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ヤシカ・エレクトロ35MC

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 ヤシカ・エレクトロ35というシリーズのなかの、このMCという機種を、僕は一年前に初めて見た。中古写真機店のガラス・ケースのなかにあり、値段は四千円だった。シャッター羽根のあいだに油がにじみ出てくっつき、シャッターは作動しない状態だった。しかしそれ以外に不具合はないと判断し、僕はMCを買った。関東カメラ・サービスで修理してもらうと、新品同然となった。

電子シャッターによる長時間露光が可能で、ロウソク1本の光でも美しいカラー写真が撮れることがうたい文句だった「ヤシカ・エレクトロ35」が登場したのは1966(昭和41)年。以来、さまざまな特徴を持つシリーズ機が作られた。「エレクトロ35MC」はレンズが4群4枚の40㎜F2・8で初代の45㎜F1・7に比べやや暗かったが、ボディーがハーフサイズ並みに小型化されたことで人気があった。

 一九七二年七月に、二万一千三百円で発売された写真機だ。撮影者は絞りだけを操作する。受光窓からCDSが計測した光の値を基に、絞りに応じた適正露出をIC回路が導き出す、という自動露出だ。電子シャッターは四秒から五百分の一秒までだ。

 焦点は目測で合わせる。ファインダーのブライト・フレームの右側の外に、ゾーン・フォーカス三点の記号絵が、縦にならんでいる。下からバスト・ショット、全身、そして遠景ないしは無限大の、山の頂だ。さらにその右から赤く細い指示棒が水平に出ていて、胴鏡の先端の距離リングの操作と連動して、その棒も動く。いまどのあたりに焦点が合っているのか、ファインダーごしに被写体を見たまま、およその見当をつけることが出来る。

 ボディのサイズは、カセット・テープのケースをふたつ重ねたのと、ほぼおなじだ。レンズの出っぱりを加えるなら、カセット・ケースをもうひとつ。重さは三百八十グラムだから、特に軽いわけではないが、重いとも言えない。もう少し軽くてもいいかな、と僕は思う。持った感触は悪くない。出来ばえとしてのぜんたいの雰囲気は、まさに中加減のものだ。レンズは2・8の40ミリ。小さな写真機の好きな僕だが、スナップ用としか言いようがない。

 一九七二年というと、いまから二十六年前だ。その数字をそのまま使って、二十六年前とつながる小さな物語をひとつ、いますぐにでも僕は作ることが出来る。二十六年前、当時二十六歳だった女性が、地方から東京へ旅行に来た友人を案内する。せっかくだから写真を撮りたい。とおりがかりの写真機店に入り、彼女はこのMCを買う。

 次の日も彼女は友人たちとつきあう。しかし午後には終わり、終わったあと彼女は僕と会ってくれる。昨日からの東京案内について彼女は語り、写真機を取り出して僕に見せる。フィルムが三枚、残っている。きみを撮ろうと言って、僕は彼女を撮る。バスト・ショット、全身、そして十メートル離れて遠景の彼女を。

 その三枚の写真を、二十六年後のいま、彼女は僕に見せてくれる。写真機も彼女は持って来ている。もう忘れたでしょう、などと彼女は言う。また使おうと思ったのだけど、故障してるみたいなのよ、と彼女は言う。僕が点検する。にじみ出た油で、シャッター羽根がくっついて動かない。

 現実に僕が撮った三枚の写真は、東京の光景だ。ずっと昔でもなければ、どこか遠い場所でもない。東京あるいはその近辺に住んでいる人にとっては、いまの自分の場所であるここの光景だ。一枚は相模原あたり、一枚は中野、そしてもう一枚は、いま僕が住んでいる家から、直線で五百メートルない地点だ。

 レンジ・ファインダー式の写真機だと、一眼レフとは大きく違って、切り取って採集する、というような指向が軽減される。それでもなお、撮った写真は、二対三の比率の長方形のなかに収まっている。そしてそれは平らな二次元だ。現実という三次元の立体空間は、まっ平らな二次元となり、精密縮小されて範囲が限定されている。

 現実のなかに身を置いているときにはなかなか出来にくいことが、写真を前にするとたやすく可能になる。さほど大きくないサイズの二次元に還元された光景を、その隅々まで、つくづくと観察することが出来る。観察の視線は二次元の上をあちこち移動するだけでいい。

 つくづく観察すると、まざまざとわかる。いまの自分の場所とは、このような光景なのだ、ということがわかる。

 そのような光景が好きだとか嫌いだとか、あるいは良いとか良くないといった話ではない。現実にこうなのだから、こうでしかなく、それはそれで受けとめるほかない。そして現実を受けとめ、嫌々ながらでも承知することと、その現実を被写体にした写真を詳細に観察することとは、まったく別のことだ。

 現実のなかでは漂うように流れていた視線は、写真の上ではあちこちに止まる。止まっては観察し、視線は少しだけ移動して、次の観察対象を見つける。見れば見るほど、それはつくづくであり、まざまざなのだ。このように見る行為を、日常のなかで人は頻繁におこなっているようでいて、じつはほとんどしていない。写真を見るときだけに体験すると言っていい、独特な見かただ。

 しかもここにある三点の写真の場合は、そこに写っているのはごく平凡な日常の現実だ。その日常の光景が写真に還元されたとき、観察者の視線をとらえてまざまざとわからせてしまうものとは、いったいなになのか。

 

四十代後半の、東京で仕事ばかりしていた頃の僕の、典型的な顔と姿。楕円形の枠を重ね、すでに出来始めていた二重顎の線で焦点を合わせ、直射光のなかで接写した。

出典:『ラピタ』1998年4月号
カメラ解説:円谷 円


その写真機を、ください カタオカ・カメラ商会の棚の前で カメラ ヤシカ 東京
2018年11月28日 00:00