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一冊のペーパーバックは、日常ではない時間の象徴だ

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 英語による僕の読書はペーパーバックに限られていると言っていい。不特定多数を相手にしたマス・マーケット用のいわゆるペーパーバックと、読者が多数であるにこしたことはないけれど不特定ではあり得ないクオリティ・ペーパーバックの、両方にまたがっている。比率はちょうど半々くらいだろうか。ペーパーバックだけに限定しているわけではないけれど、一刻も早くに読まなければならないといった性質の読書はしていないから、結果としてペーパーバックだけで充分だ。

 読む楽しみのまえに、買う楽しみがある。ブックストアの棚にならんでいる新しい本のなかから、これは買っておこうと思うものを次々に選んでいくのは、それだけで充分に刺激のある、楽しい作業だ。

 僕の気持ちをすこしでもとらえたものはすべて買っておく、という買いかたを僕は二十代のなかばからおこなってきた。いまでも基本的にはそのスタイルだ。一度ブックストアへいくと、ひとかかえは買ってくる。買いこんだまま読んでいないペーパーバックがどんどん増えていく。なにか読みたくなると、買ってある数多くのペーパーバックと再びむき合い、そのなかからもう一度選ぶことになる。これもまた楽しい。買ったことをすっかり忘れてるから、こういう本が買ってあったのか、さすがだなあ、と思ったりもする。

 系統立てて読む作業は僕には必要ない。読みたいと思ったものを、読みたいときに読めばそれでいい。どんなものをどのようなときに読みたいと思うかは、そのときまかせだ。

 読むペーパーバックにはこと欠かない。読めばまずまちがいなく面白い、とあらかじめ断言出来るようなペーパーバックが、自宅に山のようにある。そして、いつなにをどう読んでもいい、という状況のなかで、では読むための時間をどう作るかが、大きな問題になってくる。僕だけではなく、ほとんどの人にとって、これは大問題だろう。読むための時間というものを意識の中心にすえて、ペーパーバックを読む楽しみについて書いてみよう。

 本を読んでいる時間は、自分がひとりになっている時間だ。乗客でごったがえす巨大な空港のロビーで椅子にすわってペーパーバックを読んでいても、夜遅く自分の部屋でひとりページをくっていても、読書中はとにかく自分ひとりだ。そしてひとりになったその自分は、日常のなかを連続して流れていく時間の外へ踏み出している。

 日常の時間のなかにこま切れに空いた時間を見つけ、そのなかで本を読んでいくという読書のしかたもあるだろうけれど、その場合でも読んでいるときの自分はひとりなのだから、読書のために意識して日常の外へ出る工夫をして時間を作ったほうが最終的な効果はより大きいのではないかと僕は思う。読書のための時間を作る工夫も読書のうちなのだし、その工夫のしかたも楽しみの対象にすることが出来るのだから。

 手のなかにおさまる一冊の軽い本を支点のようにして、いつもの自分を日常の時間の外へふと出してしまう。よく考えてみれば、これはたいへんにスリリングなことであるはずだ。一冊の本というものを読みはじめるきっかけを作るにあたって、アメリカのペーパーバックほどに気軽でおおらかで気負いの少ないものを、ほかに僕は知らない。

 本を読みはじめる状態へ人を誘いこむときにペーパーバックが発揮するこの力は、民主的な合理精神の頂点であり、ひとつの善として完成されている、などと僕はすこしだけ冗談を交えて思っている。本としてだけではなく、物体としてもペーパーバックに僕が強くひかれていく大きな理由は、このあたりにありそうだ。

 読みはじめるにあたって、ペーパーバックほど気軽に読みはじめることの出来るものはない。日常の外へ自分をまず置くという、読書にとっての基本的なスタート部分を、ペーパーバックはこれ以上ではあり得ないほどに合理的に簡略化して、おこなわせてくれる。

 日常の外へ出る典型は旅行だろう。仕事のための旅行であろうと、個人的な楽しみのための旅行であろうと、日常の場所ではないところへいくのだから、旅行のための時間はじつは読書のための時間と、基本的な性質は同一だ。ペーパーバックが旅行とよく似合って相性がいいのは、そのためだ。

 旅行中に読書のために取ることの出来る時間には、二種類ある。目的地までの交通機関による往復の時間、そして出むいた先でひとりになれる時間、たとえばプールサイドのデッキ・チェアでやり過ごす午後のひととき、あるいは、ホテルの部屋で過ごす寝るまえのひとときだ。どちらにもペーパーバックはよく調和する。

 新幹線のグリーン席に落ち着いたとたんにペーパーバックを開き、日常の外へ出てしまうのは、日本におけるペーパーバックの楽しみかたの原点のひとつだと僕は思う。東京から博多まで読みっぱなし、というのもすこしつらいが、京都くらいまでなら途中で一度か二度、目を休めるだけで、あとは没頭していることが出来る。コーヒーすら必要ではない。着いてから町のなかで飲めばいい。

