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書き順と習字(2)

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 なにごとも適当でいいとは、ごまかす、さぼる、ずるく立ちまわる、というようなことではない。自分に出来る範囲が自分であるという決意、つまり、そのときの自分自身を、いったんは全面的に肯定することだ。

 入学式のあった日の小学校に関しては、これ以外に僕はいっさいなにも記憶していない。いち早く適当モードに入ったせいではないか。小学校が巨大な水槽なら、僕はざるになるのがいちばんいい、というような考えかたないしは態度だ。

 まったく別の場所の別の小学校を、通算六年で卒業するまで、僕は適当モードに入ったままで過ごした。それ以外の過ごしかたが出来なかった、と解釈するともっとも正しい。学校へは原則として毎日いくことになっているけれど、けっして毎日いく必要はない、適当に間をあけていいのだという、自主的なお休みモードを中心に、僕の小学生の日々は経過していった。

 一日一科目にしろ、教室のなかにいた日は、六年間で合計三百日ないと思う。僕の計算では、登校日は平均して月に五日だったことになる。それで切り抜けることの出来た時代だった、という言いかたをしておこう。そんな時代ではなかったなら、とうてい切り抜けることは出来ないのだから。

 教室のなかで自分の机に向かって椅子にすわっていると、先生が喋るのを聞いているだけとなる。僕のありかたはひとつに固定される。しかし教室に入らなければ、僕のありかたはきわめて不定型つまりまったくの自由であり、どこでなにをして過ごしてもいいという、じつに豊饒な時間があることを、僕は早い時期に発見した。

 これはごく当たり前の発見だ。毎日きちんと学校へいく子供にとっても、いちばん豊かな時間は、休み時間、放課後、夏休み、冬休み、春休みなどの、自由時間なのだから。教室のなかで我慢している時間との対比があってこそ、自由時間は豊かに輝く、と僕自身は言わないけれど、そのような意見がもしあるなら、なかばまでは賛成してもいい。

 近所の子供たちすべてが学校へいっているとき、自主的なお休みモードに入っている僕は、ほとんど常に、圧倒的にひとりだった。ひとり、という状態をどうすればいいのか。小学校低学年にして早くも、僕にとってはこのようなことが、重要な主題となっていた。

 学校へいった日が、小学校の六年間をとおして三百日くらいだと、どういうことになるか。小学校で教えられて誰もが知っていることを、ほとんど知らないという奇妙な子供になるのはどうでもいいとして、自動的にまず確実にマイノリティの一員となる事実は、いろんな意味で興味深い。

 当時の小学校には、どの学年のどのクラスにも、マイノリティがかならずいた。僕もその一員だったマイノリティとは、どんな子供たちで構成されていたか。足の具合が不充分な子供。ひどい蓄膿症の子供。脱腸の子供。知能にやや遅れのある子供。僕がいまも記憶しているのはこの四人であり、さらに僕が加わって合計五人が、ひとクラスのなかのマイノリティだった。ひとつのクラスのなかで五人という数は、マイノリティとして位置を確保することの出来る数なのだ。

 六年間で僕の登校日はおまけして三百日だったとして、一年では五十日だ。授業があるのは十か月だとすると、ひと月あたり五日、僕は教室にいたことになる。この数字は、僕の記憶のなかにいまもある感覚と、重なる。ひと月に五日の登校、しかも一科目で帰ってしまったりすると、いわゆる勉強はまったく出来ない子供になる。だからマイノリティとならざるを得ない。

 ある日の国語の授業を、いま僕は思い出している。その日は父兄参観日と言って、教室での勉強ぶりを親たちが見物に来る日だった。教室のうしろに、父兄つまり母親たちがたくさん立ち、授業の進行を見守っていた。

「それではカタオカくん、田という字を黒板に書いてごらん」と、先生は僕を指名した。いまにして思えば、これはわざわざのご指名だった。田という字が僕には書けないことを知っていて、田という字を黒板に書いてみせろと、先生は僕に言った。

 小学校の三年生くらいだったか。国語の授業の、漢字の書き順を学ぶ日だった。いくら僕でも田という字は知っていた。田んぼの田だということだし、田中というやつの名前にある字だ。しかし自分では一度も書いたことがないから、黒板に書けと言われても、正しい書き順で書くことは、僕には出来なかった。

