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「不断の努力によって」

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 日本国憲法の第11条は基本的人権についてのものだ。憲法の保障するものとして、国民にはすべての基本的人権があたえられていて、それは侵すことの出来ない永久の権利である、ということになっている。そしてその次の第12条は、憲法がこうして保障してくれている自由や権利などを、国民は「不断の努力」によって保持していかなくてはならない、と定めている。

「不断の努力によって」保持していくとは、いったいどういうことなのか、戦後が半世紀を越えたいまもなお理解していない人たちが、圧倒的な多数を占めているのではないか。永久の権利として憲法があたえてくれていて、しかもそれを憲法が保障してくれてもいるのだから、人権の保持は自動的になされていくはずであり、したがって「不断の努力」など必要ないではないか、というような理解のしかたなら、じつに多くの人たちがたやすくなし得ることだろう。

 いくら憲法で保障されていても、国家を運営する人たちが侵そうとするなら、基本的人権はいくらでも侵すことが可能だ。だから国民は国家の運営者たちを注意深く監視し、厳しく制御するという「不断の努力」を続けることをとおして、基本的人権を保持していかなくてはならない。それが国民の義務だ。そしてこの義務をまっとうしていくにあたって、国民がいつでも手にすることの出来る最大の防御的な武器が、憲法なのだ。

 国家がいろいろときめてくれたほうが、すべてはっきりするし自分は楽でいい、という考えかたをする圧倒的多数の人たちは、基本的人権が思いがけない方向からさまざまに浸食されていく現実に、じつは深く加担している。正しい理解のための、ほんのちょっとした思考すら面倒くさがる彼らは、急速度で進展していく事態という、さらにいっそう理解不可能な状況によって、包みこまれようとしている。

 戦前・戦中をへた日本が大敗戦へと到達した時代を背景ないしは前提のようにして、日本国憲法は組み上げられている。基本的人権などじつは誰も守りようがないという、半世紀前にはまったく想定外だったとんでもない状況に、いま日本はいくつも直面している。そのなかからほんの小さな例をひとつだけ拾うなら、原発の事故ないしは意図された爆発は、わかりやすくていいだろう。原発が爆発し、致命的な濃度の放射能を帯びた物質が日本列島の半分に降り注ぐ、といった事態が発生したとき、基本的人権は、どんなかたちと内容で、いったい誰によって守り得るものなのか。

 電力を豊かに供給されて文化的な生活を営むという、憲法で保障されている権利の保持が、おなじく憲法が保障する基本的人権を、半永久的に根こそぎにする事態を生み出す。だから憲法はそこではもはや無力なのかというと、けっしてそんなことはない。憲法が保障している文化的生活を営む権利というものを、国民は注意深く監視し、自ら厳しく制御すべきであり、そのためには、起こっては困る事態を起こさないよう、防御的武器としての憲法を、国民は自らに対して存分に使用しなければならないという、新たな性質の「不断の努力」を、憲法はいまも要求している。

 もはや取り返しのつきようもない、国家存亡の危機のなかを逃げまどいながら、無事に生きていく権利とはこのような危機を招かないよう、憲法が自分たちに保障する権利を、自らの手で何重にも厳しく監視し制御する義務であったかと、ようやく痛感するにいたる人の数はやはり少数にとどまるのか。そのような人たちに対しては、憲法は最初から徹底して無力だったことになる。

(『自分と自分以外ー戦後60年と今』2004所収)


2004年 『自分と自分以外ー戦後60年と今』 憲法 戦後 日本
2015年11月3日 05:30