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海から見る自分の居場所

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 瀬戸内の海からその港へ入っていくとき、視界に広がる景色というものを、現在の地図を見ながら僕は思い描いている。最近の地図を見ながらだから、思い描く景色は現実にかなり近いものとなっているはずだ。海に突き出た埋め立て地が、港の南北に、そして奥にあり、そのなかへたとえば小さな船で入っていこうとしている人は、埋め立て地を縁取るコンクリートの、さまざまな方向にのびる直線に、取り囲まれるだろう。港の奥へ向かえば向かうほど、埋め立て地を囲むコンクリートの直線に、左右から、そして前方から、深くさらに深く、その人は取り囲まれる。

 取り囲まれきったところが、港の海のまんなかあたりだ。そこから運河の入口のように狭くなっているコンクリートの門を入ると、港のいちばん奥の海がある。周囲は完全にコンクリートであり、それに囲まれた範囲はかなり狭い。その運河をさらに奥へ進むと、直進する国道のコンクリート橋の下をくぐる。運河のような海はさらに続く。鉄道のごく短い鉄橋の下をくぐる。山陽本線の鉄橋だ。

 その鉄橋の下を満潮時に、小さな船でいまもくぐり抜けることが可能かどうか。けっして出来ないことではないだろう。船頭ひとりが手漕ぎの櫓を操ってゆっくりと進む小さな漁船が、この鉄橋や国道の橋をくぐり、港の海を抜け、その外の瀬戸内の海へと、いまでも往来しているだろうか。そのような光景はとっくの昔に消えているのではないか、とも思う。

 鉄橋の下をくぐると、目の前、そしてその周辺に広がる景色は、川のものとなる。川には名前があったはずだが、僕が子供の頃にその名前を聞いた記憶は、まったくない。地元の人たちは入り川と呼んでいた。海の満ち引きと同調して、満ち潮や引き潮のある川、というほどの意味だ。川幅は平均して十メートルほどだったか。鉄橋をくぐるとおだやかに川は直進し、ほどなく橋をくぐり、そこからは前方に向けてずっと直線でのびていた。僕が知っているこの橋は木造で、板の上には土が敷いてあった。

 山陽本線の短い鉄橋と、木造のこの橋とのちょうど中間あたりに、山裾を背にして建っていた大きな家に、子供の僕は住んでいた。その家の前あたりが、この入り川のもっともおだやかな、風情すらあったと言っていい、許容的な雰囲気のある箇所だった。僕が住んでいた家を中心にして、左右二十メートルほどの範囲だろうか。この範囲をはずれると、川下は鉄橋とその外の港の運河であり、構造にも雰囲気にも許容的なものはなく、表情には常に険しいものがあった。川上には木造の橋があり、橋の下という場所はどこでも剣呑そうであり、橋をくぐった先はまったく雰囲気のない直線の用水路だった。

 僕の家の前で川幅はいちばん広く、十二、三メートルはあっただろうか。舗装されていない道には多少の砂利が敷いてあったかとも思うが、おおむねは土の道であり、雨が降れば水たまりがいくつも出来、充分にぬかるんだ。道と川との縁には、いまはおそらくコンクリートの壁があるはずだ。駐車場にある車止めを大人の腰のあたりまでの高さとしたような、殺風景なコンクリートの壁だ。僕がそこで子供だった頃には、そんなものはなかった。

 道の縁を越えればそこは川だった。その道を自動車がとおるのは、ふた月に一度くらいの頻度だったろう。だから道が遊び場であると同時に、その向こうの川も、近所の子供たちにとっての、絶好の遊び場となっていた。七月と八月の僕は、真っ黒に陽焼けした瀬戸内の裸足の子供だった。泳ぎは家の前の川で覚えた。遊ぶ、という仕事のひとつの大きな部分を、僕はこの川で体験した。

 夏休みのあいだの快晴の日、昼御飯を水泳パンツのまま自宅で食べると、二階の窓から川を見ながらひと休みする。満潮が始まっている。入り川に潮が満ち、潮位が高くなっていくのを、はっきりと見てとることが出来た。潮位がひときわ高くなるときの満潮時には、川の潮位は道から二十センチほどのところにまで迫った。ごく普通に満潮になると、水深は僕の家の前で四メートルはあった、と記憶している。

