東京箱入り娘(その1)|電話ボックス篇

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北條一浩@編集部

小説”全著作”を読む

 片岡義男作品をめぐって、これから月に一度のペースで連載してゆきたいと思います。作品の数は、膨大にあります。小説だけでも、長短篇合わせて、およそ500作品あります。片岡義男作品とは、まずその圧倒的な物量のことです。
 私はこのサイト 片岡義男.com(片岡義男 全著作電子化計画)編集部の一員として、主に作品紹介を担当しています。念のため、まだ当サイトの仕組みをご存じない方のために書いておくと、片岡義男.comでは短篇・長篇を問わず、1つのタイトルを1商品としてカウントし、逐一電子書籍化し、表紙デザインを施して販売していますが、サイトを訪れる方が作品を買う際の目安になるテキストを作るのが私の役目です。タイトル、表紙と2つの情報だけでは少し足りないので、それがおよそどんな内容の作品なのか、250字以内で紹介文を書きます。
 よく、文庫本の裏表紙に、ちょっとしたあらすじや内容が書いてありますね? ああいうのを思い浮かべてもらうといいと思います。
 で、なにしろ小説だけで497作品あるので、つまりはそれらを全部読んで、それぞれについて紹介文を書いています。いま400近くまで書きましたが、まだまだ終わりません。本当に気が遠くなるような仕事です(笑)。そしてそれだけ読み続けていると、どうしても片岡作品に特有の構造というのが見えてくるんです。それを書いてみようというのがこのコラムです。

「不細工」と「貧乏」のない世界

 圧倒的物量の中で、作家はある意味で相当に限定的な価値に基づいた世界を作ります。その象徴の1つが「美人」です。片岡作品には、基本的に「美人」しか出てきません。ごくまれに、さして美人とはいえないかもしれないけれど十分に魅力的な女性、というのが現れますが、それでも、美しくない、魅力的でない、という人物はまず登場しません。男性も然りです。
 同じく、完璧に不在なのが「貧乏」です。ティーンエイジャーをはじめとして年若い人物の場合、端的にさほど金銭を有していない状態が描かれることもありますが、それは物理的に紙幣がそこに無い、というだけのことであり、苦悩の温床としての「貧乏」はありません。

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『東京のクリームソーダ』より(写真:片岡義男)

「不細工」と「貧乏」がない世界。それは、不細工であること、貧乏であることに拘泥することから生じる何事か、つまり「内面」のない世界だと私は思っています。むろん、感情の揺れや気持ちの変化は登場人物の中に現れますが、それは荒れた海の只中にある波や、野に咲く花のように鮮烈にそこにある「現象」のようなものです。
「内面」は、読者にあるイメージを許します。この人物ならこんなこともしそうだとか、特に作品には描かれていないけど、きっと若い時はこんなだったろうなとか、ハッキリとはしないけど、ぼんやりとした共通理解のようなもの。もちろん、ひとたび書かれた小説をどう読もうと自由なのですが、イメージにはどこか、作者と読者があいまいに共有するなれあいのようなところがあります。
 でも、作家・片岡義男は、そうしたイメージをあっさり引き裂くように書きます。何を持って引き裂くかといえば、言葉です。片岡作品には唐突な展開や唖然とするようなラストを迎える小説がいくつもありますが、それらは徐々にイメージを膨らませてなされるのではなく、言葉でもって、どこか急に梯子を外すようにもたらされます。

 ミもフタもない言い方をすれば、「この女性、きっと美人なんだろうな」と思わせるのではなく、「彼女はたいへんな美人だった」と冒頭から書いてしまうのが片岡義男の小説です。

電話ボックス──閉ざされた箱のなか

 イメージというのは、実は小説から少し離れてしまった時に、読者の気持ちを占有するものだと思います。例えば、片岡ワールドでしばしば言及されるのは「サーフィン」と「オートバイ」です。どちらも大きな情熱と執拗さをもって繰り返し作家が描いてきたモチーフであることは間違いありません。人が徹底的に「個」になる時間であり、「風」になる領域でもあります。その意味で、ドライな片岡作品にふさわしい世界です。

 しかし、1人の人間が海や路面に身をさらし、風になるその時間から、開放的なイメージを想像してしまうと、それはそこに書かれた言葉と、言葉が作り上げる小説から遠ざかることになるような気がします。片岡作品で波乗りが出てくる時、そこに現れる水の描写は圧倒的で、それは開放的でもさわやかでもなんでもなく、濃密かつ詳細すぎて、窒息しそうなほどです。オートバイも、『ボビーに首ったけ』の衝撃のラストのように、どこかダークで、陰惨ですらある生々しさを漂わせています。

