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今日も小田急線に乗る

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 小田急線の駅名のなかに「ヶ」という片仮名が六つある。そのうちの四つは花と関係している。その花とは、新宿のほうから順に、梅、百合、そして桜だ。百合はふたつならんでいる。「ノ」と言う片仮名がひとつ。これは片瀬江ノ島だ。「ランド」と「センター」がひとつずつ。これは微笑を誘う。いまはさほどではないかと思うが、ちょっと前の日本では、ランドとセンターを避けたらどこへもいけなかった。外来語片仮名はもっと多いかと思ったが、意外に少ない。外来語片仮名がなければ日本は成立しなくなって久しいが、このような片仮名を取り入れることに関して、駅名というものは意識的に慎重であろうとしている、と僕は推測する。

 漢字ひとつの駅名は小田急線にはない。漢字はふたつ、あるいはそれ以上だ。快速急行で座席にすわって眠っているとなにもわからないが、小田急線はかなり複雑な地形のなかを西へと向かっている。そのような地形を言いあらわす漢字を、駅名から拾ってみよう。丘が四つ。前が五つ。台がふたつ。沢がふたつ。さらに次のような漢字が、いずれもひとつずつ。田。川。江。野。原。山。泉。沼。谷。平。地形の様相のほとんどを、駅名は忠実にあらわしている。丘や台は、イメージ用語ではなく、ここでは地形を反映した言葉だと考えたい。

 明らかに最近の事情に対応して採用された漢字の駅名とは対照的に、いつの時代とも知れない、どことも特定のしかねる、由来や歴史を知らない人にはまったくわからない、しかしたいそう日本を感じさせる駅名が、沿線にたくさんある。梅ヶ丘、豪徳寺、経堂、という三つならぶ駅名は、その典型だろう。いつも小田急線に乗っている人たちには見なれた駅名でしかないかもしれないが、あらためてその字面を眺めると、もはや幻としか言いようのない、いにしえの日本に踏み迷う感がある。

 おなじような意味で、蛍田(ほたるだ)という駅名に僕はかねてより強く惹かれている。この駅を通過したことは何度もあるが、ホームに降りたことはなく、駅の外へ出たこともない。柿生(かきお)という駅名もいい。ここでは降りたことがある。小田原から箱根湯本までは、直結している箱根登山鉄道の路線だ。そしてこの沿線には風祭(かざまつり)という素晴らしい駅名がある。ここにも僕は降りたことがない。

 小田急線の思い出を過去に向けてさかのぼっていくと、僕が中学校の一年生だった頃まで到達する。なんとか記憶があるのはそのあたりまでで、そこから以前はなにも覚えていないと言っていい。二輌連結でのんびりと走る各駅停車の電車は、はっきりと思い出すことができる。梅ヶ丘と世田谷代田のあいだを走っている様子、あるいは世田谷代田駅に停車する光景など、セピア色に変色した古い写真として、頭のなかのモニター・スクリーンに浮かんでくる。旧国鉄の昔の車輌とおなじような濃いあずき色に塗装された、当時すでに充分に古風な造形の電車だった。ドアを乗客が開けていた、という記憶がある。降りる人はなかから、そして乗る人は外から。手で開けて、手で閉じるのだ。降りる人も乗る人もなければ、ドアは開かれない。

 荷物電車というものも走っていた。乗客の乗る車輌とは趣の異なる、見るからに荷物電車という作りの、働き者の印象が強くある車輌だった。多くの場合、一輌だけで走っていた。平日の午後の曖昧な時間、夕刊の束や専用の頑丈そうな袋に入った荷物などを、作業員がプラットフォームに降ろしている光景を、見ることができた。

 砂利を積んで走る無蓋の貨物列車もあった。ほんの数輌を連結して、凸型をした小さな電気機関車が牽引していた。駅のホームで電車を待っていると、多摩川で採取した砂利をほどよく積んだこの貨物列車が、目の前を通過していくことがときどきあった。南新宿の踏切を上り線で越えてすぐのところに、本線から左へと出ていく短い引き込み線がかつてあった。貨物列車はここへ入って砂利を降ろしていた。その砂利がいつもいくつかの小山を作っていた光景が消えたのは、いつ頃のことだったか。

 テキサス州アマリロ出身の彼は、エルヴィス・プレスリーと生年そして生まれ月がおなじだった。身長もおなじ、そして体つきは瓜ふたつ、したがって歩きかたやふとした身のこなし、さらにはぜんたいにわたってかもし出される雰囲気や立ち姿など、エルヴィス・プレスリーそのものだった。

 エルヴィスよりもやや鋭角的だったが、顔だちも気味が悪いほどに似ていた。くすんだ真鍮色の長めの髪を、エルヴィスをもしのぐ見事なダック・テイルにまとめていた。体つきや顔だちがここまで似ていると、声や喋りかたもそっくりとなる。なにごとかをめぐってなぜかひとり不機嫌になっているような、むっとした表情が持ち味で、瞳はまっ青だった。日本語はわかるのだがいっさい話さず、たいていの人は彼のことを怖いと言った。僕が彼とつきあったのは、僕が十八歳から十九歳にかけての一年ほどで、彼は僕より三歳だけ年上だった。

 この期間、彼は代々木のワシントン・ハイツで生活していた。彼の生活はそのなかですべて完結するのだが、日本人の母親の実家が和泉多摩川にあり、母親はなぜかほとんどいつもそこにいた。週に二、三度、エルヴィスそっくりの彼は、参宮橋の駅から小田急線の電車に乗り、母親のところへいっていた。僕が彼と待ち合わせするのも参宮橋の駅であることが多く、先に彼が来ていると、参宮橋のプラットフォームにエルヴィス・プレスリーがひとり、つくねんと立っているのだった。和泉多摩川駅までの駅名を彼は覚えようとせず、いつも指を折っては、通過する駅の数を数えていた。うっかり川を越えたらひと駅だけ引き返せばいい、というエルヴィスの言葉を、喋るテキサス英語の額面どおりの、裏もおもてもなかったつきあいやすさとともに、僕は宝物のように記憶のなかに持っている。

底本:『ピーナツ・バターで始める朝』東京書籍 2009年

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2017年4月28日 00:00
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