 小旅行に出るとき、オーヴァーナイターのサイド・ポケットにペーパーバックを一冊か二冊。気どっているわけでも、ぶっているわけでもない。ごく基本的なことを守っているだけだ。いきがけにブックストアへ寄ってペパーバックを買う、というのも気軽でいい。東京駅の新幹線改札口を入ったところに、外国の本や雑誌を専門に売る店がひとつくらいあってもよさそうなものだが、そんなものはないし、これからもないままだろう。自分たちが文化的にいかに貧しいかに気づきもしない、という効率の良さに支えられて、日本はいまのところ経済上の高回転を続けている。

 旅先でペーパーバックを買うことは、日本ではまず不可能だと思ったほうがいい。たまにホテルの売店にペーパーバックのラックがひとつあったりするけれど、どうでもいいような本のなかから不本意な一冊を選ぶのは楽しくない。自宅から持って出たほうがいい。一泊なら一冊。それ以上になるなら、二、三冊を。

 自分にとってのいつもの日常ではない時間のなかで読んだペーパーバックは、そうではない状況のなかで読んだものにくらべると、読んだ内容の印象をはるかに強く頭のなかに刻みこんで保持している、という原理を僕は発見している。日常の外に自分を置くというアクションがともなうと、読書はより効果的となるようだ。日常ではない時間が基本的に持つ刺激に、読書という非日常が重なり、その上へさらに、読んだ内容という常ならざる世界がかぶさる。うまくいくとこの三者が絶妙に重なり合い、忘れがたい読書体験となる。

 読みはじめるときの気軽さと正確に対応して、中断したりあるいは再び読みはじめるときにも、ペーパーバックはたいへんに合理的で滑らかな気持ちの転換を許してくれる。ある年の夏、避暑地で、複雑な内容の分厚い小説を、僕はペーパーバックでちょうど半分まで読んだ。
そしてそのまま次の夏まで中断し、夏のおなじ季節におなじ避暑地で続きを読んだ、という経験が僕にはある。読むにしたがって前半を思い出していき、なんの無理もなく前後にむけて二重に読書しつつ、僕はその小説をその夏に読み終えた。合理的で民主主義的な善にまで到達しているペーパーバックは、このような変則的なことですら、こともなげに許容してくれる。

 半年の滞在でいつのまにか読んだ二十冊ほどのペーパーバック、というようなことについても書きたかったのだが、小旅行とペーパーバックについてだけで、許された字数を僕は使い果たしてしまいそうだ。要するに時間的にも場所的にも、日常を離れたならそれはすでに読書の世界なのであり、一冊のペーパーバックは日常からの脱出をきわめてあっさりと、簡潔この上なく可能にしてくれる。

 日常の時間のなかにどっぷりとひたったまま、現実のでこぼこに貼りついてそれを撫でまわしつつ、すべてをなし崩しにしていくだけでなんの不足も感じないという種類の人たちにとっては、ペーパーバックはすこしだけ奇異な外国の本でしかない。それに読書は自分ひとりになる行為だから、ひとりになるのが怖いような人には、読書は出来ない。さらに言うなら、良く出来た本ほど、それを読む自分との対面をより強く可能にしてくれる。いい本を読む人は、その本を介して、よりはっきりと自分を見る。取るに足らないろくでもない自分は見ないでおきたいと思うような、勇気のない人たちもまた、読書からは絶望的に遠い。

 一九八〇年代、七〇年代、六〇年代とふりかえってみると、ペーパーバックの状況はいまのほうがいい。以前ならハードカヴァーの森のなかの出来事でしかなかったような本が、クオリティ・ペーパーバックとしてすくなくともアクセスだけは、飛躍的に無階層的になっている。無階層的になったぶんだけ、大衆の程度は上がったのだと僕は思いたい。現実にもそうなのだろう。そうでなければ、クオリティ・ペーパーバックという領域など作る必要はないのだから。

 ごく一般的な読みもの、たとえば評判になったノンフィクションや小説などの世界でも、質は確実に向上しているし、奥行きは比較にならないほどにいまのほうが深い、と僕は感じている。読者にとっての選択の対象の幅は広い。ペーパーバックというと、連鎖反応的にミステリーやサスペンス小説のようなジャンル・ライティングを思い浮かべる人も多いだろう。ジャンル・ライティングはいまもジャンル・ライティングであり、ごく少数の例外を別にすると、二流以下の書き手たちが引き受ける領域だ。出来るだけいい読書が出来るように、ハッピーハンティングを。

『ノートブックに誘惑された』角川文庫 1992年所収
底本:片岡義男エッセイ・コレクション『本を読む人』太田出版 1995年

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1992年 1995年 『ノートブックに誘惑された』 エッセイ・コレクション ペーパーバック 時間 片岡義男エッセイ・コレクション『本を読む人』 読む
2016年10月8日 05:30
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