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コニカC35

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 コニカC35が発売されたのは、昭和四十三年だという。その頃の僕は、どうやら大人になっていた。しかし、昭和四十三年とだけ言われても、思い出す時代のディテールも実感もほとんどない。西暦になおして一九六八年とすると、自分の年齢との照合を経由してようやく、なるほど、あの頃かという、とおりいっぺんの納得をする。今回の僕の顔写真は、ちょうどその頃に撮影されたものだ。僕がこんなだった頃に、コニカC35は世に出たのだ。

おそらく29歳、ラハイナの家の前で。生意気そうとかチンピラであるとかよりも、この頃の僕にきわめて顕著だった軽率さが、当人としてはいまでもきまり悪い。

コニカC35は一眼式連動距離計やテッサータイプのヘキサノンレンズなど、35㎜フルサイズの機能と性能を持った本格的コンパクトカメラ。ボディーからのレンズの突き出し量を少なくしたり、上部と底部にアルミ合金を採用して、ハーフサイズカメラ並みの小型、軽量化を図った。発売当時の価格は初代が1万4700円、フラッシュマチック(右)が2万3500円、E&L(左)が1万9000円だった。

 この写真のなかには、C35が二台ある。右のは昭和四十六年に出たフラッシュマティックという機種で、これは二代めにあたる。左のは二重像合致式の合焦システムを省略し、目測とした機種でE&Lという。この機種は三百三十グラムという軽さだった。四十八年には1・8の38ミリ・レンズがつき、任意に選ぶシャッター速度に対して絞りが自動的に選択される方式の、FDという機種が出た。さらにその後、ストロボ内蔵やオート・フォーカス機種の時代まで、C35のヴァリエーションは続いた。

 僕はフラッシュマティックを使ってみた。おそらくたくさん売れたのだろう、中古写真機店でこの機種をしばしば見かける。よくまとまった可愛らしい造形と雰囲気だから、露出計とその針が健在だと、そしてボディがきれいだと、つい買ってしまう。38ミリで2・8というレンズだ。大衆向けの写真機のほとんどが、このレンズを採用していた時代があった。AEのシャッターと絞りは二枚の羽根で兼用されているという機構を、C35で勉強することが出来る。

 ファインダーのなかのフレームの右側に、絞りの数字とシャッター速度の数字が、縦に表示されてならんでいる。絞りは2・8から14まで、そしてシャッター速度は三十分の一から六百五十分の一までだ。シャッターを半押しにすると、どのくらいの絞りとシャッターで撮影されるかを、針が教えてくれる。たとえば絞り4と百二十五分の一秒とが、水平にならんでいる。百二十五分の一秒でシャッターが切れるときには、絞りは自動的に4が選択されている、ということなのだろう。おなじように、絞りが14まで絞り込まれる明るさのときには、シャッター速度は六百五十分の一秒になる、ということだ。

 昭和四十六年から少なくとも数年間にわたって、日本の大衆の相当な多数が、コニカC35フラッシュマティックを使って、いったいなにを写真に撮ったのか。初代C35のニックネームは、ジャーニー・コニカだったという。ジャーニーとは旅という意味だ。トリップとともにジャーニーも、片仮名としてほとんど定着しなかった。比較するとトラヴェルは、少しだけ日本語として定着している。

 旅行に持っていく小さくて便利なよく写る写真機。昭和四十七年は、新幹線が新大阪から岡山まで延びた年だ。海外旅行が自由化されてまだ何年もたっていず、大衆にとって写真機を持った旅行は、まだ圧倒的に国内だった。たとえば大阪で開催された万博は、ジャーニー・コニカにとって、もっとも輝かしい活躍の場だった。場所は国内であっても、日本の大衆にとって旅行の機会は、急激に増えていった。昭和四十三年からイザナギ景気が始まったという。3Cの時代のスタートでもあった。三つのCとは、カー、カラーテレビ、クーラーだ。

 コニカC35フラッシュマティックを手に持って観察しながら、写真機でたどる戦後日本の大衆について、僕は思う。それ以前の時代とその後の時代との、ちょうど分岐点に存在したのが、この小さな写真機だった。この写真機一台をとっかかりにして、過去に向けて観察の視点をのばし、こちら側の現在に向けても洞察を試みることは、充分すぎるほどに可能だ。

 露出を自動化した簡便な写真機が、完全に大衆のものとなった。露出の自動化は、電子技術のことだ。面倒な操作をいっさい必要としない、よく写る小さな写真機が欲しいという大衆の欲望に、写真機業界や電気メーカー業界は、日に夜をついで努力し、応えていった。こんなことをしたのは日本だけだ。戦後のごく早い時期から、写真機は外国へ輸出する製品の中心となって、日本経済に貢献した。国内で大衆の欲求に応え続ける営為は、写真機なら日本という位置を世界で作り出した。このような営みぜんたいは、いまでも継続されている。

 発売されてから二十六年後、中古で手に入れたフラッシュマティックで、いったいなにを撮ればいいのか、と僕は思案する。どう使えばいいのか。ファインダーのなかで二重像を合致させ、あとはシャッターを押すだけなのだから、どう使うもこう使うもないだろう、という考えかたは乱暴にすぎると僕は思う。日本について考えるための材料のひとつとする以外に、使い道はないのではないか。

 駅を出たら目の前にある光景を二点、僕は撮ってみた。この二点を観察して、日本について僕は考える。ごちゃごちゃした光景だ。しかし、もはや人々は慣れっこで、誰もなんとも思わない。ごちゃごちゃした様子を構成するものすべてが、ひとつひとつ、徹底して内輪の論理で支えられている。駅前にひしめき合う内輪の論理は、公共性をほとんど征服している。サポートタイツの広告は、そのようなごちゃごちゃの内部に踏み込んで見つけたディテールの、ほんの一例だ。

出典:『ラピタ』1998年7月号
カメラ解説:円谷 円


その写真機を、ください カタオカ・カメラ商会の棚の前で カメラ コニカ 旅行
2018年12月3日 00:00