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あの道がそう言った

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白く輝く雲へ

 まだ梅雨だがその日は、梅雨明けの初日のように、素晴らしい晴天だった。小田急線の上りひと駅の下北沢で井の頭線に乗り換えて渋谷へ。朝のラッシュアワーの地下鉄銀座線浅草行きのプラットフォームでは、人々が三列にならんでいた。ひとつ次の電車ですわりたい人は、その右隣りの二列目に、そしてさらに次の電車に乗る人は、三列目にならんでいた。このような乗車のしかたを整列乗車と、一九六三年の六月にはすでに呼ばれていた。

 二列目の先頭から三人、つまり九人のなかに入っていれば、すわることが出来た。僕はいつもすわった。ものすごく眠かったからだ。すわったとたんに眠った。新橋で半分ほど目が覚めた。次は銀座だ、あとひとつある、といつもおなじことを思いながら、僕は眠った。

 銀座を過ぎ、次は京橋です、というアナウンスがあり、やがて地下鉄は速度を落とし、駅に停車してドアが開いた。それと連動しているかのように僕は席を立ち、車輛を出た。半分以上まだ眠ったまま、いつもの階段へ向かった。この階段は幅が狭く古風な雰囲気で、途中に喫茶店があった。このあたりでいつも目が覚めた。

 階段を上がりきって外に出ると、京橋のビジネス街、と人の呼ぶ地域だった。確かにいくつもの会社の建物が、行く手をふさぐかのように林立していた。前の年の秋、まだ大学四年生だったときに就職が内定した商事会社は八丁堀にあった。八丁堀の交差点よりひとつ東京駅寄りのところで、通りに面して建つ建物のなかだ。

 そこまで京橋駅からいつも歩いた。方向としては斜め右だ。建物のあいだの道を、右に折れ左に曲がったりしつつ、八丁堀へ近づくのだ。昭和通りを越え、首都高速の都心環状線がこのときすでにあれば、その下をくぐった。高速道路があったかどうか、まったく覚えていないが、いまでも鮮明に覚えているのは、建物のつらなったそのずっと遠く、房総半島の内側、歩いていく僕から見えていた方角から判断して、袖ケ浦、木更津、君津、富津あたりの上空に悠然と浮かんでいた、ほどよく分厚くほどよく大きい、まっ白に輝く雲だった。

 太陽の光の直射を受けて、ありとあらゆるものを一瞬のうちに浄化するような、どこまでも純白に光り輝いてやまないその雲を見た瞬間、いま自分が歩いているこの道は、あの雲の下までつながっているのだ、と僕は思った。そしてさらにその次の瞬間、では自分はその道を歩こう、と思った。

 この決意は非常に固いものだった。八丁堀の会社に着くまで、僕のなかにその決意はあり続けた。こうなったらこれしかない、と判断した僕は、六月末日付けでの退社届けを書き、総務部に提出して受理された。残された半月ほどの日々は、仕事の引き継ぎに費やされた。

 大学四年生の夏、まだ就職のきまっていなかった僕のことを心配して、おなじ学部の友人がこの商事会社への願書提出を手配してくれた。僕は入社試験を受け、秋には内定した。このときの自分に対する評価は、いまも変わっていない。僕は歩留まり要員だった。辞めていく人は多いから、それを見越して採用しておこう、という方針のもとに採用された、多くの人たちのうちのひとりだ。

 四月一日から出社し、初めの一週間は研修だけだった。会社の近くにあった会場で、社員たちによるそれぞれの領域での、仕事の実際に関する話を、ただ聞いていればいいのだ。その一週間が終わると、配属先での仕事のすべてが、いきなり始まった。最初に覚えた言葉は、ガイタメとバンカメだった。ガイタメは外国為替だ。「外」をガイと読み、「為」をタメと読んでつなげると、ガイタメになる。バンカメはバンク・オヴ・アメリカのことだ。

 四月一日から僕の内部に少しずつ蓄積していき、それがやがて結論になったのが、六月のなかばだった。ここは自分の居場所ではない、したがって自分はそこを去るほかない、という結論だ。会社を辞めた、と一般的には言うけれど、正確には、そして少なくとも僕の場合は、居場所ではないと結論した仕事場から去ったのだ。そこに適さない人が、そこにいてはいけない。

