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基本英単語について

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 太平洋戦争中の日本が、アメリカによる日本の本土への爆撃を初めて体験したのは、一九四二年四月十八日のことだった。真珠湾攻撃から半年後だ。

 航空母艦に爆撃機を積んで日本へ接近し、飛行甲板から爆撃機を飛び立たせて東京を爆撃し、そのまま中国大陸へと飛行してそこの飛行場に着陸する、という計画だった。ジェームズ・ハロルド・ドゥーリトル中佐が率いて指揮した。アメリカ陸軍のB−25ミッチェルという爆撃機十六機によって、この計画のとおりに爆撃は実行された。

 この計画が生まれた頃のアメリカには、B−18、B−23、B−25、B−26などの爆撃機があった。ホーネットという航空母艦の約百三十七メートルの飛行甲板から、改装をほどこしたB−25なら飛び立つことが出来る、と判断された。

 ホーネットを使って実験がおこなわれた。風速が時速二十ノット、ホーネットの時速が十ノットで、B−25は余裕を残して飛び立つことが出来た。飛行甲板にB−25を十六機も積むと、それだけで甲板はぎっちりといっぱいになる。いちばん最初に飛び立つ先頭のB−25にとっては、滑走路として使うことの出来る甲板はもっとも短い。それでもB−25は飛び立つことが出来た。

 B−25の用意と訓練が始まった。すべては最高機密だった。サンフランシスコのアラミダ海軍基地で、ホーネットは十六機のB−25を積み込んだ。そして四月二日、ホノルルに向けて出航した。飛行甲板に爆撃機を十六機も積み込んだホーネットは、ちょっと異様な光景だった。そのホーネットが、ゴールデン・ゲート橋やオークランド橋から、見たい人なら誰にとっても丸見えだったという。

 四月八日には、随行するもう一隻の空母、エンタプライズが、ハワイを出航した。ふたつの艦隊は洋上で合流し、日本へと向かった。そして十七日の朝、艦隊は日本の哨戒艇に発見された。爆撃機は犬吠埼まで七百四十一キロのところから、出撃することになっていた。だがその地点へ到達するまでに発見されたため、犬吠埼まで千二百四キロの地点から、B−25は発進しなければならなかった。

 中国の着陸予定地点よりもかなり手前までしか、燃料は持たない。それは承知のうえで、十六機すべてがホーネットから飛び立った。最初の計画では東京を夜間に爆撃することになっていた。出撃が早くなったから、爆撃の時間も手前へずれた。東京が最初の爆弾を受けとめたのは、午後十二時三十分だった。

 ドゥーリトルの東京爆撃と呼ばれているこの日本本土の爆撃について、僕はなにも知らない。『東京上空三十秒』というアメリカの劇映画を、僕の記憶では子供の頃に見た。事実をかなり忠実に追っているということだが、どんな内容だったかなにひとつ覚えてはいない。『ドゥーリトルズ・トーキョー・レイダーズ』というノン・フィクションを、大学生の頃に読んだ。この本の内容についても、記憶していることはなにもない。

 ドゥーリトルの東京空襲について、ぜんたいを正しく俯瞰できるような本を一冊でいいから読みたいと、以前から僕は思っていた。二年前の夏、『ドゥーリトル日本初空襲』(吉田一彦著、徳間書店)という文庫本を、私鉄駅のプラットフォームの西陽を浴びている売店で見つけた僕は、それを買って読んだ。よく整理された資料をもとに、ぜんたいをひとつの視点から順番に、混乱なく見通すことのできるすぐれた著作だ。

 ホーネットを飛び立った十六機は、東京を爆撃したのち、どうなったか。一機はウラジオストックに不時着した。残りの十五機は中国まで到達したが、十一機は空中で機体を放棄し、乗員たちは落下傘で降下した。そして四機は不時着した。十六機すべてが破損し、トータル・ロスとなった。

 乗員は一機につき五名だった。だから十六機では合計八十名だ。三名が死亡し三名が重症を負い、八名が日本軍の捕虜となった。残りの人たちは、ひとまず無事だった。日本軍の捕虜となった八名をめぐって、『ドゥーリトル日本初空襲』のなかに、少なくとも僕にとってはきわめて興味深いエピソードが、ひとつあった。ドゥーリトルの東京空襲に関して僕がなにを忘れようとも、このエピソードだけは、おそらく忘れることはないだろう。

 捕虜になった八名は上海に留置された。そして東京へ連れてこられ、さまざまに尋問を受けた。上海に戻されてから、八名は裁判にかけられた。かたちだけの裁判だったという。八名全員が死刑の宣告を受けた。再審で五名が終身禁固刑に減じられ、三名は死刑の宣告を受け、一九四二年十月十五日、上海で処刑された。ドゥーリトル爆撃隊の、六番機の一名、そして十六番機の二名だった。

「捕虜になった飛行士に極刑をもって臨んだのは、恐怖に対する裏返しの反応と考えることもできるだろう」と、『ドゥーリトル日本初空襲』の著者は書いている。アメリカの爆撃機の編隊が東京の上空から爆弾を投下した。このことに対して、日本の政府や軍部がたいへんな恐怖を感じたとしても、それは当然だろう。真珠湾攻撃からまだ半年たっていない時期の出来事だ。

