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万年筆で書く

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 文章の原稿をかつて僕は原稿用紙に万年筆で手書きしていた。その期間は延べ三十五年くらいになる。いったい何枚の原稿用紙を、下手な手書きの文字で埋めたか。万単位であることは確かだ。万年筆で原稿用紙に手書きするとは、その頃の僕の場合、頭のなかでアイディアがおおよそのところまでまとまったなら、そこからいきなり本番として原稿用紙に書いていった、ということだ。だからその頃の僕の万年筆は、清書のための道具だったと言っていい。最初の下書きが最終的な下書きでもあり、それは同時に、本番の清書でもあった。

 ワード・プロセサーを使い始めてから二十年以上が経過している。文章のための文字をひとまず紙の上に原稿として固定する作業を、ワープロという電子機器にまかせたから、僕の万年筆は、少なくとも清書のための道具という位置からは、解放されることとなった。アイディアのいちばん最初の段階から始まって、それを少しずつまとめ上げていき、ここから先はワープロで書けばいいだけ、という段階に到達するまでの作業ぜんたいを、いまは万年筆が引き受けている。

 アイディアの小さな断片が生まれたところから、ひとつの原稿を支えることができるまでに、ぜんたいをきちんとまとめるまでの経路のすべてを、僕の万年筆は紙の上に書き記してくれる。僕にしか読めないような字で、アイディアの展開していくままに、書きとめてはそれを眺めてさらに考え、修正をほどこしたり白紙に戻したりしながら、必要があればいくらでも書いていく。創作ノートとか創作メモなどと呼ばれているものを、僕は万年筆で書いている。万年筆を清書だけの道具にしてしまうのは、万年筆の持っている能力が最高度には発揮されないという意味において、可哀相ではないか。

 僕の体のなかに生まれてはいろんなふうに展開していくアイディアは、僕にとっては自分らしさの核心の部分だろう。それを僕は万年筆に託している。ペン先が文字として紙の上に移していくインクの流れ。それは僕だ。僕が指先に持つ万年筆のペン先から、インクは数多くの文字となって、紙の上へと流れ出ていく。それらの文字は、一編の小説なら小説の、いちばん最初に僕のなかに浮かんだ、ごく小さなアイディアのかけらから、これで充分にひとつの短編になり得るはずだと僕が思う、ひとつのまとまったぜんたいにいたるまでの、アイディアの段階におけるすべてだ。そしてそれはそのまま、全部が僕だ。それが万年筆を経由して、インクによって紙の上に固定されていく。

 自分にとってこの上なく使いやすい万年筆の気持ち良さは、何物にも替えがたい。手に持ったときの、そしてそれで文字を書くときの、自分の手や体ぜんたいとの、どこにも無理のない一体感。ペン先の出来ばえの、まるで自分のために特製されたかのような、滑らかで軽く、しかも強靱な芯のしっかりある、いくら書き続けても嫌にならない感触。ペン先、紙、インク、という三つの物どうしの、これ以上は望んでも意味はないと言い切れるほどの、相性の良さ。こうして書いていくといまさらのようによくわかるのは、気に入った万年筆は自分の延長であることを越えて、もはや自分自身であるという事実だ。

 このような万年筆は僕の場合、愛称をペリスケという、ペリカンのスケルトンだ。東京で買って一万五千円くらいという、僕好みの実用品の値段だが、その性能は素晴らしい。透明、薄いグレー、淡い緑色など、軸の色には少なくとも三とおりはあるようだ。ペン先がMのを僕は何本か持っている。持たざるを得ないから持つのだ。買ったままインクを入れていない予備もある。手紙用にはBのペン先のを一本。何日あいだを置いても、ペン先からインクが乾いて書けない、ということが絶対にない。

 僕自身そのものだと言っていいこの万年筆から僕を見ると、僕とはなになのか、その本質がすんなりと理解できるのが面白い。僕は基本的には実用の人なのだ。自分にとって切実な事柄を、さまざまなかたちで文章にしていくのが、僕という人だ。そしてその作業は、僕にとっては実用以外のなにものでもない。

底本:『ピーナツ・バターで始める朝』東京書籍 2009年

本日公開!|制作舞台裏|書くことの根幹へ|斉藤典貴(晶文社編集部)

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本日刊行!『万年筆インク紙』

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自分の思考が文字となって紙の上に形をなす。
頭の中にうかんだ小説のアイディアをメモするための万年筆、
自分の思考をもっとも良く引き出してくれるインクの色、
そして相性のいいノートブックとは──。

作家・片岡義男が道具から「書く」という仕事の根幹について考えた
刺激的な書き下ろしエッセイ。


晶文社|ISBN:978-4-7949-6939-2 C0095|定価:本体1800円+税|四六判変型|288頁

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2016年11月11日 05:30
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