 七月一日は、じつに奇妙な日だった。会社の仕事の引き継ぎはすべて終わり、僕は社員ではなく、もはや朝の地下鉄銀座線に、渋谷から乗る必要はまったくなかった。自分で自分を、ひとりの状態へと、放り出したのだ。これほどに純度の高いひとりの状態を、これまで僕は一度も経験していない。あのときだけのものだ。白く輝く雲の下へ向かうべく、梅雨が明けるとすぐに内房の館山へいき、夏をそこで過ごした。夏の日々が終わったとき、僕は強がりの言葉をひとつ、手に入れた。夏は季節ではない、それは心の状態だ、という言葉だ。

そこでしばらく立ちどまる

 友人との夕食だった。地元のイタリアンなんだよ、ぜひ食べてくれ、と彼が言った。だから食べてみることにした。小さな店に若いシェフがひとりいた。奥の席で僕たちは差し向かいとなった。

「仕事は忙しいのかい」

 と友人が訊いた。僕の仕事とは、小説を書くことだった。

「すぐにでも短編をひとつ書かなくてはいけない」

「どんなストーリーになるのかな」

 という彼の問いに僕は首を振った。

「まだなにもきめてない」

「腹案くらいはあるだろう」

 ノートブックなら何冊もあった。小説のためのさまざまなメモを、右のページだけに書いたノートブックだ。つい昨日もいくつかメモを書いた。なにを書いたか思い出そうとしながら、

「十字路の話なんか、いいかもしれない」

 と僕は思いつきを言葉にした。その言葉を受けとめ、しばらく考えたあと、友人は次のように言った。

よしで降りたんだよ。あの高速道路を。オートバイのひとり旅だった。国道54号から県道の64号に入った。中国自動車道のすぐ北を西へ向かう道だった。県道の4号と交差したんだよ。その交差するところが、確か十字路だった。景色を思い出そうとしてる。そのまま西へいって、高田インターで中国自動車道に入ったのが、いけなかったな」

「なぜ?」

「広島自動車道へ分岐してたから、そちらに入った。広島の市街地に惹かれたから」

「小説に出てくる十字路の景色なら、おだやかな起伏の山なみで周囲が囲まれてるなかに、その十字路の部分だけ土地はまっ平らで、十字路は定規を使って描いたようで、どの道もほんとにまっ直ぐな十字路がいい」

 何度もうなずいた彼は笑顔になり、

「A子、B子、C子だよ」

 と言った。

「どういう意味だ」

「十字路だから進むべき方向は三つある。単なるA、B、Cではつまらないから、A子、B子、C子と言ってみた。いちばん左の道をいくと、A子という女性と知り合う。まんなかはB子、そして右の道をいくと、僕は待ち構えられたかのように、C子と出会う」

「一度に三つの方向へは進めないからね」

「当然だよ。どれかひとつを選ぶほかない。ひとつの道を選んでそれをいくと、ひとりの女性と出会う。今年はA子、来年はB子、そして再来年はC子だ」

「三年越しの十字路の物語か」

「面白いよ。おなじ十字路が三度、出てくる。景色が微妙に変化している。そんなところを丁寧に書け」

「それは、いい」

「季節はおなじ夏だよ。三年後の彼は三つ歳を取ってる」

「ふふん」

 と僕は言った。

「三人の女性たちは、それぞれまったく単独でもいいし、どこかに共通点がある、というようなかたちで、つながっていてもいい。A子の延長がB子で、そのさらなる延長がC子である、というふうに」

「ふふん」

 と僕はふたたび言った。

「素人のアイディアに、プロの作家がせせら笑ったか」

「アイディアとしてはなかなかいい、悪くない、という意味で、ふふん、と言った」

 調理場のシェフに友人は空になったグラスを掲げてみせた。

「ビールをもう一杯」

 と友人は言った。彼の三杯目のビールのすぐあと、前菜の盛り合わせを、シェフは僕たちのテーブルに置いた。

「十字路の話を書けよ」

 と友人は言った。

「いずれにしろ、三年越しの物語だね」

「さっきも言ったとおり、三度の夏の物語だ。夏は得意だろう」

「女性たちの服が薄く、少なくなる。あるかなきかのスカート一枚にシャツも一枚なのだから」

 三杯目のビールを友人はひと口ずつ賞味した。そして目の前に掲げたグラスを見ながら、次のように言った。

「進むべき方向がきまってないときの十字路は、最高だよ。十字路を前にして、そこにしばらく立ちどまる。十字路は三つの方向に分かれてる。どれをいこうかと思案する頭のすぐ隣りに、なんにも考えてない頭がある。そのふたとおりの頭の均衡だよ。いくら思案しても答えはない。三つの道からひとつを選んで、その方向へいってみるほかない、という物語をぜひ書いてくれ」

