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いつもの自分の、いつもの日本語

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 かつて日本の首相がアメリカのTV局で時局討論番組に出演したとき、放映されたその番組を僕は見た。このときのこの番組に対する、あるひとつの視点からの感想は、すでに別の本に書いた。今度は別の視点から、さらに少しだけ書いておこう。

 その首相は英語の出来る人として知られていた。自らも英語には自信があったのだろう、彼はその番組に通訳なしで出演し、男性三人女性ひとりの、合計四人のアメリカ人ジャーナリストと対峙した。

 慣れない異国で、しかも出演することにほとんど意味のない番組で、初めから四対一の不利となるというようなことについて、我が首相はなにも考えなかったようだ。四人のアメリカ人たちは、いつもの自分たちの番組という慣れた場で、日本の首相を待ちかまえればそれでよかった。スタジオのセットにある椅子のサイズが、自分の体に合わないというようなことすら、首相は意に介さなかった。

 日本の首相ひとりと、アメリカのジャーナリストたち四名。彼らがいわゆる日本問題を英語で討論するのを見物していた僕に、ほどなくはっきりとわかったひとつのことは、英語なら英語という言葉の機能に対してなにをどのように期待しているか、日本の首相とアメリカのジャーナリストたちとではまるっきり異なる、という事実だった。

 日本の首相のものの考えかたの根幹にあるのは、ものごとにはすべて善し悪しの両面がございます、というようなものだった。ひとつの出来事のなかに、好都合と不都合、プラスとマイナス、帯に短ければたすきには長いといった両面をかならず見て、その両面をそのつど案配しながらどこか中間あたりに道をつけていくという、アメリカのジャーナリストにはとにかく最初から嫌われるほかない価値観を日本の首相は持ち、その価値観に忠実に沿いながら英語で語った。

 なにに関してであれ、それはそれ、これはこれだから、アメリカの言い分に対して譲れない部分があるということを言うだけであっても、その問題につきましてはそもそもの発端はこういうことで、そこからの経過としてはそうですが、おっしゃるとおりの部分とそうではない部分とがあり、ただいまの現実の問題としてはご説明したとおりですから、そのへんにはご理解をいただいて、というふうな展開になる。

 かたやアメリカのジャーナリストたちは、ルールの人たちだ。ルールとは、いったんそれを引き受けたなら恐ろしいまでに対等で、どこまでも透明で、恐ろしいまでになにごとに対してでもあてはまる、という性質のものだ。日本にもこのルールをあてはめ、ルールの内部に取り込んだうえでねじ伏せよう、と彼らは待ちかまえていた。

 四人のうちでも論客として知られている男性の、日本の首相に対する開口一番は、「アメリカは日本から自由に輸入しているのに、日本はアメリカからの輸入に関して、大きな障壁を国家として設けている。ホワイ・イズ・ザット?」という、あまりにも単純化されているがゆえに、日本の首相の相対主義では答えようもない質問だった。

 アメリカのジャーナリストたちは、喧嘩腰で待っていたわけではない。いつも使っている自分たちの言葉で、日本の首相を迎えたにすぎない。日本の首相も、いつも使っている自分の日本語でものを考え、喋っていた。ただし彼の場合は、そのすべてをくるむいちばん外側の薄皮一枚が、英語だった。両者がいつも使っている言葉のあいだにある、際立った差異というものを、十数分にわたって僕は呆然と観察した。

 湾岸戦争のときの日本の首相も、いつもの日本語ですべてを語る人だった。それまでずっと使ってきた政治家の日本語を、彼は湾岸戦争に対しても使った。戦争に関してブッシュ大統領と電話でやりとりしたが、日本はこのような考えにもとづいてこのように行動するという明確な態度の表明が、首相に出来たとは誰も思わない。

 電話で話すよりもすぐにアメリカへいき、議会で演説するというのは望みすぎなのだろうか。演説でなにを語るか。日本で維持してきた米軍基地の重要性と、維持してきた判断の正しさがいま証明される、と言いさえすればそれでいい。同盟国としての理念の共有という態度は、これで表明できる。基地の維持経費について声を大にして語れば、日本ただ乗り論は一蹴できるし、アメリカはいまさら日本に軍資金など要求できないことも、言外の明白な意味となる。