 当時の僕の認識によれば、田という字は、ひとつの正方形が縦横それぞれ一本ずつの線によって、四つの等しい部分に分かれている字、というものだった。黒板へ出ていった僕はチョークを持ち、おなじ長さの横線を、等間隔で三本、引いた。そしてそれに重なるように、おなじ長さの縦線を、これも等間隔で三本引いた。これで田という字の出来上がりだ。

 みんな笑った。父兄とともに先生も笑っていた。「それは田という字ではない。小さな四角が四つあるだけだ」と、先生は言った。小学校での勉強をなにかひとつのことに象徴させると、それは漢字の書き順ではないか。世のなかには無数にルールがある。世のなかに出ていきたければ、ルールを知って守れ、ということだ。横、横、横、縦、縦、縦の六本の線で田という字が出来ましたと言っても、誰も相手にしてくれない。

 ランドセルにいっぱいの重い荷物の問題は、入学して十日ほどたって、すべて解決した。これらの荷物は学校へ持ってきて使うのだから、持って帰らずにそのまま学校に置いておくなら、重いものをいちいち持ってこなくてもいいはずだ、と僕は考えた。机のなかにランドセルごとすべて押し込み、持って帰るのは弁当箱だけとした。

 ある期間、すべてはうまくいき、たいそう快適だった。そしてある日、ランドセルもなにもかも、すべてが忽然と消えた。そして消えたままとなった。誰かがどこかへ持っていき、いつまでも返してくれない、と僕は思って現在にいたっているが、こうして書いているいま思いついたのは、たとえば用務員のおじさんが、忘れ物として先生のところへ持っていき、先生はそれを保管してくれていたのではなかったか。僕の登校は月に五日だから、先生もいつしか忘れてしまった、という可能性は充分にあった。授業中の僕が教科書もノートも持っていないとわかると、先生は僕を叱った。しかし、なにしろ月に五日の登校だから、僕はいっこうに目立たない存在でとおすことが出来た。

 習字の道具まですべて消えたのは、いい気分だった。習字の授業のときには、右隣の子供から半紙をもらい、左隣の子供に筆を借りて、墨をつけさせてもらう。そのかわりに、僕が水をくんでくる、墨を擦る、授業が終わったら硯や筆を洗う役を引き受けるという取り決めで、すべては滑らかに進行した。

 小学校での勉強で僕にとって印象が深いのは、さきほどふれた書き順と、習字だ。どちらもなんとなく似ている。そしてどちらも、ルールを何度もなぞることによって、それを身体にしみ込ませる、というような営みだ。

 六年もかけていいかどうかは別として、小学校は必要だと僕は思う。しかし、けっしてさほどのものではない。あまりに過大な期待は持つべきではないと思うし、なにからなにまで小学校に要求してもいけない。そして小学生の頃の僕がしばしば思ったのは、もっと世のなかと直接につながった事柄を学んだほうがいいのではないか、ということだった。勉強の内容は現実から乖離し、教室のなかだけで完結しているような気がした。

 いちばんいけないのは、先生の側から子供たちに対してなされる、なおざり、乱暴、自分勝手、無思慮、無配慮、画一や一律、強制、無視、問答無用、禁止、抑圧、というようなことだ。そしてこのようないけないものすべてを一身に体現しているのが、教科書だと僕は思う。営利を目的とする会社が編纂し、国家機関が検定し、会社の営業努力によって学校単位で一律に採用されるという、現在の教科書のありかたは、小学校の本質と大きく矛盾している。

 小学校の先生としてひとまず社会に足場を獲得している人たちが、教科のぜんたいを正しく俯瞰しつつ、それぞれに自分で教科書を作ればいい。完璧を目ざす必要はどこにもないし、そんなものはあり得ず、それは小学校の役目でもない。先生が自前でなにをどこまで、どう考えるか。これが少なくなればなるほど、それによって出来る隙間を、さきほど列挙したいけないことばかりで、埋めていくことになる。

→(了)[全2回]

底本:『坊やはこうして作家になる』水魚書房 2000年

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2017年4月2日 05:30
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