「ひと夏の物語にしようか。おなじ十字路に、ある夏の一日、時間をおいて、三人の男性がオートバイでさしかかる。三人はそれぞれ違う方向へ進む。その三人の物語だ」

灯台をめざした

 彼女との待ち合わせの喫茶店に向けて駅から歩いていたら、突然に閃いた。閃きは突然であるはずだ、十年もかけた閃きなど、ありっこない、などと僕はついでに考えた。

 灯台へいきたい、という閃きだった。喫茶店で待ち合わせている彼女と、自分の意識のどこかで、灯台がつながっているのだろうか、と僕は思った。いろんな視点から考えてみた。灯台らしい灯台は、小さな半島の突端にすっきりと白く立って、無駄はいっさいない。彼女の姿もすっきりしている。灯台と彼女の共通点はそこだけだ。

 彼女を夕食に誘ったのだが、今日は午後遅くの珈琲にしましょう、と言われた。再来週の日時を提案され、それを僕は受け入れた。三日前のことだ。そのときは、灯台のことなど、僕の意識のどこにもなかった。そして今日、ここで、彼女と待ち合わせだ。せっかくだからしばらく灯台の話をした。彼女は興味を持ってくれた。

「僕は灯台へいきたい。どこでもいい。東京から自動車で三時間ほどのところが好ましい。灯台らしい灯台。知らないか」

 笑顔の彼女は、

「中学生の頃、いきました。どこだったかなあ。写真があります。DPE屋さんでカラー・プリントしてもらった時代です。仲良し三人の女のこが灯台の大きな円筒のようになった白い壁を背後に、陽ざしに向かって笑いながら、三人ともVサインをしてます。服装や髪のスタイルなどすべてを含めて、いま見るときまりの悪い写真です」

「どこの灯台だったか、思い出せないか」

「どこだったかしら。でも、すぐにわかると思います。灯台らしい灯台でした。小さな半島の突端に、真っ白く立っていて。高くもなく、低くもなく。空の青さに灯台の白さがきれいで、海は思いのほか重量のある色で、それがいまでも記憶に残ってます」

 どこの灯台だったか調べます、東京から自動車で三時間の範囲内にある灯台の資料も送ります、と彼女は言っていた。資料をまとめるのは彼女の得意技のひとつだった。

 その資料が二日後には届いた。中学生のときに訪ねた灯台は、写真に写っている三人のうちのひとりの出身地のすぐ近くで、夏休みになってすぐに彼女の実家へ遊びにいったとき、その灯台にも寄ったのでした、と彼女はメモに書いていた。写真のカラー・コピーが、灯台の資料とともに、同封してあった。彼女はこの頃すでに、はっきりと彼女だったのだ、とその写真を見て僕は思った。

 僕は彼女が中学生の頃に訪れた灯台について、検索してみた。そして発見した。僕がなぜだかいきたいと思った、灯台らしい灯台の、見本のような灯台なのだ。東京からの距離は、高速自動車道を使ったとして三時間ほどではないか、と僕は試算した。

 小さな半島の突端にその灯台が立っている様子を、僕はウェブサイトの写真で見た。半島の尾根に灯台へのアクセスの道があり、いきどまりは駐車場のようなスペースで、そのすぐ向こうに灯台が立っていた。道路の両側は松林だ。

 観光地になっていない理由はすぐにわかった。高速自動車道から降りるランプが、灯台のある半島をかなり過ぎてからであり、半島の根もとを県道が抜けているだけだ。観光地らしいものはいっさいなく、したがってじつに灯台らしい灯台のまま、いまもそこにある。

 妹からアウディを前日に借りてくれば、それが準備のすべてだった。台風がこっちへ向かってるのよ、と妹は言っていた。僕はまったく気にしなかったが、当日は朝から荒れ模様で、TVの気象ニュースでは台風情報がトップの扱いだった。これが台風の予測進路だという赤い線は、僕がいこうとしている灯台の上をとおって、内陸に向かっていた。

 出発する前に、予約してある旅館に電話した。台風ですがうかがいます、と伝えた僕に、お待ちいたしております、という言葉があたえられた。灯台に向けてアウディを走らせるのは、接近してくる台風を迎えにいくようなものだった。

