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内省のアクア・マリーン

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 目を覚ます直前、ほんの一瞬、水のなかに浮かんでいる感覚がある。その感覚のなかを自分は上昇していく。水のなかからその外へと、自分は出ていきそうになる。だから水のなかへ自分を戻そうとして体に力を込めると、そのとき目が覚める。眠っているあいだは誰もが水のなかにいる、という説をどこかで読んだ、あるいは聞いた。

 ベッドに起き上がるとき、自分の体の重さを自覚する。そうか、これが自分という存在なのだ、とそのとき思う。ベッドを離れてドアまで歩く。立ちどまってふと振り返る。たったいままで自分が眠っていたベッドが、いまは空っぽだ。自分の痕跡だけがベッドの上にある。そして自分はそれを見ている。眠りの名残が、薄い皮膜のように、自分の全身を覆っているのを、僕は感じる。

 シャワーの水がそれを洗い流してくれる。水に剝がされた眠りの皮膜は、体の表面をタイルのフロアへと、流れ落ちていく。顔を上に向けて水を受けとめながら、これは禊ぎの一種だろうか、と思う。とある川の山深い上流の、浅い澄んだ流れの冷たさを思い出す。あの水には確かになにかが宿っている。いまのシャワーの水をあの山奥の水につなげるべく、気持ちの集中力を高めようとする。日常のなかに連続する時間のなかにある、ほんのちょっとした隙間のようなひととき。そのなかで僕はひとりシャワーの水に打たれる。

 濡れた体で水を飲んでいる自分は、自分ひとりだけの自分だ。水はほどよく冷たい。胃のなかに小さな湖が出来ていく。苦笑しながらもなかば真剣に、そんなことを思う。ひとりでいる時間は、常になんらかの意味で、禊ぎの時間なのではないか。今日はひとりで過ごすことにきめてある。ひとりで過ごすとは、たとえるならそういうことではないか。口のなかに水を入れて、それを飲み下す。水とこの自分との、もっとも真摯な関係は、いまこの瞬間のなかにある。

 かりそめにしてもここには水がある、と自分で自分に言う。その自分はプールとそのなかに満ちた水を見ている。今日はこのプールが自分の居場所だ。幸運なことに陽ざしは強く明るい。空に雲はない。そして空の色は内省のアクア・マリーンだ。「プールの水の上に浮かぶのではなく、プールの水のなかに全身を沈めて、そこに浮かんでいるのがいちばん好き。屋外のプール。晴れた日。水のなかでゆっくり反転しながら、水の層ごしに空を見ます。あるいは台風の日。水のなかに入ると、ほんとに静かなのよ」というようなことを語った女性がかつていた。溺れているのだと早とちりしたライフ・ガードが、助けに来てくれたことが一度だけあります、などと彼女は言った。

 ダイヴィング・ボードの先端につま先で立ち、穏やかに弾みをつけながら、彼女が語ったことの続きが、僕の頭のなかを走り抜けていく。直撃コースの台風がすぐそこまで接近していた日の午後、その島のホテルのプールでダイヴィング・ボードから水に向けてダイヴしたら、強烈な突風を受けとめた彼女の体は、空中にあったほんのわずかな時間のあいだに、三コース分ほど横へ飛ばされたという。

 ダイヴした瞬間。突風に流されている時間。そして水面を叩き割り、水のなかへと頭からもぐり込む瞬間。どれもみな、たぐい稀な正解の時だ。自分に対して真の作用力を持つのは、そのような正解のみであり、それら以外にはあり得ない。そんなことを思いながら、ダイヴィング・ボードを蹴って、僕は空中を水面へと向かう。

(底本:『自分と自分以外──戦後60年と今』NHKブックス 二〇〇四年)

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