 アメリカの爆撃機の乗員三名の処刑を、日本政府は公式に発表した。しかしアメリカ政府は、ドゥーリトルの東京爆撃それじたいに関して、詳しい発表をおこなわなかった。特に爆撃隊が受けた被害については、情報は伏せられたままだった。全員が無事に帰還した、とアメリカ政府が言いとおそうとした期間もあった。

 東京爆撃の事実をアメリカ政府が認めたのは、爆撃から三週間あまりが経過した五月十日になってからだった。しかしこのときにも詳しい情報はなにも公表されなかった。日本のラジオ放送、そして日本の外へ持ち出される日本の新聞などをとおして、アメリカの新聞やラジオなどの報道機関が東京爆撃についておぼろげに知っていく、という経路しかなかった。

 敵であるアメリカに対して、軍事作戦の一部として放送されるラジオ・トウキョウという放送を、日本は持っていた。東京を攻撃した爆撃隊が、全員無事に帰還したというアメリカ政府の発表はまっ赤な噓である、アメリカ政府は国民を騙そうとしている、ドゥーリトルは捕虜となった部下を見殺しにした、などという日本による放送をとおして、東京爆撃や捕虜となって処刑された乗員がいることなどを、アメリカの人たちは知っていった。

 アメリカの爆撃機の一機や二機が日本へ爆撃しに来ることはあっても、たちまち高射砲で撃ち落とされるだけだし、脱出した乗員がその後どんなひどい目に遇うか、手を下す当の日本人にすら見当もつかない、とラジオ・トウキョウで発言した日本の少佐がいたという。この発言はアメリカで大きな反応を引き起こしたそうだ。

 一九四三年の四月になって、ドゥーリトル爆撃隊の捕虜が日本によって処刑されたことを、アメリカの大統領は正式に発表した。処刑についての日本による発表では、処刑された人の名も正確な数も、公表されなかった。「そのうちの何名かが処刑された」というような発表文のなかの「何名か」という表現に、日本はsomeという単語を使った。大統領が正式に発表したとき、日本側のこの公式な文章も公表されたのだと僕は思う。

 大統領による発表がおこなわれたのは処刑から半年後だ。ドゥーリトル隊の何名かが捕虜になったこと、そしてそのうちの何名かが処刑されたらしいことは、すでにアメリカ国内に広く知られていた。乗員の家族たちを中心に、親しい人たちにとって最大の関心事は、捕虜になったうちの誰が無事で誰が無事ではないのか、ということだった。処刑があったことを大統領が発表しても、処刑されたのが誰と誰なのかは判明しないままであるというもどかしさが、あとに残った。そしてそこにあたえられたのが、someという単語ひとつだった。

 日本側が処刑の発表に使った英文を、僕は知らない。しかし、想像することは出来る。ぜんたいに妙な生硬さのある、馬鹿丁寧と受け取るならそうも取れる、したがって違和感のぬぐいきれない英文だったのではないか。日本は絶妙な手際で故意にこのように書き、その総仕上げとして、someという曖昧きわまりない単語を使ったのだ、とアメリカは解釈した。意図的にそう解釈した、と言ってもいい。「アメリカ全土の新聞が激越な言葉を連ねて日本憎しの心情をあおり立てた」という。

 こういったことはすべて日本に伝わった。処刑の正当性をラジオ・トウキョウが主張すると、そのことがアメリカの怒りの火に油を注ぐ、というような連鎖が始まっていった。そしてその連鎖のなかで、日本に対する強烈な敵愾心は、アメリカの総意として立ち上がっていくことになった。アメリカの総意としての、日本に対する攻撃心や復讐心の燃え上がりは、戦争の遂行に関するよりいっそうの努力という方向でも、大きな効果を発揮した。捕虜の処刑が大統領によって発表されたあと、戦時国債の売り上げは急激に上昇したという。

 アメリカの爆撃機による日本本土への攻撃という作戦は、真珠湾攻撃は卑劣なだまし打ちであったという、すでに確立されていたイメージのなかをくぐり抜けたあと、捕虜をあっさり死刑にする日本に対する復讐、という経路へと入り込んだ。日本の軍事施設を爆撃して日本の戦争能力を消滅させるというおもて向きの正当性は、日本の都市への無差別爆撃によって日本を徹底的に破壊するという、現実の道すじを獲得することになった。

 ドゥーリトル隊による日本本土の爆撃は、それだけを検討するなら、それは失敗だったと言っていい程度のものだ。しかし、ほとんど失敗であったこの試みからも、日本に対する無差別爆撃への道すじが読み取れる。空母を日本に接近させるのはリスクが大きすぎる。しかもその空母の飛行甲板から爆撃機を飛び立たせるというような方法ではなく、どこかに本格的な基地を作り、長距離を飛んでなおかつ大量の爆弾を積むことの可能な爆撃機をあらたに開発しなければならないという、B−29による本土爆撃への道すじだ。そしてこの道すじの終点に、広島と長崎に投下された原爆がある。