 追加支援の九十億ドルをアメリカから求められて、首相は承諾した。日本国民に対してのまともな説明は、なにひとつなかった。そして記者会見では、この支援金を供出しないと日本は国際社会で孤立する、と首相は言った。そしてこれが世界じゅうに報道された。

 孤立はただの前提だろう。それに、孤立こそ望ましい状況である場合も、少なくはないはずだ。しかし、いつも考えているとおりのことをいつもの日本語で言うと、こうとしか言えない。

 国際社会という言葉を英語で言おうとすると、ほとんどの場合、反射的に、インタナショナルなんとかになるのだろう。インタナショナルはあまり使わないほうがいい言葉だ。と言うよりも、賢い人はまず使わない言葉のひとつだ。国内を総動員態勢でがっちりと固めたうえでいっきに世界へ打って出る、というような感じがこの言葉にはあるから、賢い人は使わない。

 しかしいったん使ったなら、責任も義務もなにもかも、あらゆる領域にわたって、極限的に双務的となってしまう。極限的に双方向的な義務や責任をどうするのか、明確に表明しなくてはいけない。日本はなにも言わなかった。孤立したくない、と言っただけだ。あれだけの銭を払ったじゃないかという論理は、必要にして充分なおかねを積むことが誠意になる日本国内だけでしか、通用しないことだ。

 考えかたや態度をなにひとつ表明しなかった日本は、いつも日本語でやっているとおりのことをしたまでだ。そしてそれは、国際社会では、自動的にルール違反となった。なにもわかっていないというルール違反の上に、言うべきことをなにひとつ言わなかったというルール違反を重ねたのは、いつも使っている日本語で、日本の外でもすべてはまかなえるはずだと思ったからだ。

 世界に貢献する日本、という言いかたが、あの頃は盛んになされていた。日本の首相もこれなら言えただろう。いつもの自分の言葉で、すんなりと言うことが出来る。なにかいいことを言った気持ちになれるかもしれないが、いまでは日本の大衆にとってすら、このような言いかたは、内容も意味もない単なる空疎な言葉でしかない。

 たわむれに英語にしてみると、空疎さはよくわかる。世界は言わずもがなだとすると、貢献する日本とは、ジャパン・ザット・コントリビューツだ。いったいなにを、どの方向へ、どの程度、どれほど真剣に、考えておこなうのか、いっさいは不明のままだ。

 国際社会で孤立したくないとか、世界に貢献したいとかの言いかた、あるいはその気持ちは、いつも自分が身を置いているしがらみ的な人間関係の網の目の、しかるべき位置に自分を置いて安心していたいというありかたを、まったく無自覚なままに、そしてなんのあてもなしに、世界へと拡大しようとした試みだ。

「日本はアメリカと一心同体であります」と、アメリカへ赴いた首相が日本語で言ったのを、僕は記憶している。貢献する日本とおなじく、一心同体でありますという言いかたもまた、首相にとってはいつもの日本語なのだ。こう言ったとたん、極限的に徹底した、そして厳しいと言うならこれ以上のものはないほどに厳しい、具体的な責任や義務を日本は引き受けることになるのだが、いつもの日本語ではそんなことには思いもおよばない。

 だから結果として、あのときはああ言ったまで、ということになる。国際社会のなかの日本とは、こういう国にならざるを得ない。そしてこういう国は、じつは敵なのではないかと、アメリカならずとも思うだろう。

 政治家の言葉は、最初からそのように意図した結果の空疎さを、かならず持っている。内容はまったくない言葉が、語り口調によってさも意味ありげになっていて、陳腐だからこそわかりやすい誠実さを中心にした説得力をこめて、常に妙に滑らかだ。

 日本国内だけでしか通用しないこのようないつもの日本語が、いつでもどこでもそのままに通用すると思って首相が喋っている様子を、アメリカのTVニュースの画面で見るときのいたたまれなさこそ、我が日本なのだ。

(初出・底本『坊やはこうして作家になる』水魚書房 2000年)

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2017年4月18日 00:00