アイキャッチ画像

LAでは笑うしかない、というLA的な態度

縦書きで読む

LinkedIn にシェア
LINEで送る
Pocket

『アウトレイジャス LA』というタイトルの写真集におさめてある百点のカラー写真を、ひとつひとつ、じっくりと見おわったところだ。LAに生まれてそこに育ったLAネイティヴのジャーナリスト兼写真家のロバート・ランドーが、自分の場所であるLAを写真に撮って作った写真集だ。写真集、と言ってしまうよりも、自分が撮った数多くの写真によるエッセイ、と言ったほうがいいかもしれない。

 ロバート・ランドーの写真は、正直でまっすぐだ。アーティスティックな表現としての写真芸術、といったことを目ざした写真ではなく、LAのいろんなところへ出むいていき、たまたま自分の目にとまって興味をひいた対象を、できるだけ対象そのままに、よけいな解釈や意図を加えることなく、その対象だけをはがしとるように、写真におさめている。LAにこういうものがあったよ、こんな色やかたちをしたものがあったよ、カラー写真に撮ったらこのとおりなのさ、どうだい、よくながめて自分なりに検討してごらん、とロバート・ランドーの写真は、それを見る人におだやかにけしかけている。

 百点の写真をながめおえて僕が持ったのは、LAに対する奇妙な懐かしさのような気持ちだった。本来ならきわめて平凡であるはずの建物に塗ってある、とんでもない色。そしてそのとんでもない色の壁に当たっている、強い陽ざし。その陽ざしの熱さ、空気のにおいなどを思い起こしているうちに、懐かしくなって来た。写真による一冊のエッセイをながめていて懐かしくなったLAとは、いったいなになのだろうかなどと、いま僕は考えている。

 ロバート・ランドーの撮った写真は、色彩をひとつの大きなテーマにしているようだ。どの写真にも、色彩というものが、大きな役割を持たされて、登場している。LAのあらゆるところで頻繁に見かける、あの独特な、非現実的な色彩だ。

 LAをうまくとらえるのは、なかなかむずかしい。面積的に広いし、昔からの伝統を持って古典的なかたちの町として発展して来たところではないから、たとえばLAの中心はどこなのかときかれても、こたえることはできない。中心がなくて面積的にだだっ広く、いろんな要素が自由な無秩序さで並存しているから、たとえば一冊の本を作り、その本のなかにLAのすべてをとらえてとりこむというようなことは、なかなか出来ない。

 LAの基本的な性格を作り出しているもっとも重要なものは、気候ではないかと、僕は思う。LAのことを考えるとき、土台にはいつもかならず気候がある。『アウトレイジャス LA』におさめてあるロバート・ランドーの写真のどれからも、僕は、気候を感じる。

 LA的な色彩に陽ざしが当たり、反射して目に入って来るとき、その光は空気のなかをくぐり抜ける。くぐり抜けて来るとき、LAの気候のエッセンスのようなものを、その光は空気のなかから、からめとってくるにちがいない。ランドーの写真を見ていて僕がLAに対して懐かしい気持ちを持ったのは、LAの写真のひとつひとつから気候を感じとり、そのLA的な気候のあり方に、懐かしさのような気持ちを抱いたからだろう。

 LAの気候のなかで、一般的な象徴としてもっとも高い位置にまつりあげられているのは、LAはいつも夏だという、エンドレス・サマーの幻想だ。十二月にたしかに海で泳ぐことは出来るけれど、正確にはLAはエンドレス・サマーではない。寒い日もあるし、すさまじい雨が何日も続き、フラッド・コントロールの排水路に濁流がさかまく日もある。あちこちで巨大な地すべりが起きる。地震が発生し、台風が直撃する。冷たい霧に深くおおわれることだってある。

 しかし、イメージの上では、LAは、エンドレス・サマーの土地だ。イメージの上だけではなく、現実に、LAは一年のうちのかなりの部分が、夏と呼んでいい気候だ。あるいは、夏だと思って過ごすことの出来る気候だ。

