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小さく三角形に折りたたんだ星条旗

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この作品は、『日本語の外へ』「第1部 アメリカ──遠近法のなかへ」
に収録されたものです。

 ハンティントン・ビーチから海に向けて突き出ている桟橋の途中にある食堂で、僕は彼とふたりで遅い昼食を食べていた。彼は僕より年上の白人の男性で、広い意味でジャーナリストとして活動していた。カウンターの海側の席にいた僕の前にまっすぐに腕をのばした彼は、桟橋の突端の向こうに広がる海を示した。

「僕たちが食べ終わるまでのあいだに、あそこでさらに何人ものアメリカの兵士たちが、虐殺行為の加担者として無意味に死んでいくんだ」と彼は言った。あそことは、ヴェトナムのことだ。そしてそこでそのときはまだおこなわれていたヴェトナム戦争は、彼によれば、アメリカのパラノイア的な思い込みによる一方的な虐殺行為以外のなにものでもなく、ヴェトナムとアメリカの双方が受ける打撃をそのとき以上にはしないために、ジャーナリストとしてありとあらゆる活動を必死でしていた。

 彼にとってのいわゆる専門分野は電子工学だった。その広い領域のなかでもっとも専門にしていたのは、コンピューターだ。アメリカによる北爆は、メインフレームが作りだした作戦にもとづく爆撃だった。コンピューターのそのような使われかたに対する、生理的な嫌悪感とも言うべき反対の論理を、僕は彼からしばしば聞いた。反対の論理、ないしは論理的な反対だ。当時のアメリカの、主として若い世代による体制批判の活動全般が、カウンター・カルチャーと呼ばれていた。カウンターとは、彼のような発想による対抗を意味している。

 メインフレームを駆使して、国家のなかの軍部という巨大組織が、爆撃なら爆撃のための情報を集中的に管理し、そこから爆撃の作戦を導き出したりすることへの、論理的で生理的な嫌悪と対抗の意志は、カウンター・カルチャーのなかのもっとも前衛的な部分だった。

 ヴェトナム戦争に関しては、僕は小さくない興味を抱いていた。アメリカに関心があるなら、アメリカがおこなう戦争にも関心があって当然だった。建国以来、アメリカは戦争ばかりしてきた。日本を相手の太平洋での戦争のときには、僕は乳児だった。朝鮮戦争のときにはまだ子供だったが、米軍というものの背後にある途方もない物量と攻撃力は、目のあたりに見た。

 十八歳のときに徴兵登録をしてあった僕は、ヴェトナム戦争が盛んだった頃、すでに二十代の後半という年齢だった。ほかにどんな理由があったのか僕は知らないが、僕のところに出頭命令は来なかった。その僕にとって、ヴェトナム戦争への関心を作った最初のきっかけは、ヴェトナムのメコン・デルタに広がるあのジャングルと、その上空を低く飛ぶ米軍の攻撃用のヘリコプターという、悪夢的な構図の無数と言っていい数の報道写真だった。

 ジャングルは、まったくアメリカ的ではないもの、アメリカが意のままにすることはまず不可能な世界の象徴として、僕の目に映じた。攻撃ヘリコプターは、そもそも建国のときから戦争であり、それ以後戦争ばかりしてきたアメリカそのものの、象徴だ。そのふたつの取り合わせを何度も写真のなかに見た僕は、これはやばいのではないか、と最終的には思うようになった。やばいとは、少なくともこの戦争にはアメリカは勝てない、ということだ。ほどなくアメリカはヴェトナムから自国の軍隊を引き揚げた。

 僕はアメリカで軍隊の攻撃用ヘリコプターについて取材してみた。当時のアメリカでは、ヴェトナム戦争に関しての取材には、まったく制限がなかった。地獄絵図、という古い言いかたがあるが、取材に制限がないおかげで、まさに地獄絵図としか言いようのない写真やフィルムが、ヴェトナム戦争をめぐって大量に一般に出まわっていた。僕のように取材の真似ごとをする人ですら、ほんとに自由に、なんでも取材することが出来た。

 TVで毎日のニュースとして放映される戦況は、すさまじいものだった。ヴェトナムの現地ではどこが最前線なのか判然としないのだが、たとえば数人の戦闘グループがジャングルのなかで敵と遭遇して射ち合う様子のすべてが、夕方のTVニュースで家庭の居間に届いた。当時はまだ撮影はフィルムだった。文字どおり決死で撮影されたムーヴィー・フィルムはサイゴンで現像され、アメリカへ空輸されていた。衛星を経由して日本からも送られていた、という話を僕は聞いたことがある。

 ジャングルのなかを数人の米軍兵士が歩いていく。突然、銃撃の音がする。兵士たちは地面に伏せる。先頭を歩いていた兵士は頭に被弾し、頭が吹き飛び、首から上のない死体となって、どっさりと草のなかへ倒れ込む。すぐうしろにいたカメラマンは、全身に血しぶきを浴びる。肩にかついでいる撮影機のレンズに血がかかる。画面は妙な赤い色に曇る。カメラマンの指先が、レンズの上でその血を拭う。拭いながら彼も地面に伏せる。横倒しになった撮影機は、先ほどの首なしの兵士の、まさに首のない様子を、偶然にもとらえ続ける。このようなフィルムが検閲なしで、夕方のニュースの項目のひとつとして、毎日かならず放映されていた。居間のTVでこれを見ていると、その居間もやがて悪夢のまっただなかとなった。

