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「の」の字のコレクション

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 五年ほど前、古書店のカタログを見ていて、思いついた。なんとかのかんとか、というふうに「の」の字ひとつによって、なんとかとかんとかが結びつけられているタイトルの本を買う、という遊びだ。半分までは本気だが、残りの半分は冗談なので、遊びと言う。本のこのような買いかたを、なんと呼べばいいか。ほかに呼びようがないから、「の」の字のコレクション、と僕ひとりで仮称している。

 領域を限定しないと、際限なく買うことになる。際限なく買うことに意味はほとんどない。なにかとなにかが「の」で結ばれているタイトルは小説に向いている。だから小説に限定するといい。時代も区切ろう。事実上の昭和初年である昭和二年、芥川龍之介が自殺した年から、太平洋戦争に大敗北した昭和二十年まで。面白い買いかたになる。実行してみようか、と思わなくもない。

 だから試しに何冊か買ってみた。戦後から昭和三十年くらいまでのあいだに新書判で刊行されたもの、という限定をつけてみた。『女の日記』『山の音』『黄金の星座』『青衣の女人』『未完の告白』の五冊だ。カタログに掲載されていたから買った。選んだわけではない。

 やや古びた新書判を五冊、手に持って背のタイトルを眺めているだけで、かなりの感銘がある。この五とおりの題名のなかで、もっとも削ぎ落とされた印象があるのは、『山の音』だろう。一見したところきわめて平凡な、なんですかこれは、と多くの人が言いかねないような題名だが、字面を見るだけでも、『山の音』とは相当なものだ、と僕は思う。

 この作品を僕は初めて手にする。初めてだけに、発見がある。五年かかって書かれた長編だということだが、ぜんたいは十五篇の短篇で構成されている。その十五篇のどれにもタイトルがあり、「山の音」「蟬の羽」「雲の炎」「栗の実」などすべてが、「の」によって結ばれた、なにかとなにかで統一してある。こういう発見はうれしい。「の」というひと文字に、この作家は意地のありったけを込めてこの作品を書いた、と僕は解釈する。僕がやるような、軽い冗談的な思いつきなどではないはずだ。

 山の音とはなにか。内容を知らないまま推測すると、音は山の一部分、つまり山の内部のものだ。大きすぎることなく、小さすぎもしない、ほどよい量感の山なみを見ていると、その視覚をとおして気持ちのなかに音を聞く。あるいは、何年にもわたって見なれた山なみの記憶が、最後には音としかいいようのないものとなって、心のなかに宿る。『山の音』というタイトルを、僕はこんなふうに解釈する。この解釈がどこまで正しいかを確認するために、僕はこの小説を読む。「の」の字のコレクションとは、一例をあげるならこういうことだ。

「の」という平仮名はほとんど曲線で出来ていて、優しくたおやかな印象がある。日常的にもありとあらゆるところで多用する、便利きわまりない、なくてはどうにもならないひと文字であり、しかもわずか一音だから、いっさいなにも思うことなく、「の」という言葉を誰もが使う。使っている自覚すらない「の」の字ひとつをさまざまに手に取り、ためつすがめつしてみたい。

(底本:『自分と自分以外──戦後60年と今』 NHK ブックス 2004年)

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2017年4月27日 00:00
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