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カルピスについて思う

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 少なくとも僕の体験のなかでは、カルピスは女性と深く結びついている。カルピスは僕の幼年期から青年期にかけて、女性の一部分であった、という言いかたをしてもいい。カルピスに性別があるなら、それは女性ではないか。

 子供の僕が友だちの家へ遊びにいく。あるいは、どういう間柄だかよくわからないままに、親戚の家へ連れていかれる。友だちのお母さんやお姉さん、そして親戚の叔母さんが、夏でも冬でも、僕にカルピスを出してくれる。友人の父や兄、あるいは叔父など、男が出してくれたカルピスというものを、僕は一度も体験していない。

 ガラスのコップに底から二センチほどカルピスを入れ、そこへ水道の蛇口から水を注いでスプーンでかき混ぜ、ストローを一本添えて出せば立派なおもてなしなのだから、カルピスは日本の知恵だ、ミニマリズムのジャパニーズ・スタイルだ。

 よそで飲むカルピス、つまりお客さんとして出されて飲むカルピスは、原液が自宅で飲む場合よりも多いから、濃くてひと味違ってそれがなかなか良かった、子供心にうれしかった、という話を遠い昔、僕はどこかで聞いた。日本および日本の人たちがまだ質素だった頃の、いまは帰らぬ懐かしい民間伝承のひとつだ。

 僕にカルピスを出して台所へ戻っていく友だちのお姉さんの、やや長めのスカートの裾から出ているふくらはぎ、くるぶし、そしてかかとなどの造形と雰囲気は畳と見事に調和し、カルピスと完璧に一体だった。

 服部良一の名歌『銀座カンカン娘』のなかに、「カルピス飲んでカンカン娘」というフレーズがある。「カ」という音の頭韻であることを越えて、一九四十年代が終わろうとする一九四九年という時代のなかで、その時代の先端を歩いていたはずの「カンカン娘」たちですら、銀座でカルピスだった。いまも健在なら彼女たちは七十代の後半だ。

 そしていま、カルピスはたとえば缶入りとなって、自動販売機で二十四時間売られている。一例としてそれはカルピスウォーターだそうだ。硬貨を投入してボタンを押すと、受け取り口に缶がひとつ、どしゃーんと落ちて来るときの音は、いまの日本の音の一例だろう。

 その缶を残業帰りの若い女性が取り出し、プル・タブを起こして缶を口につけ、夜の駅構内を歩きながら、虚ろな視線をあらぬ方向へと泳がせ、おじさんさながらにぐびぐびと飲んでいる。これもまたジャパニーズ・スタイルだろうか。時代は変わるという。好きなように変わればいい。

(底本:『白いプラスティックのフォーク──食は自分を作ったか』NHK出版 二〇〇五年)

今日は”カルピス”98回目の誕生日(1919年発売)|カルピス公式サイト|想いと歩み

カスピス98周年

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2017年7月7日 00:00
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