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虚ろな内側をよく見ておきなさい

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 ジュリー・ロンドンが歌う「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」の歌い出しは、三とおりのマイナー・コードのなかを下降して上昇しそこからふたたび下降するメロディによる、四分の三拍子の四小節だ。そしてそのなかで、Fly me to the moon and let me play among the stars.と、きわめてすっきりと、いっさいの無駄なく、主題が提示される。

 この見事な歌い出しの、最初の Fly me の二語だけで早くも、美しく澄みきった夜空の空間が、あらゆる方向に奥行き深く、彼女の声のまわりにだけではなく歌声そのものの内部に、いっきに広がる。そしてその広がりは最後まで端正に維持される。アーニー・フリーマンの編曲、演奏者たちの練達の腕前、ジュリーの声の質と歌いかたなど、あらゆる点で完璧な歌がひとつ、ここにある。彼女にとっては確か七枚目となった一九六三年のLPに、この歌は収録されている。

 僕が最初にこの歌を聴いたのは、大学を卒業して就職したものの三ケ月で辞め、フリーランスのライターを始めた頃だ。自分には自分しかないということは、私大の文科系という無風地帯で過ごした四年間でよく認識したはずだが、ではその自分とはなにか、いったいなにが自分なのかとなると、答えはほぼ完全に無なのだった。青年の僕はいっさいなにも持ってはいず、きれいさっぱりすっからかんの虚ろな状態だった。その虚ろさの内部にくまなく、ジュリー・ロンドンによるこの歌が広がってしみ込むと、自分の内面の虚ろさは純粋であるように感じられ、それはけっして悪いものではない、と青年の僕は思った。そのような思いは、そこから先の自分に関する覚悟のようなものではなかったか、といまの僕は書く。

 これからの自分に関して、よりどころはなにもなく、当てにできるものも皆無という、空虚さそのもののような状態は、しかし嫌ではなかったし、そこから逃げ出したくなるようなものでもなかった。なぜならそのような虚ろさこそが、そのときの自分のすべてだったのだから。したがってなにがどうであれ、すべては受けとめて肯定するほかなく、受けとめれば受けとめるほど、自分にはなにもないことが、よりいっそうはっきりしていった。そしてそのような自分を、僕は虚ろさのどこかで楽しんでいた、という記憶が間違いなくある。

 日本で最初にヒットしたジュリー・ロンドンの歌は「クライ・ミー・ア・リヴァー」だった。一九五七年のことだ。当時の日本ではいったんヒットすると、そこから少なくとも一年くらいは、きわめて頻繁に、主としてラジオで、その歌を耳にすることができた。高校生だった僕はこの歌をそのようなヒット・ソングのひとつとして受けとめたのだが、彼女の美しい歌いかたのなかにときたまふとあらわれる下世話な感触は、少年の心の片隅に残った。

 高校生の僕はすでにLPを買う人だったから、彼女にとって最初のLPとなった一九五五年の『名前はジュリー』と、それに続いた『ブルースについて』さらには「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」が収録されている一九六三年のLP『この世の果てまで』へと、LPはすべて手に入れて繰り返し何度も聴いた。このLPのタイトルとなっている「この世の果てまで」という歌は、一九六二年に録音されて次の年にヒットとなったもので、「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」の直前に僕は受けとめている。この歌も心にしみていまもそこにある。「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」の直前だから、このふたつの歌は僕の内部で多分に重なってもいる。そして重なっていると言うなら、一九五七年の「クライ・ミー・ア・リヴァー」以来、何枚ものLPの歌すべてが重なっているのだから、「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」を受けとめるための準備は、このようにして充分に整っていたと言っていい。

「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」という歌を借りてジュリー・ロンドンの歌声が作り出す、清廉な夜空のどこまでも深い静かな空間に、虚ろさのさなかにいた僕は、強い共感を覚えた。この歌を何度繰り返し聴いても、聴くそのたびに、彼女の歌声は僕の心の内面を照らし出し、ほら、よく見ておきなさい、と僕に説いてくれる。ふと下世話になるときの彼女は、年上の魅力的な女性の典型なのだが、こんな女性はどこをどう探したっているはずはないという確信が、彼女の歌声の内部に宿る月までの空間を、僕の心のなかで支える。

(初出:『At Once』二〇〇八年九月号 底本:『ピーナツ・バターで始める朝』東京書籍 二〇〇九年)

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2017年7月21日 00:00
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