 満潮になりきってから引き潮へと移るまでが、その川は子供の遊び場として最適の状態となった。水泳パンツ一枚の僕は家から走り出て、そのまま道の縁まで走り、満潮の川へ飛び込む。子供の体はそれなりに水面を叩き割った。水にもぐり込んだ体はすぐに浮上し、水の上で仰向けになった顔を水が流れきると、目を開けて空を見る。陽ざしの満ちた青い空が底なしに広がり、その底なしの様子が自分の体を支えてくれている海の水と一体になる瞬間、少なくともいまの自分の居場所はここなのだという、強烈な帰属の意識が全身をつらぬいた。川の両側は石を積み上げた壁であり、伝わって登りやすいルート、あるいは降りやすいルートが、どちらの側にもいくつかあった。そこを伝わって子供たちは川へ上がり降りしていた。川の向こう側に上がるとそこは草の生えた斜面で、斜面の上は土手の上であり、人のとおる道がなんとなくあった。木造の橋のたもとからその道に入ると、鉄橋で行き止まりだった。

 見た目のかたちとしては川なのだが、潮の満ち引きは海と連動していたから、川であるよりは海だと言ったほうが正確だろう。そしてその海は僕の家の前でもっとも許容的だったから、それゆえに、そこは満潮時には天然のプールでもあった。潮が引ききると、水の深さはくるぶしのあたりまでとなった。引き潮の川底も遊び場だった。いろんなことをして遊んだ。引き潮のとき川へ降りるならこれを履けと、大人の大きな下駄を祖父があたえてくれた。子供の足に合わせた位置に鼻緒の穴が開けかえてあり、そこに鼻緒がつけてあった。もとをただせば東京の坊やにすぎない僕を、瀬戸内でこのように守ってくれた人が何人か確実にいた。

 この入り川の、僕の家の前の部分は、子供の僕にとっての瀬戸内という環境の、中心だった。川に面して建っている家を抜けてその裏へいき、裏庭へ出て離れの前をとおってさらにいくと、絵に描いたような裏木戸があった。この木戸を出てすぐ右側に納屋があった。薪や藁、さまざまな木材、ワイヤー・ロープ、道具類が収納してあった。納屋の前からは、中国山脈の海側の山裾の、いちばん始まりの部分が、なだらかな上昇のスロープを作っていた。高くなりきる最初の頂上までが、自分のところのものだという話を聞いたことがある。枯れ枝を拾ったりするとき、その範囲内が優先的には自分のものである、というようなことだったかもしれない。この山裾もまた、僕にとってはこの上ない遊び場だった。

 川の向こうはすでに書いたとおり草の生えた土手であり、土手の道を向こうへ越えると、草の茂る斜面の下には不思議な地形が広がっていた。海の水が入ってくる浅瀬の広場、という言いかたをしたくなるような部分が、まずあった。均一な浅瀬ではなく、かなり深くなるところもあれば、伝い歩きの出来る畦道のようになった部分もあった。ここではしばしば魚を獲った。

 海から入って来た魚が、僕の手を逃れようとするといきどまりの袋小路に追い込まれるしかけがいつもなんとなく作ってあり、よし、これからおかずの魚を獲るぞ、という意志のもとにそこへいくと、魚がいるのを確かめたのち、追い込む経路と袋小路に逃げ道があるかどうか確認し、もしあればそれを塞いでおく。そして魚をそこへ追い込んでいく。手でつかまえることも出来るが、背びれや腹の下にあるひれは思いのほか鋭く硬く、手を切ることもあった。だから網ですくい獲っていたが、逃げ道へ入ろうとする魚を、浅瀬に体を横たえて退路を塞ぎ、顔や胸に衝突する魚を水のなかでつかまえる、というような場面もあった。三匹もつかまえれば、夕食のおかずの、いっぽうの柱となるのだった。

