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イースト・サイドの、暑い日の午後の消火栓

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 それほど緊急の用事でもない、という感じでパトロール・カーがくる。歩道に寄ってそのパトロール・カーはとまり、サマータイム・ユニフォームを着た中年の警官がふたり、外に出てくる。ひとりは居心地悪そうにあたりを見まわし、レンチを持ったもうひとりは、水の太い柱を中空にむかって斜めに噴出しつづけるファイア・ハイドラント(消火栓)にむかって、大股に歩んでいく。水の柱の反対側にまわったその警官は、レンチで消火栓のバルブを閉じていく。空にむかって白くきらめきながら立ちのぼっていた水の勢いが、がくんと落ちる。警官は、さらにレンチでバルブを閉じていく。水の柱は弱々しいアーチになり、それがさらにいちだんと小さくなり、消火栓にむかってひっこむように勢いを失い、やがてとまる。消火栓のホースの接続口から噴き出ていた水の柱はあとかたもなく消え去り、濡れた歩道と、歩道と車道のさかい目の、一段だけ低くなったところを浅く流れていく水、そして頭から足さきまで気持ちよさそうにずぶ濡れになった何人ものシティ・キッズが、あとに残された。

 煉瓦やコンクリートだけの大都会にも、夏はやってくる。近くにプールもない貧しい地元の町っ子にとって、歩道に立っている消火栓は、魔法を生み出してくれる直立不動の小人だ。

 暑い夏の日の午後、誰かが、その消火栓のバルブをあけた。冷たい透明な水がほとばしり出た。その瞬間、夏の暑さをいっぱいにはらんだままどこへもそれを放出することのできなかった煉瓦の壁やコンクリートの歩道、そしてアスファルトの車道は、夢のような田園地帯にある永遠に牧歌的なスイミング・ホールに変わったのだ。

 シティ・キッドたちが、歓声をあげて、集まってきた。空にむかって勢いよく噴きあがった水は、スモッグをかいくぐってきた陽ざしをうけて透明にきらめきながら、歩道や車道に落下していく。その水を頭から浴びて、シティ・キッドたちは、コンクリートや煉瓦から解き放たれる。車道の両はじを、水が流れる。その浅い流れのなかを裸足で走りまわるとき、動いている水が自分の肌に触れるときの、ほかにたとえようのない楽しさを知る。

 ガーベジ・キャンのふたを持って、ひとりの少年が走ってきた。消火栓の水が空からもっとも勢いよくしかも集中的に落下してくる地点に、その少年は、ガーベジ・キャンのふたを頭のうえに傘のように持ち、しゃがみこんだ。水がそのふたを叩き、彼の体を濡らし、車道に落ちた水が何重にも飛びはねる。ガーベジ・キャンのふたを叩きつづける水の轟音が、少年の体の内部をひたしていく。消火栓の水の、シティ・キッドなりの、精いっぱいの楽しみ方だ。さらに、二人、三人と、ガーべジ・キャンのふたを持って、少年たちが飛び出してくる。

 ひとりの少年が、缶詰の空き缶を持ち、消火栓にかけよっていく。噴き出ている水のむこう側にまわった彼は、空にむかっている水の奔流のなかに、空き缶をさし出す。

 その空き缶は、底もてっぺんも切り取ってある筒だ。少年の手のなかにあるその筒によって、太く噴き出す奔流の一部分が、くっきりとまとまりを持った。空き缶の向きを変えると、噴き出しつづける水の主流とはべつに、きれいにまとまってひとつの意志を持ったような水の柱が、少年が缶をむけた方向に、飛んでいった。少年は缶の向きをさまざまに変え、空のいろんな方向にむかって水の柱を飛ばした。

 この学校嫌いのシティ・キッドが、こんなに一生懸命な表情を見せるのも、珍しいのではないのか。

 もうすこし大きい空き缶を持った少年が、消火栓にかけよって交代した。この缶には、まだ底がついていた。その底へ水がまともに当たるようにして、少年は水の奔流のなかへ空き缶をさし出した。缶の内部にいったん閉じこめられた水は、なかで勢いよく渦をまき、消火栓から出てくるときよりもさらにアナーキーな飛沫の連続となり、まず最初に当の少年を叩きまくった。

 水による突然の逆襲に、少年は歓喜の叫びをあげ、目を閉じる。顔を、そして全身を、空き缶の底からはねかえってきた水が叩きまくる。あとずさりしながら、少年は、空き缶を持っていた手をはなす、空き缶は水の勢いにからめとられ、空高く舞いあがっていく。頂点までのぼり、落下してきて車道に落ち、乾いた音をたてる。カラン、カランと、車道を転がっていく。その転がっていくむこうから、パトロール・カーが来たのだ。消火栓の水をとめに来たパトロール・カーだ。

 消火栓は消火のためにある。いったん必要になった場合に充分な水圧がなければ、なんの役にも立たない。バルブを勝手に開かれては困るのだ。したがって、消火栓が開かれているという通報があれば、パトロール・カーが現場に来てバルブを閉じなくてはいけない。

 夏の暑い午後、ずぶ濡れのシティ・キッドたちが見守るなかで、バルブを閉じる役をやりたがる警官など、どこにもいない。しかし、誰かがやらなくてはいけない。

 バルブを閉じた警官たちは、やってきたときとおなじように、居心地の悪そうな様子で、帰っていった。シティ・キッズのための、幻のスイミング・ホールは、なくなってしまった。歩道や車道を濡らしていた水は一時間とたたないうちにすっかり乾いてしまい、もちろん、シティ・キッドたちも、コンクリートと煉瓦のなかで、完全に乾いていく。

 ニューヨークのマンハッタン、ローワー・イースト・サイドのイメージで、暑い夏の日の消火栓について、多少ともセンチメンタルに書いてみたら、以上のようになった。シティ・キッズというとなんだか聞こえがいいけれど、いま書いてきたような文章の文脈のなかでは、たとえばスラム街の子供たち、と言ったほうが正確かもしれない。『ニューヨーク・ストリート・キッズ』という、たいへんに素晴らしい写真集をながめつつ、この文章をぼくは書いた。

 十九世紀の終わりちかくから現在にいたるまでの、光り輝くニューヨークではなく、ありていに言って貧民街ニューヨークの、主として街頭における子供たちの生態を記録した何枚もの写真が、なんの気負いもなく、素直にならべてある。写真には、それぞれみじかい説明文が加えてある。

 いい写真集だ。日本ふうなコミュニケーションのしかたの世界では、こういう写真集の場合、芸術的な個的心情の内部にたてこもったり、世の良心に強く訴えます式の、肩に力の入った社会派のドキュメントになったりするかもしれないが、アメリカ式コミュニケーションの世界では、すんなりとした淡々たる直球の、あっけらかんとした素直な記録性が、もっとも重視されている。そしてその素直な芸術性のつみかさなりのなかに、詩情のような芸術性が、押しつけがましいパターンなしに、きちんと宿っている。

 マンハッタンのローワー・イースト・サイドの、林立する貧乏テネメントのルーフトップにあがって子供たちが凧をあげるのが、マンハッタンのストリート・キッドたちのあいだに古くからある伝統なのだというようなことを、この写真集でぼくは知った。

▶︎New York Street Kids(1978), Dover Publications, Inc.

底本:片岡義男エッセイ・コレクション『なぜ写真集が好きか』太田出版 1995年

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