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憧れのハワイ航路

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「チャイチャイブー」のひと言がなぜぼくにとって衝撃的であったかについて書くまえに、秩父丸に三等客として乗るとどのような感じであったかに関して、明らかにしておかなくてはならない。すべては有機的に複雑に連関している「チャイチャイブー」をわかるためには、秩父丸に三等客として乗ってホノルル航路やサンフランシスコ航路を旅する実感がわからなければいけないのだと、なんの根拠もなく、ただ本能的にぼくは理解している。だから、一九三〇年代なかばのホノルル航路の三等船客にしつこくこだわるのだ。その船客が体験したのとおなじ体験はもうできないのだからぼくとしてはいろんな間接的なやり方でその体験をさまざまに部分的なかたちでいまひろい歩かなければならない。

 ハワイから日本まで、三等の船賃は五十数ドルから六十ドルほどだった。アメリカ本土までの船賃とのあいだにはせいぜい数ドルの差しかなく、その差の少なさには、驚かされた。ハワイは日本とアメリカの中間にあるけれども、横浜や神戸とサンフランシスコとのあいだの船賃のちょうど半分、というわけにはいかなかったのだ。船賃を払うほうにしてみれば、とても損をしているような感じがあった。

 為替は四倍だった。つまり、一ドルを日本へ持っていって日本のおかねにかえると四円になった。片道六十ドルの船賃は、日本円になおすと二百四十円だ。二百四十円の現金は、日本ではかなりの大金だった。盛りソバが十三銭だったし、子供が二人ほどいる年齢の街角の巡査の給料が五十円くらいだった。片道六十ドルの船賃は、決して安くはない。一等だと三百ドルから四百ドルだった。

 ハワイやアメリカ本土への日本からの移民は、一九二四年の排日移民法をもっていっさい禁止されている。だから一九三〇年代のなかばに秩父丸の三等船客になってホノルル航路を旅している人といえば、商用の足代を安くあげようとしている人をのぞくと、ハワイやアメリカ本土から一時的に日本へいこうとしたりあるいは一時的に訪問した日本から再びハワイやアメリカに帰ろうとしている一種の旅人たちが多かった。すでにアメリカ国籍となっている人たちは、アメリカ合衆国のパスポートを持ち、そうでない人たちは、「一時日本訪問」というような但し書きのついたパーミットを持っていた。

 アメリカ本土から日本へ一時的に帰る人たちと、ハワイから日本へむかう人たちとでは、ひと目で区別がついた。アメリカ本土からの人たちは、きちんとスーツをきてタイをしめ、靴をはき、マナーもちゃんとしているのに反して、ハワイの人たちはひどく陽にやけていてにぎやかで、ゾウリばきで船のデッキを走りまわっていた、もちろん、喋る言葉もまるっきり雰囲気がちがっていた。アメリカ本土の人たちは、まともな英語なのだが、ハワイの彼らは、ピジンまるだしだった。

 経済的な余裕がさほどあるとも思えない彼らが日本への旅行をするにいたる動機や理由は、たとえば一九三五年版の『日米住所録』に載っているホテルの広告などを見ると、その一端がわかる。

「皇紀二千六百年記念 北米母国観光団 一九四〇年戦勝国の帝都東京へ! 観光の準備は今から!」というような文句をつらねた広告がのっている。年表をながめてみると、一九三七年から三八年にかけて、「日本軍、南京を占領」「日本軍、徐州を占領」「日本軍、広東を占領」などとあるから「一九四〇年戦勝国」とはこういったことをさすのだろう。

 武運さかんな母国へ行ってみたいとか、親類たちにおかねを持っていって一時的にしろ錦を飾ってみたいとか、小学生くらいの年齢になった我が子に日本で教育をうけさせるために母国へ連れてかえるとか、そんなふうな理由で彼らは三等船客となっていた。

 太平洋航路の豪華船には、乗りこんだ客たちのあいだでのハイエラルキーが非常に明確に存在した。一等、二等、三等の区別は厳重に守られた。一等船客のための設備を三等の人たちが使うということは、ありえなかった。一等と三等の客がおたがいに交流しあってなじみになるということもなかった。

 三等船客の船室は、大部屋だった。位置は、吃水線のすこしうえだ。船に乗りこんだら階段をどんどんおりていかなければならない。「ここより三等客は入るべからず!」などと書きつけてある標識をいくつもみながら、数十名から百名ほど入れる大部屋にくだっていく。カンヴァスの簡易べッドが二段つらなっていて、枕と毛布がそえてあるほかに、設備はない。簡易べッドとは、つまり担架のようなべッドのことだ。普通の銭湯の半分ほどの大きさの共同浴場があり、海水をわかした湯だった。あがり湯は、真水を湯にしたものだ。便所も日本式だ。食事も、朝、昼、夕と三度とも、日本の田舎ふうの簡単な食事だった。味噌汁、つけもの、ごはん、煮もの、そして魚が一匹あればいいほうだ。こんなふうになにごとも日本ふうにしておけば手間もはぶけるし、おどろくほど安あがりだ。大部屋の、スペースのあいているところに木製の長いテーブルとべンチを持ち出し、そこに食事がはこばれてくる。三等船客たちは、そこで、二交代くらいで食事をした。

 三等船客たちに提供される娯楽のようなものは、映画とレコードだった。映画は日本の現代ふうなメロドラマ。レコードは、当時のはやり歌だ。映画が上映されるときには、ひとりが一ドルくらいを紙につつんで持っていき、船員たちに渡していた。大部屋ごとにとりまとめて代表が手渡すこともあった。船が提供する娯楽というよりも、船員たちのアルバイトの感が強かったのではないかと思われる。これは確認しておかなくてはいけない。船員が三等甲板のうしろのほうで歯ブラシや手ぬぐいを売る日用雑貨の小さな売店を出すこともあった。三等客はそこで歯ブラシやツメ切りを買ったりしていた。

(底本:片岡義男エッセイ・コレクション『僕が書いたあの島』太田出版 1995年)

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2017年4月29日 00:00
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