アイキャッチ画像

ホーム・ベースから一塁までの、優雅きわまりないあの距離

LinkedIn にシェア
LINEで送る
Pocket

 昔、たとえば1930年代に撮影したアメリカのプロ野球の、オフイシャルなゲーム中の写真ワン・ショットと、現代、たとえば1987年のワールド・シリーズの試合中の写真ワン・ショットとを、目のまえにならべて見くらべると、アメリカにおける野球というものの基本的な姿のひとつが、はっきりとわかる。

 昔の写真は、見るからに昔だ。写真そのものがすでに古いし、プレーヤーが着ているユニフォームのかたち、その着こなし、帽子のかたち、グラヴのかたち、プレーヤーの顔つき、体つきなど、画面のなかにあるほとんどすべてのものが、古さを感じさせる。現代のものとくらべると、やはり昔は昔なんだなあ、と思う。

 しかし、ユニフォームのかたちとかプレーヤーの顔つきなど、昔と現代との対比関係にあるものすべてを、おたがいに重ねあわせてひとつにしてしまうと、野球という、昔もいまもほとんど変わっていないゲームが、くっきりと浮かびあがって見えてくる。

 屋内野球場、DHシステム、人工芝、TVによる中継など、昔にはなかったし考えられもしなかったさまざまなものが、現代の野球をとりまいている。だから、一見したところ野球は昔にくらべて大きく変わったように思えてしまうかもしれない。しかし、野球の基本は、まったく変化していない。野球そのものは、なんら変化していない。

 野球をとりまくさまざまな状況が、時代とともにいくら変化しても、それはいっこうにかまわない。

 しかし、野球そのものは、変化してはいけない。変化してはいけないから野球は変化しないのであり、変化させる余地がもはやどこにもないほどに完成されているから、野球は変化しないのだ。

 野球という不思議なゲームのルールは、すでにとっくの昔に、これ以外ではありえないしこれ以上にもなりえないという完成の高みに、到達してしまっている。野球のルールは、あるひとつの高度な良さの次元に、達している。したがって、時間がどれほど経過しようとも、野球そのものは変化しない、そして変化してはいけない。

 野球のルールというものを、ルール・ブックにびっしりと印刷された大量の文字としてとらえるなら、ルールは二次元の出来事でしかないが、想像の三次元のなかでワン・ゲームを純粋に組み立てたものとしてとらえるなら、すでにとっくに完成の域に達している野球というゲームを、より明断に思い描くための土台となる。

 ビッグ・リーグで実際に使用されているボールひとつとバット一本とを、出来ることならビッグ・ゲームに使用されているボール・パークの地面の上にならべて置き、つくづくとながめてみるといい。

 バットには、もはやなんら改良の余地はない。完璧で完全な完成品だ。現在の野球のルールが美しい完成品であるのとおなじ意味において、バットもまた、きわめてすっきりとした完成品だ。ボールも、まったくおなじだ。完成されきっている。これ以上ではありえないし、これ以外であってはいけない。ボールもバットも、見事と言っていいほどに、出来あがりきっている。グラヴも完成の域に近いが、小さな改良を積みかさねていくだけの余地なら、まだあるようだ。しかし、どのように改良されたとしても、それが野球のグラヴであることに変わりはなく、ボールやバットと美しく調和する。

 ダイアモンドの大きさ。球場の大きさ。ホームプレートのかたち。そのホームプレートを左右からはさんでいるバッター・ボックスの、じつになんとも言いようのない形状と雰囲気。塁間の距離。などというものをじっくりとながめたり、あるいはこういったものについて、やはりじっくりと考えたりすると、野球というものの完成度の高さが、ますますはっきりとわかってくるはずだ。塁間の距離はどこもおなじだが、特にホームから一塁までの距離は、まったく絶妙ではないか。