 とはいえ、そこはヴェトナムのジャングルなどではない、太平洋をへだてたカリフォルニアならカリフォルニアの、平和な民家の居間だ。明かりを消して部屋をほの暗くし、カラーTVのスクリーンのニュースを見ては、好き勝手なことを市民たちはおたがいに言い合った。彼らは、戦争報道をTVで見ているだけの、ごく平凡な一般市民なのだと僕は思っていた。

 しかし、やがて僕は、彼らはただ単なる傍観者ではない、と思いなおすようになった。彼らは彼らの方法で、この戦争に参加している、と僕は思い始めた。TVを見てああだこうだと言っているだけなら、その行動にも発言の内容にも、責任はいっさいともなわない。だが、彼らの好き勝手な発言は、次第にひとつの方向に向けて、大きく傾いていくようになった。ヴェトナムでアメリカが遂行している戦争に対する、否定や嫌悪の感情に向けて傾き始めた。

 それらの感情を、居間のなかだけではなく、社会的な文脈で、彼らは表明していった。ヴェトナムでおこなわれている戦争に対する、じつにニュアンスの豊富な嫌悪や否定、そして批判の論理や感情は、ヴェトナム戦争に対抗する力として大きくひとつにくくると、ヴェトナム戦争反対、ということになった。

 この意味で、居間のTVの視聴者たちは、強く批判的に、激しく複雑な感情に支えられて、ヴェトナム戦争に参加したと言っていい。悲惨な戦争には反対だという、古典的な図式を越えたところでの、戦争への対抗だった。ヴェトナム戦争のこちら側には、その戦争の遂行者であるアメリカがあった。その文脈でのアメリカはアメリカ政府であり、政府とは自分たちの直接の延長であるはずだ、とアメリカ市民は思った。自分たちの延長ではないアメリカ政府というものをそこに見た市民たちは、それに対するニュアンス豊かな嫌悪や反対、批判、攻撃、対抗などの論理と感情を、大きくふくらませた。そのことは、以後のヴェトナム・シンドロームへとつながった。ヴェトナム・シンドロームは、それ以後の政府への、強い不信や不支持の感情への、橋渡し役として機能した。

 今週のヴェトナムで戦死したアメリカの兵士たち、という特集を雑誌の『ライフ』が掲載した。一週間のうちに戦死した兵士たち全員を、顔写真つきで誌面いっぱいに何ページにもわたってならべ、記事を添えたものだ。反戦への高まりを決定的にしたもののひとつであり、『ライフ』のこの号をいまも僕は持っている。太平洋を越えて帰って来る戦死した兵士たちを取材することを僕が思いついたのは、この特集を見たときだ。

 戦死兵たちの遺体は、アルミ合金のケースに収納され、スター・リフターという素晴らしくロマンティックな愛称を持った輸送機の胴体いっぱいにかかえ込まれ、戻って来る。ケースは棺という最終的なものではなく、あくまでも運搬するための収納ケースだ。長さがずいぶんあるので、なにも知らずにそれを見ると、戦死兵を収めるものとは思えないかもしれない。

 モーティシャンのもとできれいに整えられた遺体は、さまざまなかたちの葬儀を経由し、しかるべき墓地に埋葬される。最終的に棺を覆っていた星条旗は、小さく三角形に折りたたまれ、たとえば故郷の町にいる母親のもとに、届けられる。軍服を着た若い真面目そうな彼は、もはやけっして動くことはない一枚の写真として、額縁に収まって実家の居間の飾り棚の上だ。

 こういうことの取材のひとつとして、大きな町の墓地のなかを歩いてみると、ヴェトナムで死んだ兵士の墓はすぐにわかる。墓石に刻まれた生年と死亡した年とのあいだを埋める期間が、十八年、十九年、二十年と、どれもみなたいそう短いから、そのような光景に、僕の頭のなかでは、ジミ・ヘンドリクスの『星条旗よ永遠なれ』が、じつによく調和していた。

 米軍がヴェトナムで使用していた武器についても、僕は多くのことを知った。たとえば飛行機で上空から落とす爆弾には何種類もあり、そのどれもが悪夢の一部分としか言いようがなく、どのひとつも悪夢にふさわしく強烈に個性的だった。そのひとつに次のようなのがあった。

 ソフト・ボールほどの大きさのその爆弾を、あらかじめ探索して見当をつけておいた区域に、低空からばらまく。ジャングルのなかではなく、人が歩く可能性の高い平地であることが多い。平地とはいっても、熱帯の草が膝を楽に越えて強靭に生い茂っている。作戦行動中の敵の兵士たちが、そこをとおりかかる。まいてある爆弾は草に隠されて見えない。歩いていく兵士の足が、その爆弾を踏む。あ、なにか危険なものを踏んだ、と思って反射的に足をはずすと、その爆弾は彼の腹の高さあたりまで、突然に跳ね上がる。

