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体に悪い日本語

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 体に悪い食べ物、というものは確かにあるようだ。ごく普通の食べ物だと思われていて、多くの人が日常的に食べているけれど、そのまま食べ続けるとやがて体のあちこちの機能を損なう、という性質の食べ物だ。このような食べ物を中軸のひとつにして体に悪い生活習慣というものが、人々のあいだで広く実践されている。食べ物とならぶもうひとつの柱は、体に悪い人間関係だろうか。これも会社を拠点にして日本全国に蔓延している。ストレスの大きい人間関係に耐えようとしているうちに、深刻な事態へとつながっていく、したがって体に悪いわけだ。

 食べることも人とのさまざまな関係も、すべて無言のうちに営まれるのではない。無限に近い数の言葉が、おなじく無数の関係のなかを飛び交い、伝達や媒介の機能を果している。ではその言葉は、大丈夫なのか。体に悪い日本語というものが、人々のあいだに深く縦横に根を下ろし、人々のエネルギーの社会的に見て健全な燃焼を、大きく妨げては損失を生んでいるのではないか。そう思ってあらためて点検してみると、人々によって頻繁に、そしてなんの自覚もないまま反射的に使用されている定型的な言葉のほとんどが、見るからに体に悪そうなものに思えてくる。思いつくままにいくつかあげてみる。

「そこをなんとか」

 ルールはきまっている。明文化されている場合も多い。全員がそれを正しく守らなくてはいけない。それはよくわかっている。しかし、「そこをなんとか」とは、自分にだけは特例を認めろという、ルール無視ないしは原則破りの方針だ。「そこをなんとか」し続けてきた人たちは、自分の都合に合わせていかようにでも曲げることの出来る融通無碍が、なににも増して自分の得になることをよく知っている。なんとしても自分は損をしたくないという願望が、ルールを曲げようとする力となって国家システムと接合されると、許認可、指導、裁量、手加減、見て見ぬふり、抜け穴、と いったインタフェイスとなり、そこから奥に向けて、利権、族議員、派閥、政権といった回路が出来ていき、それが国家そのものとなる。

「うちにはなんのメリットもない」

 ここで言う「うち」とは、発話者が社員として所属している会社のことだ。メリットという言葉は、英語では、称賛に値する行為や蓄積、価値などのことであり、金銭的な利得の意味はどこにもないが、日本では損得の得の意味でのみ、使用されている。うちのメリット、つまり会社の儲け。会社の儲けが社会の核心となった戦後の日本を象徴するようなひと言だ。うちのメリットにならないものは、打ち捨てていっさい省みないという方針が、あらゆるものが会社仕様であるという極端に偏った日本を作り、これがいま限界に衝突して崩れ落ちつつある。

「そこまで固く考えることはないんだよ」

 固く考えることのもっとも肯定的なかたちは、ルールの尊重や原則の遵守だ。そしてそこまでは固く考えないとは、ルールなどいちいち守りたくないし守るつもりもない、という態度の表明にほかならない。自分の都合をとおすための、融通無碍な、その場ごとの状況や力関係にもとづく自在な裁量でいこうじゃないかという、ルール無視による自分の都合つまり利益を最優先する方針は、たとえばこんな言葉となって、いまもいたるところで飛び交う。

「くさいものには蓋」

 くさいものがそこにある、という現実に蓋をしてしまう。くさいものは存在しないも同然となる。そのことによって、蓋をした自分はどんな得をするのか。対策その他、自分の頭ではなにも考えなくていい、という状態が手に入る。長続きはしない状態ではあっても、自分で考えるのがなによりも嫌いで、自分ではけっして考えないという方針で生きていく人にとってもっとも有効な方法は、とにかく蓋をしてしまうことだろう。自分では考えない方針とは、自分の考えだけでは生きていけないのが現実である、と認めることだ。周囲の動きに自分を合わせ、いつのまにかなんとかなって いくのを期待し、なんとかなったら素早くそちらの側に身を置いてしまえば、そこから先はなんとでも言える。

「そうなってほしいね」

 ほしい、という願望が実現したとして、そうなるのは、なぜか。ひとりでになるのか。誰かがそうするから、そうなるのではないか。人間の世界では圧倒的に後者だろう。誰かがそうするから、そうなるのだが、誰がするのかといえば、それは絶対に自分ではない。周囲に合わせて動くことのほかには、自分はなにもしない。「そうしてほしいよね」という言いかたもある。自分でそうするのではなく、自分は関係しないところで事態がそうなっていくことを期待したり、それに依存したりするものの言いかたは、たいへんに多い。「そうしたいものだと思います」と言う人は、自分からはまず動かない。「そうなってますから」という言いかたは、いまほんの仮のこととしてそうなっているだけのことを、永久不変の現実へと変えてしまう。「今度そうなったから」「これまでそうしてきたから」といった用法もおなじ次元のなかにある。「みんなそうしてるから」という、字面だけ見るとまるで他愛ないひと言は、すさまじいプレッシャーとなってあらゆるものを押しつぶす。その結果として、「そういうものか」「そういうものだ」という、修正されることもなければ向上することもない世界観の上を這って、誰もが生きていくことにもなる。

「そのへんに誤解があったとするなら」

 誤解というよりも明らかに違反や逸脱があったからこその事態なのだが、その事態の発生原因が 「とするなら」のひと言で仮定の話にされてしまう。誤解が「あった」という言いかたも卑怯だ。誤解とはあるないの問題ではなく、当人が不用意にもしでかす問題ではないか。ただ単に仮定の話にするだけではなく、誤解なんかなかった、あるわけない、なに言ってるの、あんた、と自分の非を認めないついでに、逆の方向へ居直ってもいる。

「状況を見守りたい」

 自分は見守る側にいる人であることを宣言する言葉だ。見守るのだから絶対に動かない。いやだよ、動くもんかという、動きたくない意思の表明であると同時に、動きたくてもどう動いていいのか、事態の本質がそもそもわかっていない自分であることを認める言葉でもある。「考えていかなくてはいけない問題だと思います」という言いかたと似ている。これはこれで、先送りする、軽視する、対処しない、甘く見る、無視する、ないものとする、自分の問題だとは思わない、他人ごととする、といった態度の見事な表明となっている。

底本:『自分と自分以外──戦後60年と今』NHKブックス 2004年

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2004年 『自分と自分以外ー戦後60年と今』 日本 日本語 社会 言葉
2017年3月13日 05:30
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