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白い皿の朝食

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 僕は目を覚ます。ベッドのなかだ。窓のない寝室はほの暗い。ほの暗い寝室というものは、時間の推移に沿うことを放棄している。一日という時間のなかの、いまが何時頃なのか、見当がつかない。

 いちおうはよく眠った、という感覚が僕の全身にある。だからいまは朝なのだ。朝の、何時なのか。それはわからない。要するに朝だ。まだ朝なのか。自分にとってこの朝は、いったい何度めの朝なのか。朝であることに、どれほどの意味があるのか。朝とは、なにか。朝だから、それがどうしたというのか。

 僕はベッドに起き上がる。そしてため息をつく。ベッドの縁からフロアに両足を降ろしてみる。立ち上がる。トランクスにTシャツ。寝るときのいつもの姿だ。だからいまのように目覚めて起き上がったときにも、僕はこの姿だ。

 部屋の向こうのクロゼットまで僕は歩いていく。ドアを開いてなかに入る。明かりはつけないまま、僕はトランクスとTシャツを一枚ずつ、棚から手に取る。そしてクロゼットを出る。ほの暗い寝室のなかで、目覚めたときのトランクスとTシャツを、僕は目覚めたあとのトランクスとTシャツに着替える。脱いだTシャツとトランクスを片手に持ち、僕は寝室を出ていく。

 廊下を歩いて僕はキチンに入る。カウンターの上の置き時計を見る。八時十五分だ。キチンの奥はドアひとつへだてて、ユーティリティとか言うスペースだ。洗濯その他、日常の細々とした作業のほとんどを、ここでおこなう。そのスペースの一角に、洗濯物を入れておくバスケットがある。着替えたトランクスとTシャツを、僕はそのバスケットに投げ入れる。

 八時十六分。理由もなく悲しい。そして虚ろだ。この虚ろさの向こうに、なにがあるのか。それがなにであるにせよ、それを手にするためには、この虚ろさを何度も体験しなくてはいけないのか。白い皿を一枚、僕は食器棚の引き出しから取り出す。朝食を作って食べなくてはならない。

 白い皿を調理台に置き、僕は湯を沸かす。深煎りのコーヒーの実をグラインダーで細かな粉にする。湯が沸く。僕はコーヒーをいれる。キチンのテーブルに向き合って椅子にすわり、僕はそのコーヒーを飲む。いつものコーヒーだ。上等なコーヒーだけは誰をも裏切らない、というような文句が僕の頭の片隅に浮かび、すぐに消える。

 コーヒーを飲み終えて、僕は白い皿を洗い、食器棚の引き出しにしまう。朝食はそれで終わりだ。仕上げにコーヒーをもう一杯、僕はこしらえる。そしてそれを飲む。朝という主題曲の変奏が、頭のなかのどこかに、物憂く聞こえ始めるような気がする。

底本:『白いプラスティックのフォーク──食は自分を作ったか』NHK出版 2005年


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2020年5月25日 07:00
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