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アメリカの青年が書いた、東京の外資系会社の一年間。彼はカワシマ・キヨコをどこでみつけたのか

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 ジョン・バーナム・シュワルツの小説『自転車の日々』は、バスではじまりバスで終わっている。東部の大学を卒業したひとりの白人青年が、東京へやってくる。虎ノ門にある外資系のコンピューター会社に就職し、そこで仕事をしながら、日本でのひと夏を彼は体験していく。空港から寄宿先の高田馬場まで、彼はバスで来る。そして、日本を去るときも、高田馬場からバスで空港へむかう。

 ぜんたいは四十の短い文章に分かれていて、どの章にもタイトルがつけてある。「グレープフルーツ・ジュース」「頭痛」「富士山」「寿司を作る」「ゴジラ対スモッグ・モンスター」「お見合い」というようなタイトルだ。状況を説明する描写が最初にあり、その状況のなかでの主人公スターンが体験するエピソードとも言えないほどのほんのいっときの体験が描かれていくという書きかたがどの章にも共通している。

 クラシックなかたちでの、いわゆるストーリーの展開はないと言っていい。主人公のスターンにとって、はじめて体験する日本は、ストーリーなど展開しようもないほどの、異なった場所なのだ。まるで異なった場所であるからには、スターンが行動出来る範囲も、あるいは、直接に知ることの出来る領域も、きわめてせまく限定されている。そのせまい限定のなかで、ひとときの体験をスターンがどんなふうに受けとめていくかを楽しんで読むことが出来るなら、この小説は楽しいだろう。僕は面白く読んだ。

 スターンの目をとおして素描される東京の光景の断片は、外側から見た日本の光景として興味深い。会社帰りのサラリーマンたちでびっしりと席が埋まっているカウンター・バーの描写のしかたが、面白い。上着を脱いだ白いワイシャツの列は、織り合わせた一枚の布のように見えた、と作者はスターンに言わせている。

 朝の東京の、すさまじいラッシュ・アワーの地下鉄のなかは、誰ひとり口をきかない奇妙な無言の世界だ。そのなかで自分だけが連れの人と喋る違和感、特に英語で喋る違和感を、作者はスターンに強く意識させている。昼休みにサラリーマンたちが、蕎麦屋で次々に蕎麦を食べている情景の描写は、秀逸だった。

 小さな会社の社長をしている人の家が高田馬場にあり、その二階にスターンは居候している。家は小さく部屋はせまい。だからスターンは、アメリカ中西部の大平原でひとり自由に踊りまわっている夢を見たりする。ストーリーの展開はないけれど、一本の縦糸のようなものはー存在している。スターンとおなじ会社に勤めている、カワシマ・キヨコという日本女性だ。

 三十三歳という微妙な年齢に設定してある彼女の描かれかたは、たいへんいい。彼女は素晴らしい日本女性だ。四十年ほど前までなら、彼女のような女性は、東京にもかなり多くいたのではないだろうか。最近ではほとんど見なくなった貴重なタイプの女性だ。

 このカワシマ・キヨコとの恋愛関係を、スターンは体験する。長く続きながら次第に奥行きを増していくような関係ではないことは、どちらにとっても最初からわかっている。しかし、彼女をとおして、スターンは彼女の故郷の山形を知り、そこに住む彼女の父親とも知り合う。人間関係のささやかな広がりをとおして、スターンは虎ノ門では体験出来ないような日本を、ほんのすこしだけ、しかし記憶に残るかたちで、体験する。

 カワシマ・キヨコは、いくつかの章にわたって描かれている。そのうちのひとつ、「スロー・ダンシング」の章が、特によく出来ている。この章の最後にある彼女の台詞は、日本語に翻訳するとしたら、「待ちどおしかったわ」でいいのだろうか。この小説は『自転車に乗って』(TBSブリタニカ)というタイトルで日本語に訳されている。

底本:片岡義男エッセイ・コレクション『本を読む人』太田出版 1995年

今日の1冊➡︎片岡義男図書目録02|自転車に乗って|TBSブリタニカ|1991年
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1995年 アメリカ エッセイ・コレクション 書評 本|『自転車に乗って』 片岡義男エッセイ・コレクション『本を読む人』 著者|ジョン・バーナム・シュワルツ
2016年10月10日 05:30
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