 野球は、ただ単にスポーツ・ゲームのひとつであるにとどまらず、それを大きく超えた、非常に優れて美しい、叡知を巧みに集めた結果の、たいへんに優れたなにごとかなのだ。

 以上のようなことを僕が考えるきっかけとなったのは、『べースボール』という明快なタイトルを持つ、一冊の写真集だった。

『スポーツ・イラストレイテッド』のスタッフ・フォトグラファーとして活躍し、いまはフリーランスで仕事をしている、ウォルター・アイウース・ジュニアの写真133点に、ロジャー・エインジェルが短い文章を添え、一冊の大きな本にしたものだ。ウォルター・アイウース・ジュニアは、バスケットボール、フットボール、そして野球を、スタッフ・フォトグラファーとしてさかんに取材したが、彼がもっとも好きなのは野球なのだそうだ。『べースボール』のなかに収録してある彼の写真を見ていくと、彼がいかに野球を愛し、野球というゲームが持っている微妙きわまりない内部エッセンスをいかに正しく深く理解しているか、よくわかる。彼の写真のどれにも、野球という不思議なゲームが持つ、微妙さの完成度のようなものが、美しく写しとられている。

『べースボール』におさめてあるウォルター・アイウース・ジュニアの写真は、20年まえから現在までの期間に撮影されたものだ。アメリカのビッグ・リーグ名場面集のようなものを想像するかもしれないが、彼の写真は、そのような写真ではない。ついさっき書いたとおり、野球というゲームの完成度の高さの内部を、さまざまな表情で色美しく躍動的に見せてくれている、たいへんに優れた写真だ。

 ロジャー・エインジェルの文章も、いつものように、野球のことがじつによくわかった人の文章だ。塁間の距離の絶妙さを、彼は、エレガント、と形容していた。たしかに、そのとおりだ。野球のダイアモンド上の、塁間の距離は、エレガントなのだ。

「野球では、次になにが起こるか、誰にもまったく予想が出来ないんだよ」という意味の、ヨギ・べラの言葉を引用して、ロジャーは、野球の微妙さの基本を説明しようとしている。日本のプロ野球解説用語としても、意外性のゲームとか、野球は下駄をはくまでわからないとか、あるいは、野球はこれだから面白いとか、おなじような意味の言葉がいくつも存在する。

 なぜ、野球は、微妙に意外なのだろうか。野球の基本は、一個のボールだ。一個のボールの動きのなかに、あらゆる意外性、予測のつけようのなかった事態の、すべてがある。ピッチャーは、自分の力、技量、体験的知恵、野球センスなど、持てるものすべてをこめて、一球ごとに投げていく。そのボールを、バッターは、芸術的に、打ちかえす。ボールをあのバットで打ちかえすというこの行為のむずかしさは、スポーツ的技量のむずかしさのなかでも最高位、あるいはそのすぐ近くに位置するものではないだろうか。一打ごとにむずかしさの差異をともなってむずかしいから、その結果もまた、ひとつひとつ意外なものとなる。

 野球のゲーム進行はリニアであり、一見したところ退屈で、出来事はきわめてすくないように思ってしまう。しかし、実際は、リニアでありつつ立体でもあり、見る目のない人にとっては退屈さでしかないものは、じつは、野球独特の優雅な間合いなのだ。

 ピッチャーが、一球ずつ、投げる。それを、バッターが打つ。一球ごとに、意外な結果が生まれ、ワン・ゲームのなかの流れとして、積み重なっていく。ピッチャーがボールを投げようとするときから、バッターがそのボールを打ちかえすまで、全員がひたっと静かに集中力をしぼりこみ、ピッチャーとバッターとがつくり出す光景を、自分のものとしなくてはいけない。一球ごとに生まれる、この神経を集中させた優雅な間合いのなかに、野球の基本が存在する。ロジャー・エインジェルが、そう書いている。

(『本についての、僕の本』1988所収)

baseball

[ウォルター・アイウース・ジュニア『ベースボール』1984 本サイト編集部による参考図版として掲載]


1988年 『べースボール』 『本についての、僕の本』 アメリカ ベースボール 人名|ウォルター・アイウース・ジュニア 写真 写真集 片岡義男エッセイ・コレクション『自分を語るアメリカ』
2015年11月12日 05:30
サポータ募集中