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夏は終わる。しかしサーファーにはなれる

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 一時間三十分ほどのカラー・シネマスコープ映画を一本観ただけで自分の世界観が実際に変わってしまうことが現実にありうるのだ、ということから波乗りについてすこし話してみよう。

『エンドレス・サマー』という、一九六〇年代アメリカのサーフィン映画の傑作映画を、ぼくは、それが一般公開されて間もなく、アメリカで観た。

 ぜひ観ようと思って観たわけではなかった。西海岸へ来て、さてなにをしたらいいのかと、ぼうっとして日を送っていたとき、なぜだかハンティントン・ビーチへいき、そこの映画館で『エンドレス・サマー』を観た。

 この映画館は、そのときは気がつかなかったのだが、ハンティントン・ビーチ一帯のサーファーたちのために波乗り映画ばかりとっかえひっかえ上映している、サーフ映画専門の映画館だったのだ。

 サーフ映画とはいったいなんだろうかと、非常に稀薄な意識でほんのわずかな興味にひかれ、ぼくはその映画館に入った。サーフ映画に対する期待よりも、映画館の冷房のきいた暗闇でシートにすわり、二時間ちかくぐったりしていられることへの期待のほうが大きかったのだと思う。

 観終わって、ぼくは、すっかり忘れていたことを思い出していた。そうだ、世のなかにはこういう世界があったのだ。

 主としてオアフ島北海岸の大波が、この映画にはとらえられていたと思う。それまでサーフィンについてまったく知らなかったわけではない。しかし、面白げな水上スポーツがあるな、というような、ほんとうにどうしようもない認識しか持っていなかったのだから、サーフィンについてはなにも知らなかったと言ったほうがいい。

 本場はハワイなのか、よしそれではと、ハワイへひきかえし、北海岸へいっていきなり波を相手にし、あやうく死ぬとこだった。映画『エンドレス・サマー』で観たサーフィンと、現実の北海岸での波の体験とのあいだに、ぼくのサーフィンが息づいているような気がする。『エンドレス・サマー』は、その後、ハレイワやラハイナでも観たし、東京でも観た。日本で公開されたときの題名は『終りなき夏』といった。

 いわゆる劇映画としてのストーリーやドラマを持った作品ではない。海や波のさまざまな光景、かたちを、サーフライダーたちの波乗りと共に、いろんなふうに撮影したフィルムを、独特のサーフ感覚で編集し、ナレーションや音楽をかぶせただけのものだ。

 サーフ・ライディングのシークエンスは、頻繁にスロー・モーションになっていて、これにスペース感の強いロック音楽がかさなると、スクリーンのうえに魔法がくりひろげられることになる。断ちがたい、ふりきりがたい絶大無限の魅力を持った魔法なんだ。

 日本にいまサーフィン人口が十万人いるという。いつだったかの朝日新聞の記事にそう書いてあった。このなかのかなりの数の人たちが、ウエスト・コーストやハワイで、この『エンドレス・サマー』を観てるはずだ。

 すぐれたサーフ映画がその前後にたくさんつくられ、『エンドレス・サマー』は最初の大傑作としての地位を手に入れ、いかにも一九六〇年代なかば的な感覚をフィルムにみごとに封じこめた記念碑な作品となっている。

 ハワイからタヒチ、サモア、フィージー、ニュージーランド、オーストラリアと、よれよれのコジキみたいな様子でぼくは海を見てまわり、真夏のフィージーで一日じゅう波のうえにいてすさまじい日射病にかかり、ここでもあやうく死ぬとこだった。

 オアフ島北海岸がいかに素敵かは、小説ですでに何度も書いてきたような気がしている。現場のエネルギーを吸収しなおしてもういちど書くつもりでいるから、いまはくりかえさないでおこうと思う。

 ぼくは幼いころから海が好きだ。瀬戸内海がまだこよなく美しかったころ、明るい、あっけらかんとした海岸や小島であそびほうけてすくなくとも十年はすごしたから、「明るい海と砂浜」といったものの原体験が頭と体つまりぜんたい的な六感のどこかに、かなりしっかりとしまいこまれているはずだ。

『エンドレス・サマー』を観て体験した感動は、この「明るい海と砂浜」の原体験みたいなものに直接につながっている。

 明るくてきれいで、数人の友だちのほかは人がまったくいない砂浜と海で気のすむだけあそぶのは、六感のよろこびなんだ。海以外に余計なものはなんにもない。自転車のうしろにアイス・ボックスをつんだアイスキャンディ・マンが「今日も泳ぎよるか」と、一本が三円だか五円だかのアイスキャンディを売りに来て松の枝の下に自転車をとめれば、海の魅力は最大限に盛りあがった。

 明るい夏の海で裸になるのは、とてもいいことだと思う。人としてぜひとも必要な体験だ。それに、泳ぐという行為は、考えてみるとじつに不思議だ。

 まず、宇宙があり、その片隅あるいはまんなかに、地球が浮かんでいる。その地球に、海がある。

 海は、たとえば地球儀を、ある独特な感覚でつくづくながめるとわかるのだが、陸地をひとつにつないでいるものなのだ。アジアだのアフリカだのを、ひとつにぐるっと取り囲んでいるのが、海なんだ。陸はいくつかに分かれているけれど、海はひとつだ。

