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くっきりとした輪郭としての寒い季節

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 今年の冬は寒い、という予報はどうやらはずれたようだ。冬の寒さ、というものを僕は期待していたのだが。たとえばこの正月は、まるで寒くなかった。寒い、と思った日が、この冬はまだ一度もない。この冬、というような言いかたが、すでになかば死語のように感じられる最近の冬の温かさを僕は残念に思っている。

 これを書いているいまは、1月の20日だ。昔のほうが良かった、と言う趣味は僕にはないが、気候を中心にした自然条件は、昔のほうが圧倒的に良かったのではないだろうか。

 僕が10歳の頃の1月20日に吸っていた空気というものは、もはやどこにも存在しない。もしそれがそのままどこかに貯蔵してあり、その空気で満たされた部屋に僕が入ったなら、これはなんという素晴らしい空気かと、僕は思うのではないか。

 しもやけ、などという言葉を書いてみたくなったから、いまこうして僕は書いている。しもやけになりかかると、小指のつけ根から手首にかけて、掌の縁がまずたいへんかゆくなったような記憶がある。あのかゆさを、冬のなかで体験しなおしてみたいと、僕はふと思う。

 しもやけが出たついでに、霜柱という言葉も、僕はこうして書いてみる。こんな言葉を自分の文章のなかに使うのは、ひょっとしたらこれが最初だ。すでに20年、30年と、僕は霜柱を見ていない。

 それはきみがほとんどいつも東京にいるからだよ、と言われればそれまでだ。僕が子供の頃には、しかし、東京に霜柱はいくらでもあった。最後に僕がそれを見たのは、高校を卒業した年の冬のような気がする。

 つららも、おなじく長い間、僕は見ていない。長く垂れ下がった、かなりの太さのあるつららを素手でつかみ、ぽきんと折るときの不思議な手ごたえを、僕の掌はまだ記憶している。

 温かい冬が続くのは地球が温暖されているからだ、という説がある。温暖している原動力は、ごく簡単に言うなら、ここまで発達した人間の文明だ。

 発達した文明は、地球の上で日本列島の冬からしもやけやつらら、そして霜柱などを消した。地球ぜんたいでとらえるなら、恐怖的に巨大なスケールで、じつに多くのものが、いまも刻一刻と失われていきつつある。

 地球は温暖化しているという説と同時に、地球は基本的には寒冷化にむかっている、という説もある。どちらになってもいいけれど、選ぶことが出来るのなら、僕は寒冷化のほうがいい。地球に対する人間のしわざは、修復の限界をとっくに越えていると、僕は確信している。温暖化はいかにも人間のしわざらしくて不愉快だが、寒冷化は大摂理のなかのふとしためぐり合わせのような雰囲気を持っていて、イメージ的にたいへん好ましい。

 際限がないように見える人間の欲望によって、文明はここまで発達した。その結果のひとつとして、地球を温めてしまった。冬が温かすぎると、もう少し寒い冬が欲しい、などと懲りない人間は思う。

 これから地球が寒冷化していくなら、もう少し寒い冬を、という欲望は、ほっておいても一度はかなえられる。大摂理の大筋としては寒冷していくという説が正しく、寒冷化というすでに定まっている基本的な方向を、人間の文明がいまは都市的温暖によって局地的に乱している時期なのだ、という説を僕は楽しんでいる。

(2016年1月24日掲載 『昼月の幸福ーエッセイ41篇に写真を添えて』1995所収)


1995年 『昼月の幸福ーエッセイ41篇に写真を添えて』 季節 環境 自然
2016年1月24日 05:30
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