 灰色の空には意外な明るさがあった。しかし風と雨は激しさを増すばかりで、見える景色のあらゆる部分が強風に揺れていた。これでは少なくとも今日は、あの灯台へいくのは無理だ、と僕は自動車道で横風とたたかいながら、観念した。旅館へ到着すれば上出来だ、と僕は思った。自動車道を降りたときには、地表が剝がれるほどの風が吹いていた。

 到着した旅館のなかは、しかし、別天地だった。ゆっくり風呂に入り、天麩羅で夕食を食べ、ビールは珍しく三杯も飲んだ。売店で絵葉書をひと組だけ買い、部屋に戻って十二枚の絵葉書を眺めた。そのなかに、僕がいくべき灯台の写真があった。三十年くらい前の、ある晴天の日に撮った写真のなかで、その灯台はじつに灯台らしかった。

島づたいに歩く

 岡山県の笠岡で遅い昼食を食べた。うどんがお勧めですと店の人が言った。だから僕はうどんを注文した。丸く大きく揚げたものが、うどんに載っていた。美しい景色だった。箸を持った僕はしばらくその景色を眺めた。

 うどんも揚げ物も、じつに良かった。いまもあるなら、そしてその店の名前や位置を正確に思い出せるなら、僕は笠岡へいく人にそのうどんを勧めたい。豆腐に魚のすり身と淡路島の玉葱を加えて揚げたものだった。その魚の名を店の人は教えてくれたのだが、忘れてしまった。思い出せない。瀬戸内ですり身にする魚の名をかたっぱしから見ていったなら、その魚に再会出来るだろうか。

 昼食のあと喫茶店に入り、持っていた地図を見た。コーヒーを飲みながら瀬戸内を地図のなかで観察していたら、笠岡があった。コーヒーを飲み終える頃、僕は思いついた。笠岡から四国のまで、島づたいに瀬戸内を渡ることが出来るようだから、ぜひそうしよう、というアイディアだ。

 僕は港へ行ってみた。間もなくフェリーが出航する、と乗り場の人は言った。だから僕は、とここでも書くが、間もなく出航したフェリーの乗客となった。笠岡からしらいしじまへ渡るフェリーだった。季節は夏だ。夏のあいだだけ就航していたフェリーだったか。

 着替えを数枚に簡単な洗面道具、それにボールペンと手帳に地図が、上部がくるっと半円形になった小型のバックパックひとつに入っているという、身軽な旅の途中だった。白石島には一泊した。次の日の遅いフェリーで笠岡へ戻った。その島を僕はたいそう気にいった。次の年の夏にも僕はその島を訪れ、何日か泊まった。あまりにもいい島だから、小説の舞台に使ったほどだ。

 白石島の手前に高島という島があり、フェリーの航路が地図にはある。白石島の次がきたしまだ。なべしまなぎしまたかじまと、島づたいにフェリーの航路があり、終点は多度津港だ。真鍋島からしまという島へもフェリーの航路がある。ごく簡単な地図をいまの僕は見ている。笠岡から四国への島づたいのフェリーは、これだけではないかもしれないし、季節だけの就航もあることだろう。

 四国の今治から尾道までは橋がある。途中の島々には一度も降りることなく、ほとんどいっきに瀬戸内を渡ることが、いまは可能だ。これをいっぽうの究極だとすると、フェリーを乗り継いで島づたいに四国へ渡るのは、あるいはその逆の経路は、明らかにもういっぽうの究極だ。あの橋は渡ったことがある。しかし、たとえば笠岡からの島づたいのフェリーは、白石島までしか体験していない。

「島づたいにフェリーを乗り継いでみたい」

 とつい先日、京都の喫茶店で友人に語った。

「それがまた小説になるのかい」

 と友人は笑った。

「小説よりも先に、道だよ。島ごとに道は完結している。そのような道を、島ごとに、たどっては歩いてみたい」

「体験としては、かなり希有なものになるね」

「橋が出来ないうちに」

 僕の言葉に友人は笑い、

「島か」

 と言った。そのひと言は、

「島を舞台にした小説か」

 となり、さらに次のようになった。

「島を舞台にした短編小説のアンソロジーは、あるなら読みたいね」

 小さなひとつの島を短編小説の舞台にするのは、たいそう難しい。難しいからこそという考えかたは僕にはないけれど、小さな島を舞台にした短編小説は、いくつも書きたい。

「もはやけっして若くはない男女がフェリーで島へ渡って来る。旅館の部屋に落ち着くふたりの仲は、なぜかやや険悪なのだが、ふたりとも抑えた気持ちでいる。夕食の時間になる。島で一軒だけの寿司の店へいく。そこの寿司が素晴らしい。女性のほうは寿司が大好きで、青い魚は特に好んでいる。その青魚がことのほか上出来で、彼女はすっかり機嫌を直す。仲が良くなってからのふたりの様子を丁寧に書いたなら、それは島の短編として傑作になりそうな気がする」

