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リチャード・ブローティガンは、主人公のユキコさんを最初から最後まで眠ったままにしておいた

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 リチャード・ブローティガンの『ソンブレロ・フォールアウト』(邦訳は晶文社『ソンブレロ落下す』)には、彼自身とおぼしきアメリカ人男性のユーモア作家と、日本女性ユキコさんとの、ふたりが登場する。そしてユキコさんは、物語の最初から最後まで、眠っている。夢を見たり、寝返りを打ったりしながら、物語のあいだずっと、彼女は眠りとおす。

 もっとも重要な女性主人公が、最初から最後まで眠っている小説は、相当に珍しいのではないだろうか。アイディアとして、たいへんに面白い。僕も真似をして、女性の主人公が最後まで眠っている小説を、そのうち書いてみよう。

 あるとき、空からソンブレロがひとつ、落下してくる、という小さな出来事を発端にして、アメリカ人のユーモア作家は、ひとつのストーリーを書こうとする。しかし彼は、すこし以前まで自分の恋人であった女性ユキコさんのことが気になって、創作には気持ちが集中しない。

 なんのあてもなしに書きはじめた発端を、彼は屑かごのなかに捨ててしまう。空から落ちて来たソンブレロの物語は、屑かごのなかで勝手に進展していく、という工夫をブローティガンは凝らしている。そのソンブレロの物語と、ユーモア作家が悶々と思いつづけるユキコさんの睡眠ぶりとが、交互に描かれていく。そしてそれだけの、奇妙な作品だ。ブローティガンにとっては出来そこないの小説ではないだろうか。苦しまぎれの荒唐無稽であり、僕にはさほど楽しくなかった。だが、眠りとおすユキコさんの物語は、楽しむことが出来た。

 ユキコさんはひとりの確固たる存在だ。ユーモア作家の恋人になることをきめたのは彼女自身だし、恋人であることをやめる決心をしたのも、彼女だ。しかし、アメリカ人の男性作家にとって、ユキコさんは、とうてい理解などおよばない、遠い神秘的な存在だ。

 だからこそ、彼女は眠りとおすのだろう。だからこそ、彼女の黒く長い髪や優しい寝息、そして寝返りのひとつひとつが、彼を悩ませ続けるのだろう。

 ユキコさんは、きわめてすんなりとした、単純で美しい、ひとつの存在だ。川の源流の泉から湧き出て流れる、端整に澄んだ水のようだ。しかし、そのような自分の状態を、ユキコさん自身は意識していない。そして、そのような状態以外には、ユキコさんにはなにもない。だからなおさら、彼はユキコさんをつかまえることが出来ない。

 彼が自分の守備範囲のなかにユキコさんをつかまえていることが出来たのは、彼女を相手に性的な関係のただなかにあるときだけだった。彼女を恋人として失うことによって彼がかかえこんだ悶々たる状況は、彼女との性的な関係を思い出すことをとおして、さらに増幅される。

 ユキコさんには、なんの悩みもない。とりとめなく夢を見ながら、ときたま寝返りを打っては、ただ眠っているだけだ。自分の部屋でみつけたユキコさんの一本の髪を相手に、心のなかで身悶えを続ける彼にとって、ユキコさんは最初から最後まで謎であり続ける。

 謎は謎にふさわしく美しくたおやかに、全編を眠りとおす。

底本:片岡義男エッセイ・コレクション『本を読む人』太田出版 1995年

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1995年 『ソンブレロ落下す』 『水平線のファイル・ボックス 読書編』 アメリカ ビート ビート・ジェネレーション リチャード・ブローティガン 書評 片岡義男エッセイ・コレクション『本を読む人』
2016年10月15日 05:30
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