 ドゥーリトル隊による東京への爆撃は、日本軍にとって青天の霹靂に近い出来事だったようだ。大いにあわて、狼狽し、恐怖にかられたであろうことは、なにも知らない僕にも想像はつく。なにかの大きな組織が、突然の非常事態にあわてふためくと、どのようなことが起こるか。

 現在の民間組織に置き換えて想像すると、コンピューターや電話、ファクシミリなどによる交信が、関係各所あるいはまったくそうではないところなど、とにかくいたるところに飛び交い、不正確な情報や根拠のない憶測などが、無数に交錯するはずだ。訂正や修正、確認などが必要になり、ぜんたいの交信は何乗倍にもふくれ上がる。

 当時の日本軍の内部でも、おなじことが起こった。軍隊だから暗号による無線通信が多い。アメリカはこれを傍受して大量にストックし、日本軍の暗号を正確に解読するための手がかりとした。暗号は読み解かれた。待ち伏せていると、解読した暗号のとおりに、日本軍の艦隊や艦船があらわれる。作戦はすべてつつ抜けだ。ミッドウェー海戦以降、日本軍がこうむった潰滅的な打撃の連続は、このようにしてもたらされた。

『ドゥーリトル日本初空襲』という一冊の本にすべてを負って、以上のような文章をここまで書いてきた僕は、someという単語ひとつについて思わないわけにはいかない。

 太平洋戦争というそもそも巨大な事態のなかでは、すべての出来事はすべてかならず連鎖反応をしていく。連鎖の重なり合いによって、事態の進路がとんでもない方向へと決定づけられることは、充分にあり得る。巨大な事態のなかで、とんでもない連鎖を作っていくひとつの重要な要素として、someという基本英単語がある。にわかには信じがたいような力をその単語が発揮した事実について、僕は思う。

 ドゥーリトル隊のうち三名を銃殺刑にしたことを正式に発表したとき、日本政府がその英文のなかで使ったsomeのひと言が持った力は、someという英単語が発揮した力として、英語の歴史始まって以来の最大のものだったのではないか、などと僕は書きたくなる。

 処刑したアメリカ人飛行士の名前も人数も公表しないという方針なら、「捕虜のうち何名かを処刑した」というような言いかたしか出来ない。そして「何名か」という表現に、日本政府はsomeという単語をあてた。someはごく平凡な基本語のひとつだ。いちばん普通の意味は、いくつとは特定されていない曖昧ないくつか、というような意味だ。この曖昧さを利用して、someという言葉を多少とも意地悪に使うことは、文脈によっては可能だ。しかしその使いかたはじつに陳腐だから、意地悪な使いかたをしていることは、初めからばれている。

 だからこそ日本はこのsomeに、あらんかぎりの悪意や敵意、嘲笑、残忍さなどを託したのだとアメリカが解釈したなら、その解釈を覆すことはもはや誰にも出来ない。ただし、someのひと言にこれほどの効果を上げさせる明確な意図は、日本政府にはまったくなかったと僕は考える。

 日本政府が処刑を発表したときの英文は、わざとそう書いたととれなくもない、生硬さと丁寧さとが奇妙に同居する、アメリカ人としては違和感を持たざるを得ない英文だったとしても、その英文そのものには日本側の非はないとも僕は思う。ただし解釈は自由であるから、これは意図された残忍さだ、とアメリカは解釈してみせた。とんでもない方向へ進んでいく連鎖反応とは、たとえばこういうことだ。

 someというひと言も、いっさいなんの意図もしかけもない、単なる翻訳ないしは置き換えとして、日本の当事者はsomeを使ったと僕は思う。しかし事情が事情であるだけに、someという一語が潜在的に持つ力は限度いっぱいに拡大され、なおかつとんでもない方向へと進むことになった。このようなやりかたこそ、卑劣で狡猾、残酷で非道な日本の本質がなせるものである、とアメリカが力説すれば、それは定説としてたちまちアメリカ国内に流布し、次の連鎖へとつながっていく。

 someという単語は、いまの日本人がその英語のなかで多用する単語のひとつではないのか。「そういう部分が若干あるかもしれませんね」とか、「おそらく一部はまだそうだと思いますよ」というような得意な言いかたを頭のなかで和文英訳すると、若干とか一部などの言葉は、非常に多くの場合、ほぼ自動的にsomeになるのではないか。数値などはっきりさせようがないし、いまこの段階で数値をあげることに意味はなにもないから、したがって曖味にとらえて曖味に言っておくだけという、日本語としてごく普通の言いかたを、そのまま無防備に英語へと延長させたものの言いかたは、明確な数値を求めて相手を問い詰め追い込むというような交渉のしかたを本質としているアメリカ人にとっては、狡賢く曖昧にぼかしてはぐらかす、なんとも苛立たしくも腹の立つものの言いかたである、ということは充分にあり得る。

底本:『坊やはこうして作家になる』水魚書房 二〇〇〇年

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2016年12月26日 07:00
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