 と僕は言った。その場でとっさに思いついたことだ。

「雨の日がいいね。雨降りの午後、フェリー乗り場からふたりは島へ渡るフェリーに乗る。女性のほうが、なんだかんだと難癖をつける様子など、雨とからめてうまく書け」

 と、友人は早くもその気になっていた。

「美人がいいね。単なる美人ではなく、あらゆる意味で魅力的な女性だ」

「賛成だ」

 と友人は言い、その友人の言葉につられた僕は、

「機嫌が直りきったところで、彼女の美しさや魅力が、最大限になるといい」

 と言ってしまった。

「ほんとに、そのとおりだよ。魅力的な女性と小さな島。それは、小説だね」

 友人は満悦だった。

あの頃の帰り道

 世田谷の代田一丁目、そして二丁目に僕は二十五年にわたって住んだ。半径五百メートルほどの範囲のなかで何度か引っ越しをしたが、住んでいる場所は、少なくとも自分にとっては、おなじ代田だった。代田の何丁目ですかと訊かれたら、一丁目あるいは二丁目だ。

 最寄りの駅は小田急線の世田谷代田駅だった。この駅にもっとも近い場所に住んでいた頃は、足早に歩いて駅まで三分、と僕は言っていた。もっとも遠く離れた期間でも、駅まで十分だった。自宅からどこかへ外出するときには、世田谷代田駅まで歩き、そこから小田急線に乗った。必要があれば下北沢駅で京王井の頭線に乗り換えた。

 自宅から外出するときの往き道はこのひとつにきまっていた、と言っていい。出かける、駅まで歩く、その駅から電車に乗る、という経路が頭のなかで、そして行動のなかで、固定されていたのだろう。世田谷代田駅のひとつ西である梅ヶ丘駅まで歩いても十分はかからなかったはずだが、この経路が往き道になることは、二十五年間で一度もなかった。

 帰り道には何とおりかあった。小田急線に新宿から乗ると、降りる駅は下北沢あるいは世田谷代田だった。何とおりかの帰り道とは、このふたつの駅から自宅まで歩く経路がいくつかあった、という意味だ。中学、高校、大学、そしてフリーランスの日々の二十五年だ。中学と高校では日常の行動にやや拘束があったと記憶しているが、大学生になると日常は気ままであり、フリーランスの日々では仕事を優先するかぎり、その仕事のあとの時間は、さらにいちだんと気ままだった。帰り道と気ままさは結びついている。帰り道に何とおりかあった事実は、一日の最後の部分で気ままさの仕上げをしていた事実と、見事に重なっている。

 自宅へ帰るときにだけ歩いた道は、もっとも気ままな気持ちで歩く道だったのではないか、といまになって思う。渋谷から井の頭線で下北沢駅まで帰ってきたときには、ほぼかならずこの道を歩いた。新宿から小田急線で帰ってくるときも、下北沢で降りてこの道を歩くことがしばしばあった。井の頭線の下りのプラットフォームのいちばん西に階段がある。これを降りて下りの線路を地下でくぐり、改札を抜けて階段を地上に出ると、そこがこの帰り道の起点だった。小田急線で帰ってきたときには、下北沢駅のなかを歩いて井の頭線のプラットフォームまで出れば、あとはおなじだった。

 井の頭線の西の端を踏切で渡ってくるこの道は鎌倉通りと呼ばれている。井の頭線の地下からこの通りへ出てきて、左へ向かう。僕がしばしば歩いた頃は、踏切を越えるとすぐに、静かな住宅地だった。道はしばらく直線で平坦に続き、やがて下り坂となった。まっすぐに長く続く下り坂だ。下り坂を下りきる頃、小田急線の線路へと斜めに接近していくのだ、ということがわかった。長い下り坂だから、下りきったところはかなり低く、用水路が流れていたはずだが、二〇〇七年の地図ではこの用水路はすでに消えている。

 下り坂をその下まで下りきったところから、線路のある土手に沿って、道は上り坂となった。線路の土手とおなじ高さまで道が上ると、その道は線路に向けて左へと曲がり、踏切となった。遮断器と警報のある小さな踏切だ。この踏切を越えると、下北沢南口商店街の南のはずれから上がっている細い坂道と合流したあと、高台の住宅地の中を、鎌倉通りはしばらく平坦に続いた。いま地図で見ると、この鎌倉通りは、代沢五丁目と代田二丁目との境界となっていることがわかる。

