東京箱入り娘(その5)|ギフト・ボックス篇

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北條一浩@編集部

0908_9月_北條ブログ_WEBページ_タイトルバナー

この連載ではこれまで、片岡義男さんの小説の「閉ざされた空間」に着目して読んできました。その中で、電話ボックスやステーション・ワゴンなどの「箱」にフォーカスしましたが、今回はズバリ、「箱」とそのまま表記される場合についてみてみましょう。
「完璧」すなわち「永遠」

 当サイトに6月にアップした片岡さんのエッセイに、「森永ミルク・キャラメルの箱」というのがあります。
 長いエッセイではないので、まずはこれを読んでみてください。「森永ミルク・キャラメル」という、あのクラシカルな、誰もが知っている、でも、若い人だともしかして箱もキャラメルも、一度も触れたことも食べたこともないかもしれないあれについて書かれたものです。

 このエッセイはあくまで「森永ミルク・キャラメルの箱」について書かれたものではありますが、図らずも、見事なまでに片岡さんのモノの見方、創作についての態度が凝縮されているように思われてなりません。

0908ブログ_キャラメル箱

「kataokaフォト・ライブラリー」より

 セロファンを取り去り、中箱からすべてのキャラメルを取り出し、中箱をふたたび閉じて箱だけにした森永ミルク・キャラメルの、文字どおり箱のみの状態も、愛でたり鑑賞したり、何度繰り返しても飽きることがない。薄いボール紙による掌サイズとしての箱の傑作、というものがこれなのだと、僕は強く実感する。

森永ミルク・キャラメルの箱」より

 ここには冷静と微熱の両方があると考えていいかもしれません。芸術作品などではなく、非常にポピュラーな(ありふれた、と言ってもいい)巷の商品であるところがまず好ましく、しかしそこから「すべてのキャラメルを取り出し」て「箱のみの状態」にわざわざして、「愛でたり鑑賞したり」ということになると、消費活動の領域から一歩、踏み出すことになります。
 中箱と外箱がある、という箱の仕組みも、好ましさを増している原因になっているはずです。そして次のくだり。

 それにしても、この掌サイズは素晴らしい。この素晴らしさは、もはや永遠ではないか。野球の巨人がもはや永遠でもなんでもなくなったいま、永遠という座につくべき正当な存在は、森永ミルク・キャラメルの箱ではないか。この素晴らしいサイズは、キャラメルだけではなく、いろんな物に使えるはずだと僕は以前から思っているのだが、他の物に応用された例を僕は見たことがない。気がついてないだけだろうか。キャラメルの箱のスタンダード・サイズとしてのみ存在しているのであれば、なんというもったいないことか、と言わなくてはいけない。

森永ミルク・キャラメルの箱」より

 ここで言う「永遠」とはつまり、この先、リニューアルなどけっしてされるはずはなく(されるとすればそれは改悪でしかない)、他のキャラメルの箱の追随をゆるすこともない、何も足さないし、引かないし、変えない、つまり「完璧」ということです。

 片岡さんの小説にとって「完璧」は重要な概念です。一切の過不足がなくそこにある状態。「完璧」な美人が、これまでいったいどれだけ登場してきたことでしょう。そして「完璧」とはピラミッドの頂上にいて他を圧倒するということではなく、唯一無二の、という意味だということは、読者の皆さんはすでにご承知だと思います。3位の人が98点、2位が99点の世界で100点の人が「完璧」なのではなく、そういうヒエラルキーから無縁なのが「美人」であり、「森永ミルク・キャラメル」なのだと思います。

  その「完璧」が「スタンダード・サイズ」になり得る世界を小説で書いている。私はそう感じています。片岡さんの小説には「努力」が出てきません。なにか不完全なものが、主人公の「努力」によって「完璧」に近づく、ということはありえません。「完璧」とは漸進的にアプローチできるものではなく、気が付いたらある日、遭遇してしまうもの。そして遭遇したら、世界はこうなるのだ、ということを、片岡さんは繰り返し、書いていると思います。

