっと生きてきた背景は、確かに誰もが持っている。しかしそれは外面であり、その外面の内側にあるべきもの、つまり自分とは、いまそしてこれから、いったいなになのか、という大問題を自分のものとしていきたいという、本来ならもっとも強く存在すべき欲望や願望などを、人々は持っていない。

 自分はこれからなにをしたいのか、どんな方向へいきたいのか、なにに喜びたいのか、なにを幸せと感じるのか、どんな時間をどのように蓄積させていきたいのか。自分という物語を求める、あるいは作ろうとする、もっとも良いかたちと内容での生存への、切実きわまりない希求。これがない。なにも見えていない、なにもわかっていない。そもそも考えたことすらないから、いまも考えることが出来ないまま、小さな日常のための品々は安くなったおかげで、時間をやり過ごすのはたいそう楽だ。

 自分を探す。本当の自分に出会う、見つける。自分が本当にやりたいことを目ざす。自分の理想の生活を追求する。自分の夢を実現させたい。自分がじつは完全に空疎である事実を、如実に反映したこのような言葉が、新しい価値ででもあるかのごとく、社会の表面へとあらわれ始めてから、三十年、四十年という量の時間がすでに経過している。このような時間が蓄積されればされるほど、人々のなかから自分は希薄になっていった。そしてひとまずたどりついた最果ての地点が、現在なのだ。

 そのへんを探せば自分は見つかるものなのか。しかも本当の自分という、すっかり完成された自分が。四十年、五十年という時間にわたって、仕事としてなにごとかを持続させ、そのなかで重ねる日々で生活を支えつつ、社会的な位置や居場所を見つけ、作り出し、確保し、人との関係の網の目にかろうじてからめ取られ、なにがしかの評価を得るようになってようやく、ひょっとしたらこれが自分かな、と思えるか思えないかというあたりに、なんとか浮かび上がるのが自分ではないか。

 こうしたことを若年層ほど教えられていないから、その結果としてなにも知らない、考えたこともないという、純粋無垢な状態に多くの人がとどまっている。社会と接すると軋轢や不満だけがある。とてもついていけない、すぐにくじける、放り出す、逃げる。そしてそのことに対する言い訳は、本当の自分が出せない、やりたいことではない、自分には向いていない、というような内容だ。自分がないのだから、最初からなにひとつ、向いてはいないはずだ。

 不況の反対の好況は、人々が自分とその生活の向上を目標にして限度いっぱいに活動し、しかもそこにこの上ない充足や幸福を痛感しているときにしか、発生しない。「失われた十年」がすでに経過したが、これからさらに少なくともワン・ジェネレーションつまり三十年、人々が自分のなかに自分を持つまで、日本は膨大な損失と喪失の底をいくほかない。

底本:『自分と自分以外──戦後60年と今』NHKブックス 二〇〇四年


『自分と自分以外ー戦後60年と今』 不況 失われた十年 自分
2017年8月5日 00:00
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