 平坦な鎌倉通りはやがて下り坂となった。この下り坂も長く続く坂だった。下り坂が長く続くとは、それだけ低いところへ下りていくということであり、坂を下りきると用水路があった。いまは暗渠の緑道となり、北沢川緑道と呼ばれている。

 この川を渡る橋は鎌倉橋だ。橋を渡ってまっすぐいくと、鎌倉橋南という信号で、梅丘通りに出る。ここから自宅までの短い経路には、さきほど書いたとおり近くで何度か引っ越しをしているから、何とおりもあった。緑道になる前には川の両側は手すりもなにもない細い道で、ここを雨の夜に傘をさして自宅へ向かう時間は、気ままに過ごした一日の総仕上げとして、いまも記憶のなかに息づいている。

 帰り道に何度も歩いたこの経路を、外出するときの往き道として歩いたことが、一度もない。忘れているのではなく、現実になかったのだ。帰り道としてのみ、ひとり歩いた道だ。高台の住宅地に途中から入ると、右に曲がり左に曲がりを繰り返しながら、少しずつ自宅へと接近していくのだった。この感触も忘れがたい。梅丘通りのすぐ北側にある北沢川が緑道になり、整備された暗渠の道を初めて歩いたときの、いまの自分はかつての川の上を歩いているのだという感覚も、消えずにそのまま僕の中に残っている。

歌謡曲の聴こえる道

 長編小説の舞台として僕が想像のなかに作った街を紹介しよう。東京郊外の私鉄駅から歩いて七、八分のところにあり、飲み屋街が中心になっている。駅の南口を出るとその左脇に交番があり、そのさらに左は大きな踏切だ。踏切がないと街として引き締まらない。だからここに踏切がある。

 交番の前から道を渡ると、左右の角がどちらも大きなドラグ・ストアとなって東へとのびる道に入る。とたんにその道の両側は飲食店ばかりとなる。コンビニが一軒に全品三百円の女性服の店のほかはすべて飲食店だ。中華、スペイン・バル、焼き肉、鍋料理、ラーメン、牛丼、焼き鳥、水産業の直営による居酒屋、カレーライスの店、軒下に座席を広げたバー、クレープの店、たこ焼き、などが文字どおり軒をつらねている。

 この道をまっすぐ奥へいき、突き当たって左へいくと、すぐに右へ曲がる道がある。この角はピアノ・バーで、ハウス・ピアニストの弾く「ラプソディ・イン・ブルー」が、店の外に向けたスピーカーから聴こえていたりする。この道をまっすぐいって突き当たりを左に曲がる。角を曲がるたびに道の幅は狭くなる。狭くなっていくその度合いが、街の奥深くへ分け入っているような感覚となり、その感覚には期待が高まる。

 左に曲がってほんの少しだけいくと、奇跡のような飲み屋街がある。一辺が三十五メートルほどのブロックが三つ、ほぼ規則的にならんでいる。三つのブロックのあいだを抜けていく路地が二本ある。三ブロックが集合した一帯は、その四辺を狭い道が囲んでいる。この三ブロックが面している道や路地のすべてが、なんらかの飲み屋だ。ワン・ブロックの四辺すべてが何軒かの飲み屋で、それが三ブロックあるのだから、店がならんでいる辺の合計は十二となる。一辺の長さは三十五メートルほどだ。スラロームで歩くとS字ひとつに半分であり、逆方向を加えるとその倍だから、スラロームで歩ききったときの合計はS字が三つだ。距離になおすと何メートルになるか。

 まるで夢のようなこの飲み屋街は連日の賑わいだ。土曜日や日曜日でも人は多い。日曜日は男女の若いグループが多いそうだ。三ブロックのどの一辺を眺めても、映画のセットのようだ。しかしセットではなく、全体がまぎれもない現実だ。その現実のなかで、この飲み屋街は映画その他の撮影にしばしば使われる。

 三つのブロックをスラロームで歩ききると、昭和日本の飲み屋街を凝縮したような体験が出来る。あらゆる形態の飲み屋が揃っている。食べ物の店も多い。なんでも食べ、どんな酒でも、ここへ来れば飲むことが出来る。しかも雰囲気は昭和のまっ盛りそのままだから、この飲み屋街はこの郊外の町でもっとも広く知られている。