 この浅瀬の陸続きには畑もあったし、祖父が関係していた塩田の広がりもあった。海からポンプでくみ上げた海水を、かすかな斜面になったコンクリートの広がりの上へ、何重にも引きまわしたパイプの無数の穴から、少しずつこぼしていく。海水は斜面を下っていく。瀬戸内の陽ざしを受けて海水は途中で蒸発し、湿った塩がコンクリートの斜面に残る。これを木製のスコップで集めて俵に詰め、隣接している工場へ運ぶ。そこの釜で煮詰め、粗塩を作る。この粗塩をどこかへ持っていき、さらに精製する。家庭で使っていた塩は、そのような塩だった。こういったスペースのいちばん海側の縁は、山陽本線の線路がある土手の斜面だった。

 塩田からさらに西へいくと、自分のところのものとして使っていた畑が、いくつかあった。ひとつのつながった広がりではなく、低い土手のような畦道で畑は仕切られていたし、そのあいだには池のような部分が交互してもいた。この池では鰻を獲った。池で繁殖していた鰻だということだった。地つき、と呼ばれている鰻だ。しかし池は海とどこかでつながっていたから、海から入って来た鰻でもあったのだろう。養殖のための人為的な努力はなにもなされてはいなかったが、鰻にとっての環境としては、養殖に近いものがあったような気もする。

 七歳くらいの僕がここで鰻を獲り始めたときには、そのためのしかけが池にはすでにあった。しかけと言っても、最適な太さの竹を一メートルほどの長さに切り、節を抜いて筒にしたものを、池にほうり込んでおくだけだ。何日かするとそれは池の底に沈む。沈んだらそれがそのまま、鰻を獲るしかけとなった。夏になって水温が上がると、鰻はこの竹筒のなかに入った。なかは涼しいからだ。

 七月、八月の暑い午後、池に入って静かに沖へと泳ぎ出て、立ち泳ぎのまま水に体を沈めていく。まっすぐにのばした足先が、池の底に横たわっている竹筒に、かすかに触れる。触れたとたん、そのなかに鰻が入っているかどうか、竹筒の重さないしは抵抗で、はっきりとわかる。入っていると判断したなら、間髪を入れずに体を水のなかで上下に反転させ、目を閉じて池の底にもぐり、竹筒を指先でさぐり当て、いっぽうの端を掌で塞ぐと同時に、もういっぽうの端を上に向けて持ち上げる。

 鰻は逃げようとする。筒の端を塞いでいる僕の手の、指のあいだに頭をねじ込もうとして、長い体を必死でよじる。頭のとがった種類の鰻だったから、指のあいだに入りやすかった。くすぐったさをともなったあの異生物の感触には耐えがたいものがあったが、我慢して立ち泳ぎをし、池の縁に上がり、用意してある網のなかに竹筒の端を入れると、充分に成長した鰻が一匹、網のなかに落ちて来るのだった。ひとつの池でもっとも多いときには三匹の鰻を獲ることが出来た。

 三匹もあれば夕食は蒲焼ご飯だ。自宅へ持って帰り、バケツのなかでよく洗い、大きなまな板の端に一匹ずつ、頭を釘で打ちつけるまでが、僕の役目だった。そこから先は祖父が始末した。たれにも焼きかたにも、かなりの工夫があったようだ。祖父の作る蒲焼は見事なものだった。

 さほど遠いとも言えない親戚に、沖の海で漁をする人がいた。川上に住んで農業を営み、農業のほかにもいろんな仕事をし、かたわらに漁もするという、十徳ナイフのような人だった。おだやかでもの静かな、そして判断の常に的確で正しいこの人物は、手漕ぎの小さな漁船を持っていて、港の沖の海に出て漁をするのだった。この漁に僕は何度も同行した。初めのうちはすわって見ているだけだったが、何度か体験するうちに、いろんなことを手伝うようになった。

 朝の七時前後に満潮となる時期に、満潮になる少し前、彼はその船の櫓を漕ぐでもなく漕いで、川上からひとり悠然と下って来ていた。事前の連絡をどのように取っていたか、いまの僕はまったく覚えていない。いちいち連絡を取り合うまでもなく、ひと月あとの早朝の満潮時には川を下って来る、というような周期があってそれを承知している僕は、朝のいつもの時間に川の縁で、彼とその船を待ったのではなかったか。

