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誰もがリアリズムの外で(1)

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 二〇〇三年十二月九日、イラクへ自衛隊を派遣することが閣議決定されたあと、首相は記者会見にのぞんだ。戦場であるイラクへ「実質的には軍隊」である自衛隊を送り出す理由を、この会見で首相は説明しようとした。みずからの信念を首相は力強く表明した、と外国の新聞は報じたが、その逆だったと僕は思う。首相は疲れていた。大きな不安を覚えているようにも見えた。方向は定まってはいなかった。憲法の前文の、最後の四分の一ほどを、彼は読み上げた。この部分での彼は激高しているようにも見えた。国益を云々するのであれば、かね〔ママ〕ですませるのがもっとも国益にかなうのではないか、という民主党の若い議員たちに首相は過剰に反応していた、という意見を僕は人から聞いた。そうだったのかもしれない。

 憲法の前文は総論のなかの総論とも言うべき部分であり、その総論に対応する各論の部分はどこかと言うと、それこそが第九条だ。総論でうたわれているこの理想を、実現させ維持していくための具体的な方策が、第九条だ。しかし首相は第九条にはいっさい触れなかった。憲法の前文にあるこの文言に異を唱える人は日本人ではない、というような論法のなかで、憲法前文の理想の実現が戦場への軍隊の派遣であるということになったのだから、首相は憲法の「け」の字も知らないと言われても、反論は出来ないだろう。きわめて初歩的な段階で首相は惨憺たる失敗を犯した。しかも憲法は、国家を運営する人たちが道を誤らないよう、人々が監視するための武器なのだ。前文に書かれている理想を、人々が無理にも引き受けなければならない責務として首相は説いたのだから、失敗は何重にも重なっている。

 新憲法は戦後の日本を国際社会へと解放した。最大の問題点は、天皇制を存続させるにはどうしたらいいか、ということだった。政治的な役割をいっさい担わない天皇、つまり国民のそして日本の象徴としての天皇、というアイディアだけでは国際社会を説得することは出来ない、とGHQは判断した。だから天皇制とおなじ比重で、戦争の放棄という第九条を設けた。憲法前文のなかにある名誉ある地位は、象徴天皇制と戦争放棄というふたつの工夫と、切り離すことは出来ない。名誉ある地位だけをとりあげて強調しつつ、第九条にいっさい触れないのは、天皇制を無視することにもつながる。

 首相がおこなったこの記者会見の内容に関しては、批判がたいへん多い。憲法の精神を歪曲した、筋がとおらない、説明になっていない、といった批判はすべて正しいが、真に批判されるべきは首相の能力ではなく、首相がこういう失敗を犯すのを、なす術もなく傍観してしまういまの日本の政治システムだ。首相にはたいへんな権限があるのだが、ここまで続いてきた自民党政治の歴史は首相を空洞化させる歴史だったようだ。首相は派閥の力関係のなかで順送りにかつがれる神輿であり、あらゆることは社会とは絶縁された密室のなかの調整で決定されてきた。このことの蓄積が頂点に達し、首相というものの空洞化がほぼ達せられたとき、そこに首相として登場したのがいまの首相だ。

 首相が空洞化するとは、国家というものが政治のなかから、すっぽりと抜け落ちていくことにほかならない。政治が国家を国家としてまともに機能させていないから、徒手空拳の首相がなけなしの力をふりしぼって、あのような内容の会見をしてしまう。戦後の日本の歴史は、国家が少しずつ消えていく歴史だった。ある程度以上に消えてしまうと、たとえば政治の世界でも、国家とはなにかわからない人ばかりとなるのではないか。

 憲法前文の一部分だけを空疎に力説するよりも、世界情勢のもっともリアリスティックな解説を首相はおこなうべきだった。外交、戦争、軍隊、アメリカとの関係など、核心となるすべてのことに関して、首相には体験も知識もない。強力なブレーンがサポートする態勢はないし、気楽にいろんなことを相談する相談役のような人たちもいない。政治のなかにそのような機能の領域がない。いまも戦場であるイラクに自衛隊を派遣するかしないかという問題が浮上したなら、およそ考え得る最良の対応策を現実のなかから引き出し、それについていきとどいたリアリズムによる説明の言葉をつくす、といった作業すべてを引き受ける補佐官のような人たちは、驚くべきことにどこにもいないようだ。

→ 明日(2)に続く〔全2回〕

底本:『影の外に出る──日本、アメリカ、戦後の分岐点』NHKブックス 2004年

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2004年 『影の外に出る──日本、アメリカ、戦後の分岐点』 アメリカ 戦後 政治 日本
2016年8月9日 05:30
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