 ときどき僕はこの飲み屋街を想像のなかで歩く。つい先日も、三ブロックのスラローム歩きを始めたとたん、ある店から「銀座の恋の物語」の客たちによる合唱を全身で受けとめた。昭和三十六年、一九六一年のヒット・ソングだ。二〇一七年のいまから逆にたどって五十六年前の歌ではないか。最初の八小節がAマイナーとEセヴンで進行していく、呑気な歌だ。僕が全身で受けとめた酔客たちによる合唱は、その呑気さを極限に近いところまで凝縮したものだった。

 この夢の三ブロックを形成しているのは、一辺に平均して五軒の飲み屋であり、合計すると四十八軒だ。この四十八軒を、一軒ずつ、かなりのところまで具体的に、僕はメモのなかに作ろうとしている。何人もの登場人物たちがこの飲み屋街へあらわれては、それぞれの物語を進展させていくという設定だから、全体で四十八軒あるとして、少なくとも業態や店主の人柄などは、この僕がひとりで作らなくてはいけない。

 物語のなかに面白い設定はいくつも作ることが出来る。たとえば、主人公のひとりがある日の夜、この飲み屋街を歩いていたら、店から聴こえてくる歌謡曲が、すべて一九六一年のヒットだった、という設定はじつに愉快だ。「君恋し」「スーダラ節」「上を向いて歩こう」から始まって、「北上夜曲」「北帰行」「襟裳岬」「おひまなら来てね」「ソーラン渡り鳥」「ラストダンスは私に」このくらい続いても、小説のなかではまったく不自然ではない。むしろ雰囲気は高まる。

 四十八軒の飲み屋を想像のなかだけで作ることは出来ない。現実を参考にしないと、どうにもならないだろう。だから僕は、参考となる飲み屋を求めて、現実のなかを、何度も、あちこち、やがて歩くことになる。これは参考になる、と思える飲み屋に遭遇したなら、その全景を写真に撮ればいい。デジタル・カメラはその能力を発揮してくれるだろう。さて、まずどこを歩くか。想像の町に踏切を作らなくてはいけない。参考となる踏切をいくつか、写真に撮ることから、作業を始めよう。

砂糖キビ畑の曲がり角

 道に迷っている。僕はそう決定した。赤土の舗装されていない道の両側は砂糖キビの畑だった。砂糖キビは丈が高く、密集していた。舗装されていない道はけっして平坦ではなかった。あるところでは道の中央が盛り上がり、またあるところでは、道の中央に向けて、両側から下り傾斜になっていた。そのような道を僕は一九七〇年モデルのプリムス・ロードランナーのハードトップでひとり走っていた。車体の色は絶妙にくすんだオレンジ色だった。

 右へ曲がらなくてはいけない。しかし、その曲がり角が、いつまでたってもあらわれない。ということは、と僕は考えた。曲がるべき角をとっくにいき過ぎたのだ。砂糖キビ畑がいったん終わるところを右へ曲がるんだよ、とその人は電話で教えてくれた。その人とは、僕の父親の幼なじみの、いまは引退して暮らしている日系の男性だ。

 いまのように走り続けていると、曲がるべき角から遠のいていくばかりだ。どこがいけなかったのか。距離感を自ら狂わせたからだ。それがいけなかった。砂糖キビ畑のなかを東西にのびるこの道へ入るなら、表の道のかなり西の手前から入ってもいいはずだ、と僕は考えた。だから表の道から、一本だけ裏にあたるこの道へ、入った。入って来るときの、やや得意な気持ちを思い出し、僕は減速した。左へ曲がり、いったん表の道へ戻ろう。そしてその道を所定の場所まで走ってから、裏のこの道へ入り直そう。僕はそう考えた。

 左への曲がり角は、減速した僕を待っていたかのように、あらわれた。自動車は一台も走っていない、赤土の道と砂糖キビ畑のほかはなにもない、曲がり角だった。そのなにもない左への曲がり角を、僕は曲がった。ロードランナーの長いホイールベースに、僕は慣れつつあった。

 表の道へ出て、それをふたたび左へと曲がり、あとは直進すればそれでよかった。僕は腕時計を見た。約束した時間までにあと五分ほどだった。表の道とは言っても、町のかなり裏手を東西に抜けていく道だ。廃業したスーパーマーケットの隣に、いまも営業しているガス・ステーションがあった。この二軒のならびかたに、ごく淡く、見覚えがあった。見覚えがあるとは、一例としてこの二軒を起点とした距離感のことだ、と僕は自分に言った。