 たとえばいま東京に住んでいる僕が、LAへいってそこで仕事をしたり生活していたりすると、たとえ仕事をつづけていても、LAの気候ゆえに、僕は、なんだか夏の休暇を過ごしに来ているような気持ちに、きっとなるだろう。

 夏のような気候がほぼ一年じゅう続くことが生む、このようなエンドレス・サマーや夏の休暇の幻想は、LAに特有のアンリアルな雰囲気をつくり出す土台になっていると、僕は思う。いつまでも続く夏の休暇の幻想は、センス・オブ・ファンタジーと言ってもいいし、オルタネート・リアリティー(もうひとつの現実)と呼んでもいいだろう。

 LAがいまのような町ではなく、海岸線沿いのただ単なる一点であったなら、このような幻想は生まれてはこないだろう。しかし、いまのLAは、主としてハリウッドのおかげで、あらゆる途方もない夢が現実になる町、というイメージをすでにしっかりと持っている。ハリウッドがつくり出した夢に、エンドレス・サマーの休暇気分がかさなるのだから、そこにファンタジーのような町が生まれて来ても、不思議ではない。

 アンリアルなファンタジーの世界の内部では、人々は、自分が持っている夢や願望を、ほかのどのような場所にいるよりも自由に、外に向かって表現することが出来る。ロバート・ランドーの写真によるエッセイのなかにとらえてあるLAの色は、ファンタジーの世界のなかならごく自然にありうる色だ。LAに現実にあるどんな色も、ディズニーの漫画映画のなかですでに使用されて来たはずだ。

 ファンタジーのなかでは、ひとつのことやものが、長く続くことはあまりない。次々に新しいイメージが生まれては消えていき、さらに次のものと交代していく。永続するものはなにもないのだという世界観は、なにごとも重くまじめには考えないという、軽い態度をやがて生み出す。

 この軽さは、自分そして自分が身を置いている状況ぜんたいを冷静に客観視し、話の種にしてしまうというLA的な態度を、次に生み出す。まじめに重く考えることをせず、話の種にするのだから、そのための方法はただひとつ、笑うしかない。LA的なユーモアは、ここから発生してくる。センス・オブ・ユーモアは、LAではエスカレートしがちだ。したがって、どんなにひどいことでも、アウトレイジャスなことでも、LAでは笑いのための話の種となってしまう。

 ロバート・ランドーの『アウトレイジャス LA』のなかにも、椰子の樹を撮った写真が何点かある。このような写真をじっと見ていて僕が思ったのは、椰子の樹というものがアンリアルに感じられるような人たちにとって、LAは真にLA的であるのだろう、ということだ。

 ウェルズ・ファーゴ・バンクのコートヤードに、規則正しくフロアのパタンと同調させて植えてある椰子の樹は、ひょっとしたら、ものすごく精巧なにせ物ではないのか。十年ほどまえ、リンカン・ブールヴァードに沿って、これは現物であると誰もが見まちがうようなプラスティック製の椰子の樹が、並木として植えられたことがあった。このにせものの椰子の樹はLAの人々から集中攻撃を受け、火焰放射器で焼かれたりした。

 頭を垂れて深くおじぎをしたかっこうの椰子の樹は、野生のネズミの住みかだ。あるショッピング・センターの建物の巨大な白い壁には、その壁に沿って立っている椰子の樹が西陽を受けてつくる本物の影のほかに、その本物とそっくりの影が、入念に描いてある。このようなユーモアをたたえたファンタジーが、椰子の樹にまつわるだけでも無数に存在するLAは、ひと言で形容するならやはりアウトレイジャスなのだろう。

▶︎Outrageous L.A.(1992), Robert Landau,Chronicle Books.

底本:片岡義男エッセイ・コレクション『なぜ写真集が好きか』太田出版 1995年

タグで読む03▼|片岡義男の書いたアメリカ

banner_tag_america

関連エッセイ


1995年 アメリカ カリフォルニア ロバート・ランドー 写真集 片岡義男エッセイ・コレクション『なぜ写真集が好きか』
2017年7月29日 00:00
サポータ募集中