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「あんた、なに食う?」

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 ホノルルの下町の、日系人たちが主として日常的に利用する安食堂の雰囲気を言葉で描写するのはなかなかむずかしい。安食堂という言葉は、けっして悪い意味ではない。そのような場所でのそのような食堂は、「安食堂」以外ではありえないのだから、安食堂という用語はまったく正しい。

 そのような食堂には、まずドアがない。気候の関係もあってのことだろうけれども、ダウンタウンにおける安食堂の機能というか、その場所をめぐる日系人たちの生活の、トータルなありかたと深くかかわってのことにちがいない。のれんがさがっていることもあるが、ない場合のほうが多い。

 正面入口の戸口というものが、ドアなしで、ぶっきらぼうに長方形にあいている。その長方形は、たいていの場合、大きい。がらんとした内部への、そこ一箇所にただ入口として存在するなにか普遍的な空間なのだ。ホノルルの下町の古い建物にその食堂がある場合だと、その食堂の戸口は、分厚い感じがする。構造的に文字どおり分厚いし、頑丈であるから、感じだけではなく、ほんとうに具体的に分厚いのだ。そして、その分厚さを感じるとき、たとえばホノルルのダウンタウンの、日系人たちの安食堂という、日本の日本人からはまるで想像もつかない異質な文化の総体を、肌で感じとることになる。

 その食堂でどのようなものが食事に供されているとか、店の備品の雰囲気やたたずまい、食事をしに来る人たちの様子などに関して書いていくときりがない。それに、ここで書こうとしていることからはすこし距離のあることがらだから、これ以上には触れずにおこう。

 さて、安食堂に入って席につく。ウエイトレスが出てくる。ウエイトレスといっても、まあ、おばさんだ。席についている人物が、人相・風体から推して土地の人間のようであるならば、そのおばさんは、すこし離れたところから、

「ホワッチュ イート?」

 と、訊いてくる。突っ立って顎をあげ気味にした彼女から、こう訊かれたとき、ハワイの日系人社会という、たとえようもなく面白くしかもほかに類のない、まったく独特な文化との触れあいがはじまっていく。

「ホワッチュ イート?」をそのまま日本語にすると「あんた、なに食う?」だろう。いかに下町の安食堂とはいえ、客として入ってこう訊かれることは、特殊なかたちでよほどのなじみにならなくては、日本ではありえない。そのありえないことが、ダウンタウン・ホノルルではありうるのだということをぼくは面白がっているのではない。

 現地では、「ホワッチュ イート?」など、面白くもなんともない日常語だ。だが、日本語には在るていねいさとか、あたりのやわらかさ、敬意の表現のしかたなどが完全に欠落したこのハワイの日系人アメリカ語こそ、その社会の文化の心とか中核ないしは真髄みたいなものだとぼくは考えている。そして、このぞんざいな機能主義的で簡明なひと言から、その完全に異なった文化のなかに入っていけるという事実がぼくには面白いのだ。極端な言い方をするならば、その面白さは肉体的な快感ですらある。なぜならば、ダウンタウンの安食堂で「なに食う?」と訊かれること自体、かなりむずかしいからだ。

 そのおばさんウエイトレスに、このヒトはロコ・ボーイ(ローカル・ボーイつまり地元の人)だと思ってもらえないことには、こうは訊いてもらえない。見るからに日本のヒトである客には、ウエイトレスは「日本食あるよ。なに? 知らん。ないね。メニュー見なさい、英語、よう見ん?」というような調子で応対している。

 この言葉づかいは、しかし、彼女のつもりとしては乱暴ではすこしもなく、内心はともかく、相手を軽蔑しているのでもなければ、すげなくしているのでもない。彼女にとってはなかば異国語である日本語で、意をつうじあっているにすぎない。

 多くの場合、日系二世である彼女たちの共通の日常言語であるピジン・イングリッシュ(ハワイの人たちに独特のアメリカ語)に生のかたちで接するのは、ひとつのトータルな肉体的な行為ないしは作業だ。誰の目にも「ロコ・ボーイ」として映るようにしているためには、本物のロコ・ボーイの身のこなしや口のききよう、表情、着ているものの肌合いなどを、そっくり映し鏡にしていなければならない。それがずっと成功していて、あるときじつはロコ・ボーイではないということがばれるのだが、ばれたときのその相手の純粋な驚愕は、ぼくにとってのたしかな手がかりだ。

 向う側の人そのものになってしまっては、面白くもなんともない。出来うるかぎり、こちら側と向う側との中間にいて、時や必要に応じて相手との距離をつめたりのばしたりしているといいのだろうと思う。いけすかない行為であることにはちがいない。しかし、ぼくが真面目に興味を持っている異質な文化の首根っこをおさえるためには、まずその文化の共通言語に関してエキスパートになるという道以外にぼくは道を知らない。その、いろんな意味でとても面白い文化ないしは言語も、あと十年もすればほとんど跡かたなく消えてしまいそうだ。

 ハワイの日系アメリカ人たちのうち、ぼくにとってやはりいちばん興味ぶかいのは、二世だ。二世というと、年齢的には、三十代の後半ないしは四十歳近くから、七十歳以上の人たちまでがふくまれる。一世は日本にちかすぎるし、三世は、完全にアメリカ人だから、やはりぼくの対象からはずれてくる。

(底本:片岡義男エッセイ・コレクション『僕が書いたあの島』太田出版 一九九五年)

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2017年7月16日 00:00