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主体的に判断しながら様子を見る日本

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二〇〇三年十月二十九日

 いわゆる国際社会、つまり世界各国の複雑微妙な関係の重なり合いのなかで、日本はどのような考えにもとづいてどの位置に立ち、どんな方向に向けてなにをしようとしているのかといったことがらをめぐって、次のような言いかたが最近になって特に多用されているようだ。僕の目にすらとまるほどだから、多用ぶりは異常と言っていいのではないか。思いつくままに列挙すると、次のようになる。

「総合的な見地から判断する」
「日本が主体的にきめていくこと」
「大局的な観点から」
「さまざまにある選択肢のなかから」
「慎重に見きわめていきたい」
「関係各国との話し合いのなかで」
「理解と協力を求めていくことに変わりはない」
「一日も早い解決をめざして」
「日本の役割はきちんと果たす」
「日本自身の判断としてやっていきたい」

 こうした言葉が首相以下日本政府の面々によって、ほとんどあらゆる文脈や状況で使われている現実のなかに、いまの日本がある。自分たちから見れば外である国際社会にある、さまざまな要素や状況、関係のからみ合いの軽重や力関係を慎重に計り、もっとも無難な均衡点を見つけてそこに自分をとりあえず置くという方針とも言えないような方針を採択せざるを得ないとき、いま僕が列挙したような言いかたは、なにも考えなくても首相といえども口をついて出てくる、もっとも陳腐な言いあらわしかただ。

 このような言葉の多用ぶりは異常と言っていい、とたったいま僕は書いたけれど、こんなものの言いかたを首相や政府が頻繁に用いることが、たいへん良くないことだと言いたいわけではない。こうとしか言いようのない状況のなかにいまの日本がある、という事実を指摘したいだけだ。やっかいな複雑さにおいてはいずれも負けず劣らずの、しかも数多くの外圧に取り囲まれ、にっちもさっちもいかない状態にあるのが、現在の日本だ。主体的な判断などそこにはなにひとつあり得ないはずなのに、「日本自身の判断としてやっていきたい」などと首相は言う。こういう言葉を正確に解釈しなおすと、日本の主体的な判断が成立する余地はどこにもないのでこうします、というような意味になる。首相がそう思っているかどうかは別として。

 視線を経済の領域へと転じると、なにかと言えば採用されるものの言いかたが、そこにはそこでかなりのヴァリエーションで出揃っていることに、すぐに気づく。列挙してみようか。

「穏やかな回復への基盤が整いつつある」
「依然として低調に推移している」
「弱めの動きに変わりはない」
「一時的に下げ止まる可能性もある」
「企業の好況感も改善しつつあり」
「業績の上方修正期待もあるなかで」
「先行き不透明感が強い」
「この先まだ不透明感が残る」
「このところいくぶん増加のきざしもあるが」
「懸念材料としてあがっている」
「いくぶん改善のきざしは見られるものの」
「なお時間がかかる見通し」
「先行きには慎重な見方を崩していない」
「ほぼ一様に横ばい圏内にある」
「穏やかな増加に転じていく可能性はある」
「ぜんたいとして慎重姿勢をにじませる」

 新聞の経済面がこのような言いかたの見本帳となって久しい。経済について書く新聞記者たちの、言葉の能力の問題ではない。こうとしか言いようがないから、彼らは今日もそして明日も、こんなふうに書く。日本経済は依然として低調なまま、少し上がったかと思うとまたすぐに下がる。これがどこまで続くのか、そして低調さはさらにどこまで落ちていくのか、誰にもわからない。どうしていいのかわからず、したがってなにも出来ない、確かなことはなにも言えない。当然の結果として様子を見るほかなく、そのような状態を言いあらわすものとして、いまならベたような言いかたが多様にある、ということだ。

 いまの日本に出来るのは、主体的に様子を見ることだけである、という現状がこうして目の前に浮かび上がってくる。

(初出・底本『影の外に出る──日本、アメリカ、戦後の分岐点』NHK出版 2004年)

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