 木造の橋の上で川上を見ていると、直線でのびている川の向こうに、彼の船が姿をあらわす。それを目にとめる瞬間はうれしいものだった。家の前の定位置で待っていると、やがてその船は橋をくぐった。川岸の石を積んだ壁に彼は船をつけた。彼が櫓を操って石の壁に船をつけているあいだに、僕は船に乗り移った。そしてふたりで川を下った。鉄橋の下、そして国道の下をとおり、港の海のいちばん奥の一角のような水域に出て、そこからさらに港の外へ向かった。

 現在のような埋め立て地は影もかたちもなかった。港はあったから、埠頭や岸壁など、必要な施設は整っていたはずだが、それらは規模のごく小さなものであり、現在にくらべると港の海の上での視界は広々としていただろう。港と反対側は、陸地の縁を押さえるための、石を積み上げて作った堤防のようなものが、陸地の端までのびていた。その堤防に寄り添うかのように、難破船が一隻、座礁していた。堤防の上には松並木があった。

 港の海の外へ出ると、そこは瀬戸内の海だった。小さな船で漁をするその人は、地元の漁業組合のような組織に属し、海の広がりのなかの一定の区域を、自分が漁をするための場所として割り当てられていたのだろう、といまの僕は推測する。漁と言ってもまったくたいしたことではなく、あらかじめ設置してある網を引き上げるだけだ。しかしその網には、さまざまな魚がかかっていた。船に引き上げた網から魚を取りはずすのは僕の役目となった。一定の間隔で蛸壺を取りつけたロープも、ブイをつけて海に沈めてあった。蛸壺には四つにひとつほどの割合で蛸が入っていた。逆さに振っても出てこない蛸を、壺に手を入れてつかみ出すのと同質の体験を、僕は現在にいたるまでひとつも体験していない。

 網のぜんたいを引き上げ終わり、魚をはずして船底の生け簀に移すと、網は海のなかに設置しなおした。その作業が終わると食事だった。船には七輪があり、そこに火をおこし、魚を焼いた。温かいご飯を茶碗によそい、鍋の味噌汁を七輪にかけて熱くした。小型の鰯はその造形といい色といい、文句のつけようのない出来ばえだった。しかもどの一匹にも生命があり、一匹を手のなかに持って海に入れて指を開くと、海のなかで身を翻した鰯は、一瞬のうちにどこかへいってしまい、見えなくなった。鰯の尾ひれのすぐ手前にナイフで斜めに切れ目を入れ、そこを指先で持っていっきにふたつに引き裂いて食べることを、僕は教えてもらった。小皿の醬油をつけるのだが、醬油だけではなくおそらくぽん酢のようなものだろう、獲れたばかりの生の鰯との調和は、絶妙なものだった。七輪でやかんに湯を沸かしておけば、食後には渋く熱いお茶すら飲むことが出来た。

 小さなその船のなかにすわっていると、海面の上に腰をおろしているような錯覚が、ときどきあった。無骨な湯飲みで熱いお茶をすすりながら、海面にすわっている視点から、僕は陸を眺めた。海から見る人にとっての、思いがけない位置や意外な方向に、見なれた場所やいつもいく場所があるのを見ると、幼い僕のぜんたいを不思議な感慨が満たした。あそこがいつもの自分の確定された居場所なのだ、と思うと同時に、確定などされずに次々に変化する居場所の可能性、というものも感じて両者は重なり合い、いまは船の上からこうして陸を見ている自分の、自分以外の誰のものでもない視点こそ自分だと思ったりした、といまの僕が書く。

 漁と食事を終えると帰路についた。港の奥へと入っていき、国道の橋と山陽本線の鉄橋をくぐり、川をさかのぼった。沖に出ている時間はいつも二時間ほどだった、と記憶している。満潮になる前に川を下って来て彼が僕を船に乗せ、沖で漁をすませて帰って来るとまだ満潮は終わっていず、引き潮への移行は始まっていないという時間帯のなかで、すべてはとりおこなわれていたのだろう。