 そのひとつの海に、夏の日の少年が泳いで浮かぶとすると、これは革命的な出来事になる。

 水という得体の知れない生き物のなかに、泳ぐ人間が浮いている。立つわけでもなく寝ころがるわけでもなく、さらには転がるわけでもなく宙吊りになるわけでもない、不思議な状態。その不思議な状態が、宙に浮いている地球の海のうえで可能になる。

 現実の海は、それがいかに明るくきれいで人がいなくとも、アイスキャンディ・マンが来ても来なくても、ただ荒々しく海であるにすぎない。だが、海に浮かんで泳いでいるとき、どんなふうに体の位置をかえてもバランスがとれてしまう状態が六感にうえつけていく感覚は、あれはいったいなになのだろうか。

 左右のバランスとか上下のバランスとかをはるかにこえて、いかなるバランスをも可能にしてくれる状態を、ある期間にわたってひっきりなしに経験すると、いっさいのこだわりが体や頭から抜けていく。ぼくの場合は、抜けすぎてすこし馬鹿にちかいのだと冷静に自己分析しているのだが、どんなものだろう。

 地球に海があるだけで充分におどろきなのだが、その海には、波がある。

 この、海の波も、不思議なものだ。北海岸の砂丘にすわって一日じゅうながめている波は、いっさいの生き物を超越した生き物のようだ。

 砂浜にむかって押しよせてきて、サーフィンにとって絶好の砕け波になるときのうねりのありさまは、いつまで見ていても飽きない。つまり、ぼくやぼくのうしろにある島をそのうねりは突き抜け、地球をひとまわりして、また目の前にかえってくる。

 サーフボードに腹ばいになり、パドリングで沖へ出ていくだけで、かなりきつい。日本で都会ぐらしをしていて、ある日いきなり北海岸の波に乗ろうとしたりすると、波にまきこまれて体をねじられたり、海岸に叩きつけられてそのうえから何トンという重さの波でおさえつけられ、半身不随になったりするから気をつけなくてはいけない。

 波の腹をすべり降りるときの快感を言葉で語れるか語れないかという一種のゲームを、おこなってみようと思う。岸へむかって押しよせていく波の横っ腹の、手をちょっとのばせば触れることができる位置をサーフボードに乗ってすべっているときの感覚の面白さは、何十年くりかえし味わっても味わいつくしてしまうようなことはないとぼくは思う。

 波乗りは、まさに、ライフ・スタイルだ。サーフィンを生活の中心に置くと、毎日があそびになっていく。北海岸の板張りの小屋に根をおろして送るそういった生活のどこがどう面白いのか、手みじかにわかりやすく書くとなると、むずかしい。とにかく、あっけらかんと、なにごともただ楽しいのだ。それに、ある意味では重労働だから、気分もいい。

 地球をとりまく宇宙にもし神秘があるなら、その神秘のいちばん手近でわかりやすいひとつの具体的な例が、海の波ではないだろうか。波はいつも北海岸によせているが、まったくおなじ波は、ふたつとない。この、ふたつとない、しかも無限につづく波を生活の中心にしようというのだから、徹底したライフ・スタイルに近づかないほうがおかしい。

 そのライフ・スタイルつまりサーフィンを中心に置いた日々をつくりだすには、時間がかかる。ぼくの実感では、ふた月かかる。都会生活のなかでひきずっているいろんなものをひとつひとつふり落として身軽になるためには、いま思い立って明日すぐに、というわけにはいかない。そして、いったんそういう生活になってしまうと、その生活はながく尾をひく。

 サーフィンをやらないでいるのは、もったいない。波は無料なんだ。誰にでもつかえる。波に乗らないでいると、六感の感覚上の損をする。抜けるわだかまりが抜けていかないだろうし、広がる可能性を持っている感覚がむざむざとせまいままになってしまう。

 海や波、陽や風のある風景を忘れすぎたままでいると、頭と体の感覚が、じり貧になっていくような気がしないだろうか。自分が、そういった風景のなかに、ただなんということもなく普通に存在しつつ、たとえば波に乗ったり泳いだり砂浜にいたり、あるいは、都会にまい戻って波や陽を思い出したりしているのは、感覚上のよろこびだ。

 サーフ映画の話に戻ろう。スロー・モーションで時間をひきのばすところが、サーフ映画の持つ感覚的快楽の秘密のようだ。普通のスピードだと、ほんとうにみごとなサーフ・ライディングも、あっという間に終わってしまう。サーファーの動きに自分を同調させることに気をとられ、波の動きにまで目がいかない。ところが、一瞬をスロー・モーションでひきのばすと、貴重な一瞬がずっとながくなり、波の圧倒的な動きのこまかなところまではっきりわかる。

 さらに、実際に波に乗っているときの感覚や体験の記憶は、六感のなかによみがえるときたいていはスロー・モーションになっている。

 楽しいことを楽しいこととしてそのまま全身的に楽しむ、ということがもしいま次第に数すくなくなっているのだとしたら、サーフィンは最後の楽しみかもしれない。

 サーフィンは、地球や宇宙との、きわめて無邪気なたわむれなのだろう。

底本:片岡義男エッセイ・コレクション『僕が書いたあの島』太田出版 1995年

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2016年8月31日 05:30
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