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過去と未来から切り離されて

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 自分、という人にとって、いちばん楽なありかたは、どのようなありかただろうか。自分、という人は、この自分自身という意味ではなく、いまの日本に生きている人たちのひとりひとり、というほどの意味だ。

 自分という人の基本は、なにかを思い、その思いにもとづいてなんらかの行動をするという営みの、合計だ。思い、そして行動するためには、そのための場、つまり時間が必要だ。その時間というものを、過去、現在、未来つまりこれから先、という三つに分けて、そのそれぞれに、思う、という機能をあてはめてみることにしよう。

 自分、という人のもっとも楽なありかたは、もっとも楽な思いかたにほかならない。過去に関してのもっとも楽な思いかたは、そのときはそう思った、しかしそのときはもう終わってどこにもないし、引きずってもいないから、過去などいまの自分にはいっさい関係ない、したがってなんの責任もないという、過去とは完全に切れた思いかただ。

 現在については、どうだろうか。いまはこう思う、そしてそう思う自分とは主観の総体だから、なぜいまはそう思うのかその理由には、主観のおもむくままという理由しかない。いま自分にそう思わせる主観とは、ごく小さなふとした思いつきのような欲求や、どうでもいいような衝動としての気持ちの動き、といったものだ。なしですますことの出来ない同調性ゆえの、人とおなじく自分もこれが好きと思い込んでしまう心理なども、加えておかなくてはいけない。そしてこのような現在は、さきほど書いたような過去へと、かたっぱしから移っていく。

 これから先については、いったいどんなふうに思うと、自分、という人はもっとも楽なのか。これから先について、どう思うか。まったくわからない、という思いかたが、いちばん楽だ。まったくわからないとは、そのときになってみないとわからない、ということだ。

 自分、という人には、そのときという場が、かならず必要だ。場というものはいろんな条件を提示してくるから、それらを適当に組み合わせるなら、そのとき自分はどう思うかの回答はほぼ自動的に出てしまう。だから、そのときという場が、いまこの場という現在になるまで、なにもわからない、つまりなにも考えないでいる。それがもっとも楽だからだ。

 現在は、まさに、そのとき、という場だ。過去のすべてが、かつては現在の、いまこのとき、という場だった。思ったり行動したりするために、かならず必要ないまこのときという場は、自分という人にとって、絶対のものであると言っていい。なにを思うにしろどのように行動するにしても、現在という場は唯一のきっかけなのだから、そのかぎりにおいてそれは絶対だと言っていい。

 自分という人は、そのような絶対の現在のなかにいる人だ。現在というこの場がほぼ絶対のものなら、そこにいる自分という人も絶対に近いことになる。いまこの現在という場にいる、いまこの自分という人。それは絶対の存在なのだ。そしてこのような絶対の現在の人が持つ最大の特徴は、すでに書いたとおり、過去とも未来とも完全に切り離されていることだ。現在は刻々と過去になっていく。そして過去と未来とは、切り離されている。となると、自分という人は、真の関係をどことも結んでいない人、ということにならないか。

 ここで言う関係とは、いつもの仲間と毎日のように顔を合わせること、などではない。知らないことを学んでいく、重要なことを知っていく。多くのことを有効に関係づけて理解して感じ取る能力を高める。想像力を鍛え、洗練させる。というような、真の関係、これが自分という人から、ほとんど抜け落ちている。そしてその人は、そのことに気づいていない。だから、いまこの場という現在にいる自分に関して、深刻な欠落などいっさい感じていない。

 いまこのとき、という絶対の現在と、自分という人とは、どのようにつながっているのか。さまざまな商品を買うことで、つながっている。いまはこれ、と声高らかに売り出されるものを、いまこの場の人である自分という人は買う。買わざるを得ないから買う、と言ったほうが正確だろう。

 いまはこれ、と売り出されている商品は、無数に近くある。もっとも浅い種類の主観によって、つまりそのときどきの好みで、自分という人は商品を選んで買う。その行為は、いまはこう思うというありかたの、まさに典型であり核心だ。商品だから次々に取り替えることが出来る。次々に取り替えることこそ、絶対の現在との関係だ。そのときどきの好みを、理由にすらならないような理由にもとづいて、少しずつ変化させていけばそれでいい。こんな楽なことはない。

 あらゆるものは取り替えることが可能だ。しかし、自分だけは、取り替えがきかない。それまでとは違った自分へと自前で変化していく、という経路を持っていない自分という人は、刻一刻の現在のなかにはまり込んで不動だ。自分という人は、このことをよく知っている。知っているからこそ、自分以外のすべてを、取り替えなくてはいけない。

 取り替える理由として決定的なのは、それは自分には合わない、自分には向いていない、という理由だ。現在は刻一刻と次の現在へと変化していくのだから、自分という人は自分以外のものを常に、かたっぱしから次のものに取り替えていなければならない。あらゆるものが、前提として最初から、自分という人には向いていない。

 さきほど書いたような真の関係など、これでは作りようがない。したがっていまという現在が、ますます絶対的なものとなっていく。いまが絶対であればあるほど、自分という人は過去や未来と切り離されていく。刻々と過去になっていく現在のなかに埋め込まれたまま、その人はどう変化することも出来ない。過去から学ばないから、未来は仮想することすら不可能だ。戦後五十数年の成果として、これがいまの日本の人たちの、およその基本形だろう。

(『坊やはこうして作家になる』2000年所収)

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2000年 『坊やはこうして作家になる』 戦後 日本 時間 社会 自分 過去
2017年3月12日 05:30
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