掌サイズの「箱」から始まる

 8月25日にリリースしたばかりの「東京青年」の冒頭近くを読んでみましょう。

「買います」
「連れて来て」
「連れて来るためにも、今日は買っていきます」
 ジョイスリンはうなずいた。
「自分の店で売ったものが、よく似合っているところを見たいから」
「連れて来ます」
「プロミス?」
「シュア」
「ダズ・ヨ・マザー・ノウ・アバウト・ジス・ガール?」
 彼女の質問にヨシオは首を振った。
「かならず連れて来ます」
 そう言いながら、ヨシオはケースのなかのイアリングをふたたび示した。
「ですから今日はこれを買います」
 うなずいたジョイスリンはケースを開いた。成り行きを見守っていた女性の店員が、素早くジョイスリンのかたわらへ来た。
「箱に入れて、ギフト・ラップしてあげて」

 「東京青年」より

「ヨシオ」という名前からして作者自身を彷彿とさせる高校3年生の主人公が、自分がきれいだと思っている年上の女性にプレゼントするために、イアリングを買う場面です。彼がプレゼントをしたいと思っている女性は高木節子という名前で、高校の購買部に勤めています。「連れてきて」とこの場面で言われているその対象です。連れてくるようにうながしているジョイスリンは、イアリングを扱うお店でまさに今、ヨシオに接客している外国人女性。この人もあきらかに年上でしょう。
 18歳の男子がイアリングを買い求めるということで、理解を示しつつも心配している店側の様子、とはいえ杓子定規に問い質すようなこととは無縁であるように、カタカナ表記の英文が非常に効いています。

 そしてここに「箱」が出てきます。商品を買って「箱」が出てくるのは、概ねそれが誰かに対するプレゼントである場合です。宝飾品のように高価なモノでなくても、例えばケーキなどもそうでしょう。そしてここではイアリングのための「箱」なのですから、それはケーキなどを入れるそれに比べてずっと小さい「箱」であるはずです。

  そう、「掌サイズ」です。イアリングを入れる箱もまた、掌サイズであるはずです。それは年上の女性よりも先にまず、送り主である18歳の男子の掌に乗り、おそらく彼のこれまでの18年間の人生の中でもっとも自分自身から遠い、そして思春期の掌の汗から保護してくれる精妙な「箱」であることでしょう。

 ストーリーの展開に言及することになるのであまり詳しくは触れませんが、ここでは男が女の歓心を買うための「箱」としてそれが出てくるわけではありません。単純にその人に似合いそうだから買う、という、大人ならけっして信じられないような理由も、買ったのが18歳の男子であること、これが片岡義男さんの小説であることから、あっさりと通用してしまいます。さらに言うなら、苦心してバイトしてお金を貯めて、などという「努力」の描かれる余地などまったくなく、かといって「ヨシオ」は金持ちのボンボンでもないことは物語の中に出てきますが、要するに金銭などどうにでもなるのが片岡義男の小説ということです。

「箱」は最初から完璧な贈り物として掌の上にあり、それを入手する場面の初々しい空気こそ描かれるものの、買うに至るまでの「努力」=「ヨシオ」の内面、のようなものは一切出てきません。「箱」は物語がこれから始まる起点にそこにある完璧な掌サイズで、さあ、それが二人のあいだに到来したからには、どんな時間が、空間がこれから訪れることでしょうか。

  時代背景は、まもなく1964年の東京オリンピックが開催されるその少し前。1950年代後半から60年代前半にかけての、清潔で品格のある東京が舞台の「東京青年」を、ぜひお読みください。

引用した本「東京青年

9784862397331
1950年代から60年くらいの東京を舞台にした長篇小説。作家と同じヨシオ、という名前を持つ若者が登場する。彼が高校生から大学生にかけて接触する女性たちは、すべて年上だ。

※表紙をクリックで立ち読みページへ

 

 

2017年9月8日 00:00