アイキャッチ画像

豆腐屋はいまもまだある

LinkedIn にシェア
LINEで送る
Pocket

子供の頃から三十年近くにわたって住んだ世田谷のその一角には、いつも利用する私鉄の駅を中心にして商店街があった。一日のどの時間でも人がたくさん歩いている、賑わいのあるいい商店街だった。一九七十年代のなかばあたりまでは、この商店街は昔と変わらない賑わいを見せていた。いまはもうないと言っていい。商店街は消えてしまった。道そのものが、事実上はもうない。駅を出てすぐのところでゆるやかなS字を描きつつ、踏切に向けて下っていく坂道となっていた。

この道からほんの少しだけ脇へ入ったところに、かろうじて、とは言いたくないのだが、豆腐屋がいまもある。僕が三十年にわたって、毎日のようにその前を歩いていた頃となんら変わりのない店とその雰囲気だ。いまはまだ盛業中なのだと思いたい。店主は二代にわたっているだろう。昔からずっと周辺に住んでいる人たちが、その豆腐屋で豆腐を買い続けている。年齢を重ねても豆腐は好んで食べるから、そのようななじみ客を核のようにして、豆腐はここで買うときめている人たちが、その店の商売を支えている。

踏切に向けての下り坂を降り、踏切とは反対側へいくと、その道もやがて下り坂となる。金物屋。お茶屋。蕎麦屋。和菓子屋。 こういった店が、消えゆく残響のなかになんとかたたずむ、といった雰囲気でいまも営業しているように見える。いちばん早くに店を閉めたのは、米穀店あるいは精米店つまり米屋だったような気がする。写真館。写真機店。洋品店。書店。酒屋。精肉店。魚屋。靴屋。牛乳店。文具店。乾物店。八百屋。喫茶店。商店街に必須のこうした店が、あるときか急速にかたっぱしから消えていった。古書店すらあったのに。八百屋や魚屋は、商店街が発揮する賑わいという求心力の要だったから、したがって最後まで頑張ったように思えたが、いつのまにかなくなった。

駅前から商店街が消えていくという変化をもたらした最大の要因は、人々のありかたの変化だった。ずっと以前は、私鉄の郊外駅を中心にした、あるようでないような、しかしまったくないとは言いきれない、不思議な地域社会のつながりのなかに、人々は生きていた。駅で電車を乗り降りするのはそのような人たちであり、電車は彼らを乗せて運んだ。そして彼らが、地元の商店街で日常の買い物をした。

経済の時代が急上昇と急拡大を続けるのに合わせて、そこに住む人々のありかたが激変していった。なんの縁もゆかりもなく、あるとき突然そこに住み始め、あるときおなじように突然、そこを去ってどこかへいってしまう、というありかたの人たちが急激に増えた。彼らがなぜそこへ来て住むようになったのか、その理由はなにかというと、会社への通勤に便利な物件がたまたまそこにあったから、というようなことでしかなかった。通勤に便利だという条件は、彼らという人々のありかたを象徴している。彼らは経済と消費の単位として、地域や関係から際限なく切り離され、どこまでも孤立していく運命の人たちなのだ。人々のこのような変化と不可分のものとして、日常のための商品の売りかたが、専業小売店の建ちならぶ商店街から一軒のなかにたいていのものはあるスーパー・マーケットへと変化した。

いまは消えたこの商店街の近くに、子供の頃から三十年ほど住んだ僕も、もとをたどるならあるとき突然そこへ来て住み始めた人だった。三十年ほど住んだという、ただそれだけの理由で、昔はまだあった近所や界隈といったゆるやかな網の目のなかに、なんとなくひっかかっていただけだろう。その三十年間のちょうどなかばあたりから、僕の住んでいた場所やその周辺は、駅から徒歩五分の閑静な住宅地、といった経済価値のほうへと、急速に傾き始めたのを、自分の体のなかに起きた変化のように、いまでも僕は記憶している。

(『白いプラスティックのフォーク──食は自分を作ったか』2005年所収)

タグで読む03▼|東京を考える/東京から考える

Tokyo_タグで読む_バナー画像

関連エッセイ

2月16日 |この貧しい街の歌を聴いたかい


2月24日 |町にまだレコード店があった頃(1)


3月2日 |忘れがたき故郷


4月13日 |植草さんの日記に注釈をつける


6月13日 |写真を撮っておけばよかった


7月17日 |東京の隙間を生きる


2005年 『白いプラスティックのフォーク──食は自分を作ったか』 世田谷 東京
2017年3月16日 05:30
サポータ募集中