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マグリットの絵のように

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 梅雨つゆが近い。しかし今日は晴れていた。海と海岸の上に青い空が広がり、夏のような陽ざしが満ちている空間のなかを、さわやかに風が吹き渡った。

 その風のなかに、今日の彼と彼女はいた。ふたりは午前中からともに仕事をしていた。お昼になって昼食をふたりで食べているとき、今日のような美しい日にこれ以上に仕事をするのはもったいない、とふたりの意見は一致した。午後からの仕事はすべてさぼることにきめた。

 彼の車ですぐに出発し、一時間三十分後には海岸に着いた。そしてそれから一時間近く、ふたりは海の風を受けとめながら散歩をした。広い海岸に人の姿はなく、きわめて快適だった。さぼったのは正解だったと、ふたりは喜び合った。

「あなたはまだ結婚しないの?」

 砂丘をふたりで登りながら、彼女がきいた。

「相手がいないよ」

 彼が答えた。

「相手は見つからないの?」

「見つからない」

 困ったような口調で彼が言った。だから彼女は、

「見つからなくて困ってるの?」

 ときいた。

「困ってる」

「どうして?」

「会社の上司から、なにかと言えば結婚しろよと言われて、強いプレッシャーをかけられ続けているから」

「それだけ期待されてるのよ」

「家庭を持たせて、エネルギーの再生産の場を確保させ、その家庭もろとも、僕を会社機構の所定の場所へはめこもうとしている」

「会社というものにとって、独身の男性社員は、都合が悪いのね」

「会社としては扱いにくくて、不安なんだよ。自分の都合だけで、僕を結婚させようとしている。いけすかない」

「どこでもそうみたいよ」

 砂丘の上に立ちどまり、海のほうに視線をむけて、彼女が言った。

「男性社員に結婚させたり、社内結婚の橋渡しをしたり、とにかく社員の結婚を目的にありとあらゆる活動をするための別会社が設立されて、そこへ転出した友だちがいるわ。そしてその友だちは、独身の女性なのよ」

 砂丘の上でふたりは笑った。

「結婚しろと、あまりにもうるさく言われるので、それが嫌で会社を辞めた友だちがいるよ。海外にいたのだけど、日本へ一時帰国するたびに、嫁さん連れて帰ってこい、と言われるんだって」

「どうしてあなたには相手が見つからないの?」

 砂丘を下りながら、彼女がきいた。

「三年前に別れた」

 と彼は答えた。

「別れた、と言うよりも、僕はふられた。ちょうど今日のような日。海のすぐそばで。桟橋のたもとに彼女は自分の車を停めて、そのかたわらに立っていた。海を背景にして、彼女と車に陽ざしが明るく注ぎ、風が吹き、彼女の髪とスカートのすそがなびいていた。その光景が、いまでも僕の心のなかに焼きついている。三年たっても、それは消えない」

「それほどに素敵な人だったのね」

「心に焼きついているその光景のなかから、彼女と車とが切り抜かれて、ぽっかりと白く穴があいたままになっている。マグリットの絵のように」

「わかるわ」

「その白い空白の穴をぴったりとふさいでくれる人の登場を、僕は待っている。待ちながらすでに三年たってしまった」

 彼の言葉を受けとめて、彼女はしばらく考えた。そして次のように言った。

「おなじ人はふたりといないのだから、空白を完全にふさいでくれる人はいないでしょう」

「ということは、理屈では僕にもよくわかっている」

「理屈ではないのね」

「そうだね」

「イメージを愛しているのよ」

 車を停めたところまで、やがてふたりは戻った。その車を指さして、彼が言った。

「彼女が乗っていたのとおなじ車。色もおんなじ。別れたあと、捜しまわって手に入れた」

 その車のかたわらに彼女は立った。風が吹いた。彼女の髪とスカートが、その風になびいた。

「当然、この私でも、空白はふさがらないのね」

 心からすまなさそうな表情をして、彼は彼女の言葉に首を振った。

「空白は埋まらない」

 と彼は言った。

底本:『ノートブックに誘惑された』角川文庫 1992年

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