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ハイウェイのある風景に挽歌がスニーク・イン

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 自動車というものがもっともよく似合うのはアメリカだと、僕はずっと以前から思っている。そしてその思いには、いまも変化はない。風土にも風景にも、文化的な気質にも、アメリカには自動車がよく似合う。単なる交通機関であるとか、いまのところこれがもっとも便利、というようなかたちで存在する自動車は、世界のほとんどいたるところにあるけれど、国を支える基本的な理念の部分と根深く密接につながったかたちで自動車が存在している国は、僕が知るかぎりではアメリカだけだ。

 したがってアメリカにはアメリカ製の自動車がいちばん調和する。しかしいまのアメリカ製の自動車は、日本車の影響をどこかに受けていて、あまりアメリカらしくない。従来どおりのアメリカらしさというものが、すでに効用を失いつつあることの具体的なあらわれのひとつかもしれない。アメリカがまだ自分に対して自信を持ち得ていた頃の自動車は雰囲気、造形、感触、文化的な背景、性能など、アメリカそのものとぴったりと重なり合う。

 僕がアメリカで手に入れて乗る一台の自動車は、僕という個人がアメリカ的なフリーダムを獲得していくにあたっての、もっとも具体的な手段のひとつだ。アメリカという文脈の内部で日常生活を営んでいる人たちにとって、自動車に関していつもそのような認識があるわけではないだろう。心の深い内部に埋もれていて、普段は認識も自覚もされないだろうけれど、アメリカのなかに生きる人にとって、自動車はその人のフリーダムとわかちがたく結びついている。

 アメリカ流のフリーダムは、国外では激しいさまざまなあつれきを引き起こしている。国内においても、昔どおりのフリーダムは、状況への適応力や機能を明らかに失いつつある。しかし、アメリカらしい造形の自動車がアメリカの風景のなかを走っていくのを見かけると、これこそアメリカという文化なのだ、とはっきり断言出来るような確かななにかが、その風景のなかには存在する、と僕は思う。

 一台の自動車に身のまわりのものすべてを積みこみ、それまで住んでいた場所をあとにして、どこへとも知れず旅立ってしまうことの爽快な自由感のなかに、アメリカという文化の基本がふと見える。フリーダムとは、個人が自主的に取捨選択しながら作っていく人生だ。それは変化の連続する人生だ。捨てるものと拾い上げるものとが、ひっきりなしに交錯していく人生だ。あの巨大な大陸のなかで、あれだけ多種多様な要素の混在するなかで、しかもアメリカらしさというひとつの強力な動機づけを我が身にも引き受けて生きていくにあたって、自動車がなかったならどうにもならないだろう。

 アメリカの風景のなかを、自動車というアメリカの文化が走っていく。運転席にすわってその自動車を運転しているのは、フリーダムという理念だ。ハイウェイの彼方では、午後の時間が日没の時間へと、ゆっくり変わりつつある。風景ぜんたいにかぶさって聞こえてくる音楽は、挽歌だろうか。

(『ノートブックに誘惑された』1992年所収)

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今日の一編

『アリゾナ・ハイウェイ』
表紙_アリゾナハイウェイ
別れの痛みとともにある人々を慰撫するのは、アリゾナのむき出しの荒野だけだ。


1992年 『ノートブックに誘惑された』 アメリカ ハイウェイ 自動車
2016年9月27日 05:30
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