 つまり、片岡義男の小説は開放系ではなく、まったく逆に閉鎖系である、というのが私の見立てです。このことは、サーフィンとオートバイだけでなく、あらゆる場面に該当します。
 なぜ片岡義男作品の男女は、すぐにホテルに直行するのか。そして多くの場合、シャワーを浴びるシーンがわざわざ挿入されるのはなぜなのか。エスカレーターはまったく登場しないのに、エレヴェーターは何度も何度も書き込まれ、しかもそこには必ず女性が1人で乗っているのはなぜなのか。散歩の機会は無いではないが、すぐにバーや部屋、ステーション・ワゴン(片岡作品で圧倒的に登場頻度の高いクルマ)に移動してしまうのはなぜか。

 それは、ホテルもシャワー室もエレヴェーターもバーも部屋もステーション・ワゴンも箱であり、密室だからです。

 彼女が空くのを待っているブースから、人が出てきた。仁科に視線を向けていた 女性は、そのブースにむかって歩いた。仁科はふと顔を上げた。ブースへ歩く彼女のうしろ姿を、視界にとらえた。なんというきれいなうしろ姿だろう、と仁科は反射的に思った。(中略)やがてブースが空いた。入れかわりにそのブースに入った仁科は、隣りのブースの美しい女性のことを早くも忘れていた。まず最初の相手に電話をかけ、話をはじめてすぐに、彼の視線は隣りのブースへガラスごしにのびた。美しい女性もガラスごしに自分を見ていることを、仁科は知った。ふたたび、ほんの一瞬、ふたりの視線が合った。

『敍情組曲』より

 野島理津子は、ひとりで電話ボックスのなかに立っていた。右足のスニーカーのつまさきにギターを立てて右手でネックを持ち、左腕はひじを高くあげて電話ボックスのガラス・ドアに当て、その左手の甲に顎を押し付けていた。左の手首にはめている腕時計を、理津子は見た。夜の十時四十五分だった。すでに十五分以上、彼女はこの電話ボックスのなかにいる。

「どうぞお入り、外は雨」より

 前者は長篇『敍情組曲』、後者は『どうぞお入り、外は雨』に収録されている同タイトルの短篇から引用しました。どちらも物語の冒頭(後者についてはまさに第1行目からの引用です)のシーンで、「ブース」「ボックス」と表記の違いはあれど、あの、ガラス張りの、中に電話が据えられた、今日ではほとんど街中で見なくなった、あの箱型の密室から小説が始まっています。

『敍情組曲』なら、1つの透明な箱の中に2人でいるのではなく、隣同士に並んだ別々の箱の中に女と男がいて、互いのガラスごしに相手と目が合う、しかもどうやらどちらも相手を気にしているようで、特に女のほうがそのようだ、という情報が畳み掛けられ、その視線のエロティックな交感が、「いったい2人はどのような関係か?」という好奇心を掻き立てずにはいません。

 対照的に「どうぞお入り、外は雨」は1人ぼっち。そろそろ深夜に差しかかろうという時刻で、その所作からまだ大人には至っていない女性ではないか、と読者は半ば無意識に情報をキャッチしながら、その孤独を受け止めていきます。電話ボックスの中なのに電話をかけている様子はなく、しかも15分ものあいだ、そうしているというのはいかなる事態なのか。これもまた、透明でありながら密室の中であり、しかも夜の姿であるだけに、痛いような淋しさがそこにあふれていると思います。

 と、いうように、閉鎖系の世界で作品は少しずつ動いていき、さてそこから人物同士の、そして外界とのどのような接触で小説が動いていくのか、そこを読むのが、片岡義男作品を読む大きな愉しみだと思っています。

 彼女たちは今、閉ざされた箱の中にいます。初期にはアメリカを舞台にした長篇も短篇もたくさんありますが、片岡作品といえばやはり東京という、実体があるようなないような、そこがいわば「故郷」であることは間違いないと思うので、戯れにこの連載を、「東京箱入り娘」と名付けてみることにします。

 次回は、エレヴェーターのシーンについて考えてみたいと思います。

引用した本「どうぞお入り、外は雨」 

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18歳。未成年ではあるが、車の運転は可能な大人への入り口に立った年齢だ。
ある雨の夜、2人の18歳には、楽しい偶然があった。
同じような環境に暮らす2人は心を許しあった。
やがて彼女のほうの生活環境は、新たな次元に入る。
彼女はほんとうに1人になるのだ。

*表紙クリックで立ち読みページへ。


敍情組曲2017年5月26日発売予定です。


 

2017年5月11日 17:00