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昔のハワイという時空間への小さな入口

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 ワイキキのクヒオ・ビーチに、デューク・カハナモクの等身大を超える大きさの銅像が、いまでも立っているはずだ。デュークについて少しでも知っていれば、その銅像を見て多少の感銘を受けるかもしれない。ビショップ博物館へいくと、昔のデュークの写真を見ることが出来る。ブックストアのハワイアーナのコーナーで、デュークについての本を一冊か二冊、買うことは出来るだろう。アロハ・シャツその他のスポーツ・ウェアに、デュークズあるいはデューク・カハナモクズというブランド名を使ったものが、いまでもあるだろうか。かつてはあったが、僕はこのところ見かけていない。もう何年もまえ、きわめて大雑把な料理の夕食を観光客たちとともにしながら、ドン・ホーの歌をライヴで聴いたのは、たしかデューク・カハナモクズという名の店だったような気がする。

 夜明け前に自動車でヒロを出発し、ハイウェイ19号線をひた走って、朝早くにワイメアの町に到着した。パーカー牧場の存在で知られている町および一帯で、観光客も多く立ち寄る。町の食堂で町の人たちとおなじように朝食を食べ、パーカー牧場博物館へいき、開館と同時に入って最初に見たのが、建物のなかの一室をしめている、デューク・カハナモク博物館だった。水泳および波乗りをとおして、デュークについてごく普通に知ることの出来ることはすべて知っていた僕にとって、その部屋のなかに保管され展示されているデュークにまつわる品物の数々には、感銘深いものがあった。デュークにまつわる品物の数々とは、かつてデューク・パオア・カヒヌ・モコエ・フリコホラ・カハナモクという人が存在した事実の証拠物件のひとつひとつであり、そのひとつひとつは、とっくに過ぎ去ってもはやどこにも存在しない昔のハワイという時空間への、小さな小さな入り口だった。

 デューク・カハナモクについて僕に最初に教えてくれたのは、父親だった。ハワイ生まれの日系二世であった彼は、デュークよりちょうどひとまわり、年下だった。一九一一年の夏、アマチュアの泳者としてホノルルの港で出した驚くべき記録が新聞に報道されたときのことを、父親はよく覚えていると言っていた。百ヤードのスプリントに、デュークは五五・四秒という記録を出した。これは当時の最高記録をいっきに四・六秒も縮めるタイムだった。

 次の年、一九一二年にスエーデンで開催されたオリンピックに、デュークはアメリカの選手として参加し、優勝その他、数々の記録を作った。次のオリンピックは第一次大戦で開催されず、一九二〇年のベルギーでのオリンピックでも、デュークは優勝し記録を作った。さらに一九二四年のパリ・オリンピックにも参加し、三十四歳だったデュークはさすがに二位にとどまった。この大会で優勝したのは、僕が愛してやまないターザンのジョニー・ワイズミュラだった。というようなことを、子供の僕は父親から何度も聞かされた。

 こんなことをこうして書いていると、生理的な快感すら覚えることが出来て僕は楽しいが、どんな夢よりもさらに遠い時代の出来事であることは確かだ。ずっとあと、大人になってから、僕は友人たちとホノルル港へいき、デュークが記録を出した場所の見当をつけて遊んだ。埠頭と埠頭のあいだを、岸壁から飛び込み、厳密に計測して百ヤードのところに張り渡したロープめがけて、二十一歳のデュークは島育ちの青年そのものとして、泳いだのだ。後年、おなじ港のおなじ場所で、なにかの催し物のアトラクションのようなかたちで、デュークはワイズミュラとともに泳いだ。

 水泳と波乗りという確かなうしろだてを持った名士として、デュークはアメリカ本土でも活躍した。西海岸および東海岸で、青年たちに波乗りという世界を披露し、そこへ彼らを導き入れた最初の人はデュークである、というのが定説だ。ハリウッドでは、主として南の島を舞台にした映画に、酋長や部族長の役で、彼は何本もの映画に出演した。たとえばジョン・ウエインがゲイル・ラッセルと主演した『怒濤の果て』という映画のヴィデオを手に入れると、自ら酋長俳優と称していたデュークの、劇中の立派な姿を見ることが出来る。

 一九一五年には、デュークはオーストラリアを訪れた。波乗りはすでにオーストラリアでもよく知られていたが、波乗りとはこういうものだと、その最高の具体例を自ら示したのは、ここでもデュークが最初だったと言い伝えられている。

 シュガー・パインの樹から、デュークは自分でロングボードを削り出し、それで自由自在にオーストラリアの波に乗ってみせたという。このロングボードはいまでも大切に保管されて現存する。フィンのないこのロングボードは、縦の中心線にむけてコンケイヴつまりへこんでいる構造だという。普通は外側にむけておだやかに張り出したコンヴェックス構造なのだが、オーストラリアの波に合わせて、デュークは判断正しくコンケイヴにしたのだろうか。

 いまもオーストラリアのどこかにあるそのボードの、コンケイヴな曲面を想像していると、あるときほんの一瞬、デュークは蘇る。コンケイヴな曲面が波のエネルギーをとらえ、ボードの上に立っているデュークがボードごとそのエネルギーを自在に操った時間のなかの一瞬が、僕の目の前で稲妻のように光って消える。

 一九六〇年代のなかばには、カリフォルニアのハンティントン・ビーチでは、サーフィン・チャンピオンシップスがすでにおこなわれていた。何度か続けて、デュークはこの大会にゲスト・オブ・オナーとして出席した。そして一九六五年の十二月には、オアフ島のサンセット・ビーチで、デューク・カハナモク・インヴィテーショナル・サーフィン・チャンピオンシップス、と最初の頃は呼ばれていた、デューク・カハナモク・ハワイアン・サーフィン・クラシックの第一回がおこなわれた。

 この大会の模様はCBSがスポーツ番組として取材し、次の年のイースターの日曜日に放映された。たいへん素晴らしい出来ばえで、その年のエミー賞にノミネートされた。この番組のヴィデオ・テープが、かつてはハワイやカリフォルニアで、見ることが出来た。この頃のデュークは、しかし、吹く風のなかにふと感じる香りのような存在となっていた。

 一九六八年の一月に彼は他界した。このとき僕は偶然にハワイにいた。ビショップ博物館に毎日のようにかよっていて、いくたびにデュークの写真やロングボードを見ていた。レッドウッドから削り出したあの長く大きく重いボードの、波と接する部分の削り跡のひとつひとつは、デュークそのものとして、いまも静かにそこにある。

(片岡義男エッセイ・コレクション『僕が書いたあの島』1995年所収)

▶︎ blog |0824| 365 essay| デューク・カハナモクの生まれた日|CBSドキュメントの動画など

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1995年 エッセイ・コレクション サーフィン ジョニー・ワイズミュラ デューク・カハナモク ハワイ ロングボード 父親 片岡義男エッセイ・コレクション『僕が書いたあの島』
2016年8月24日 07:30
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