 船に乗るときに持っていた魚用の網のなかに、彼は蛸や蟹、そしていろんな魚をくれた。鉄橋をくぐってすぐ右側に、川の縁から石垣に簡単な階段が斜めに作ってあり、帰って来たときにはそこに船を止めたと思う。道の向こう側には小さな漁業組合の建物があり、大きな釜に湯が沸いていた。そこで蛸や蟹を茹で、ほかの魚とともに自宅へ持って帰った。蛸や蟹はさっそく昼食のおかずだった。

 ひときわ美味だったのは蟹だ。神戸の海で獲れる蟹で、東京へは出荷されることが少ないという蟹を、ごく最近に食べたが、この蟹となかばあたりまで似ていた。おなじ蟹でも場所によって違いがあるのだろう。これと言って特徴のない、蟹らしいかたちをした土色の蟹で、殻はソフト・クラブほどではないが、どちらかと言うなら柔らかいものだった。茹でたこの蟹の、まったく癖のない身は、僕にとっての蟹の原点だ。

 海から満ち潮に乗って蟹は川へ入って来る、という話を聞いたことがある。満ち潮とともに川へ入って来て餌を食べ、引き潮に乗って海へと帰るのだ。帰らずに川底に残る蟹もいた。この蟹を巧みに見つけては、網いっぱいに獲るのを得意としていた友だちがいた。僕がなんとか一匹をつかまえるあいだに、彼は何匹も獲った。のちほど彼の自宅で茹でてもらい、引き潮が満ち潮へと移っていこうとしている川の縁にすわり、彼とふたりで茹でた蟹を食べた。

 真夏の美しく晴れた日の午後、満潮のこの川に入り、石垣に軽く手をかけて水のなかに体を垂直に保ち、そのまま体を沈めて頭も水のなかにもぐらせて目の前を見ると、そこには何匹もの竜の落し子が、特徴のあるあのかたちのまま、立ち泳ぎをしていた。その様子を息の続くあいだ眺め、水の上に顔を出して息をついだなら、ふたたび体を水中に沈め、竜の落し子を観察した。家の前の川が夏の子供たちの遊び場として賑わっているとき、その静かな片隅に常にあった竜の落し子のいる光景も、僕はこうして何度となく見た。

 午後の満潮時に遊びを満喫した川は、夕方になると潮が引ききっていて、浅く水の流れる川底は完全に影のなかだった。子供はどこにもいずすべては静かで、夏の日が暮れていく時間の空を二階の窓から広く見渡していると、一日という円のなかを時間は半周したという事実が、よくわかった。夜遅く、おなじ二階の窓から川を見ると、夜中の満潮に向けて、川には海からの水が満ちていきつつあった。夕方よりもさらに静かな夜の川を眺め、その残像がまだ頭のなかにあるあいだに、僕は眠りのなかへと落ちていた。

 次の日の朝はふたたび真夏の快晴だ。満潮を待って家から走り出し、川面に飛び込み、水のなかで思いっきり両腕で水をかき、力を抜いてそのまま浮かび上がり、水が流れ落ちる顔を空に向けると、昨日とまったくおなじ青い底なしの空が視界いっぱいにあった。川を満たした海の水は、昨日とおなじように、僕の体を支えていた。時間は一日という円を完全にひとまわりしていた。一日といういちばん小さな単位で時間が循環しているのを体感するための、たいそう好ましい環境がそこにあったと僕は思う。

 前方から来て後方へと飛び去るという、直線で経過していく時間ではなく、一定の周期でおなじ場所を通過していく、循環してやむことのない時間だ。川の石垣のかたわらで体を水に沈めると、その日もまた、目の前に竜の落し子が泳いでいた。息をつぐために水面の上に顔を出したとき、ふと見上げた僕の視線は、自宅の二階の窓をとらえた。昨日の夜、眠りにつく寸前、あの窓から見たこの川のこの位置に、いま自分はいる。循環する時間のなかに身を置いている実感のなかに、秋深くに見るおなじ場所、さらには次の年の梅雨の雨のなかに見るこの川、そして梅雨が明けて突然に来る夏の光景などを、僕は同時に見たはずだと思う。

底本:『白いプラスティックのフォーク──食は自分を作ったか』NHK出版 二〇〇五年

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2017年7月31日 00:00
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