 郵便局の前を通り過ぎると、右手に広場のようなスペースが広がり、バニヤンの大きな樹が、何本もの枝を地面にもぐらせていた。そこを通り過ぎると今度は左手に、子供たちのためのサッカー・フィールドがあった。緑色に塗られた金網の、高さの充分にあるフェンスで囲まれていた。ここで子供たちがサッカーをしている様子を見たことがない、いつ見てもここは無人だ、と思いながら僕は交差点を左へ曲がった。しばらくそのまま直進したあと、裏道へ入るためにもう一度、僕は左へ曲がった。

 このまま直進すればそれでいい、と僕は思った。あの人の自宅へいくには、いつも僕はこのとおりの走りかたをしてきたではないか。順番となるいくつもの目印を、その順番どおりに通過していくと、位置の感覚と距離感が体の内部の記憶に蘇る。その記憶のとおりにプリムスを走らせるなら、けっして道に迷ったりはしないはずだ。

 そろそろだ、と思った次の瞬間、右側に続いていた砂糖キビの畑がいったん途切れ、右への曲がり角が見えた。と同時に、もうひとつ、記憶が蘇った。自動車でこの道を走るにあたっては、右側の砂糖キビ畑がいったん終わる箇所だけに気を取られてはいけない。左側も重要だ。そしてその左側とは、いまのこの文脈では、運転席の自分と、左前輪の位置とを結ぶ直線の上に、あの砂糖キビ工場の煙突がラインアップされなくてはいけない、ということだ。昔の自動車ではタイヤの位置が微妙に異なるが、それは修正が効く範囲内だ。ラインアップされるとすぐに、右への曲がり角がある。位置の感覚と距離感の記憶とは、こういうことなのだと自分に確認しながら、僕は右への曲がり角を曲がった。さきほど道に迷ったときには、表の道からこの道へ入って来たときすでに、右への曲がり角を通り過ぎた地点であったことを、僕は知った。

 赤土の未舗装の道はかすかに上り傾斜となった。砂糖キビ畑はこの傾斜よりも下にあった。だから道の両側は、いまでは見通しが良かった。道の左側に木製の塀があらわれた。以前にこの道を走ったときには、この塀は出来たばかりで、白く塗装されていた。いまではその塗装は完全に落ち、塀は妙に傾いていた。その塀の前を通り過ぎると、僕の父親の幼なじみの自宅の敷地だった。道からその敷地へ入ると、そこが自動車を停めておく場所だった。だから僕はそこにプリムスを停めた。

 木造平屋建ての自宅への玄関ポーチへと上がる階段が、左側に見えた。自動車を停めておくためのこのスペースが、僕の記憶の底から浮かび上がってきた。家の周囲にある庭の一部分だ。自動車でこの島を走るときの、すべての距離感の起点が、ここなのだ。

『JAF Mate』2017年5月号〜12月号


2017年 JAF Mate うどん おひまなら来てね アウディ イタリアン オートバイ コンビニ シャツ ジャフメイト スカート スペイン・バル スーダラ節 ソーラン渡り鳥 チョイス ノートブック バニヤン バー ビール ピアニスト ピアノ フェリー フリーランス ボールペン メモ ラストダンスは私に ラプソディ・イン・ブルー ラーメン ロードランナー 三次 上を向いて歩こう 下北沢 世田谷 世田谷代田駅 中国自動車道 中華 井の頭線 京橋 代田 会社 佐柳島 八丁堀 六島 写真 北上夜曲 北帰行 北木島 北沢川緑道 十字路 台風 君恋し 君津 商事会社 喫茶店 四国 国道 地下鉄 地図 夏休み 外国為替 多度津 大学四年生 大学生 女性 富津 寿司 小田急線 尾道 岡山県 広島 広島自動車道 房総半島 手帳 揚げ物 旅館 昭和通り 木更津 梅ヶ丘駅 梅丘通り 梅雨 歌謡曲 気象ニュース 淡路島 瀬戸内 灯台 焼き肉 焼き鳥 父親 牛丼 玉葱 珈琲 白石島 真鍋島 砂糖キビ 笠岡 絵葉書 自動車 袖ケ浦 襟裳岬 豆腐 路地 退社 都心環状線 金網 銀座 銀座線 鍋料理 鎌倉橋 鎌倉通り 長編小説 雨の夜 飲み屋街 館山 首都高速 高島 高見島 高速道路 魚のすり身 TV
2020年4月21日 07:00
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