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複眼とはなにか

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 複眼、という言葉をよく目にする。複眼の思想とか、複眼のすすめ、といった文脈で使用される。単一のせまい範囲内に限定されたものの考えかたや価値観を越えて、もっと広い視野で自分や世界を多元的にとらえる能力を、一般的には意味している。単眼から双眼を飛び越えて複眼が、多くの人たちによって人々にすすめられている。

 ほんのすこしだけスケールを大きくとって考えると、単眼とは、たとえば自分の世界として日本しか知らないことだ。日本に日本人として生まれ、日本の教育を受けて育ち、自分が日本人であることをなんら疑っていず、日本のなかでのみ通用する価値観やものの考えかたを身につけ、これからも日本のなかでだけ生きていこうとしている人たちは、複眼をすすめる人たちの側から見ると、典型的な単眼であるということになる。

 スケールを世界ぜんたいに広げた上でとらえた単眼とは、このようなものなのだ。その単眼を複眼へと多層的に奥行きを広げていくとは、ではいったいどういうことなのだろうか。簡単に言うと、自分のなかにこれまで蓄積してきた日本的なもの、日本人としての特質のようなものすべてを、めざしている複眼の程度に応じて、削って捨てていくことだ。複眼のすすめは、じつは自分のなかにある日本をある程度まで捨てなさい、という提案だ。

 削って捨てると言っても、身についたものはすべて頭のなかにある。記憶の内部に蓄積してあるものを、必要に応じて切り取って捨てることは、すくなくともいまのところ人間には不可能だ。だから次善の策として、日本ではないもの、日本的ではないものを、かなり真剣に学習して身につけなければならない。

 本当に複眼をめざすなら、そのような学習は、何年も持続される必死の勉強になるはずだ。日本とはまったく異なった文化の側から、日本をさまざまに見ることが出来るようになるのが、複眼の第一歩だ。異なったもうひとつの文化を真に自分のものにするのは、誰にとっても至難の技であるはずだ。

 そのような複眼が、なぜ広く人々にすすめられているのだろうか。理由は簡単だ。単眼ではとうていやっていくことの出来ない時代のなかに、いま多くの人たちがいるからだ。人が自分の国のなかで単眼でい続けるのは、本来ならごく普通の自然な成りゆきだ。時代の急速な進展は、しかし、単眼というごく普通の状態を、良くないこと、都合の悪いことに変えてしまった。複眼のすすめとは、日本しか知らない日本人であることは良くないことだ、と言っているのとおなじだ。

底本:『アール・グレイから始まる日』角川文庫 1991年


1991年 『アール・グレイから始まる日』 日本
2015年10月24日 06:30
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