 跳ね上がった頂点で、それは爆発する。ほどよい大きさの鋭い破片となって爆弾のすべてが強力に周囲ぜんたいへ飛び散るよう、それは巧みに設計されている。歩いていた兵士たちに破片は当たり、ときとして命を奪い、非常に多くの場合、何人もの兵士たちに相当な傷を負わせる。

 殺すことが第一の目的ではなく、重傷を負わせることを目的とした爆弾だ。数人で作戦行動をとっているとき、そのなかの何人かが重傷を負うと、行動力も戦闘力も極端に落ちる。踏まれると起動装置が働き、踏んでいる足がはずれると、それは飛び上がる。爆発威力のさまたげとなる熱帯の強靭な草を避けると同時に、立っているときの人体のまんなかあたりで爆発させるためだ。破片が体のどこかに当たる率は格段に高くなる。こういう爆弾を、たとえばカリフォルニア大学が開発したりしていた。

 ヴェトナム戦争はアメリカが犯した大失敗だった。失敗は愚行と言い換えてもいい。そのさい、愚行にも大の字がつく。なおかつ、アメリカ国家は、自分たちはこの戦争に勝っているのだし、充分に勝てるのだ、と市民を欺いた。そしてアメリカ兵を大量に戦死させた。ヴェトナムの側から見るなら、アメリカ国家は大殺戮をおこなった。

 こうなったときの国家とはいったいなにか、という根源的な疑問をアメリカ市民たちは持った。国家とは、端的に言って、あいつらだ。あいつらとは、たとえばもっとも目につきやすかったひとりを挙げるなら、国防長官のロバート・マクナマラだ。マクナマラはもっとも自信に満ちた主戦派の筆頭だった。あいつらをひとり特定すると、そこから自分につながる経路を、誰もが頭のなかに描くことが出来た。あいつらとはつまり自分たちだ、という発見を市民たちはおこなった。

 自分たちとは、いったいなになのか。アメリカとはなにか。疑問は本質に向けて深まり続けるのに反して、その疑問に対する回答はどこにもなかった。回答はひとまずないという点において、いっさいがそこでいったん引っくり返った。根源的な疑問の底に落ちた市民たちは、どこから手をつけて立ちなおればいいのか、見当もつかなかった。対外戦争で初めて体験する負けをとおしてアメリカは大国としての自信を喪失した、などという言いかたにはなんの意味もない。心理の深層のもっともデリケートな部分で、アメリカは治療や回復が不可能であるかもしれない傷を負った。

 そのような敗北は、市民の誰にとっても、許しがたいことだった。絶対に認めたくない、たいへんに嫌なことだった。アメリカはきわめて硬質な理念の国だ。その理念が揺らぐことはないとしても、許しがたく認めがたい敗北を引き受けるにあたって、市民たちは精神のバランスをなんとかぎりぎりのところで保つためのひとつの便法として、ヴェトナムで戦った自国の兵士たちに、きわめて攻撃的に冷酷な態度で接するという方法を選んだりもした。

 アメリカがヴェトナムに対しておこなっていること、つまり壊滅的な殺戮という悪夢、そしてアメリカがアメリカ市民に対して、つまり自らに対しておこなったことという悪夢が重なってひとつになり、これがやがてTVニュースのヴェトナム報道を支える主たる底流となった。ヴェトナムに対してアメリカ国家がおこなっていることを、自分たちに対して国家がおこなっていることとして、アメリカの市民たちは受け取ることが出来るようになっていった。そしてそこから、反戦のための力が立ち上がってきた。ヴェトナムに対するアメリカの暴力が、屈折した経路をへて、国家がおこなう戦争に反対するアメリカ市民たちの力となった。ふたつの力はイークオルで結ばれていた。

 TVを初めとして、メディアは長いあいだ戦争を支持する側にいた。単なる戦争批判や反対ではなく、アメリカ国家が犯した巨大な失敗に対する批判として、市民のなかから反戦への力が隆起してくると、そのことについてもメディアは報道するようになった。これだけの批判が国のなかにあるよ、という報道が市民たちの批判力に重なった。最初から市民とメディアが反戦を訴え、ひとつにまとまりつつ力を拡大していったのではなかった。構造はもっと複雑だった。

 ヴェトナムに対してアメリカがしたことは、すべて失敗だった。世界史上空前のスケールによる殺戮が、じつは失敗や愚行だったのだから、その内容的な失敗や愚行のスケールはすさまじい。しかも長い期間にわたって自国の戦死者を大量に出しつつ、国家は市民を欺いた。事の起こりからひとまずの終結点まで、事態の経過や推移を簡単に追っていくのは、アメリカの試みたことがいかに馬鹿げていたかを知るための、いまも有効な方法のひとつだ。

 一九四五年にヴェトナム民主共和国が独立を宣言した。ヴェトナムを植民地として支配していたいと思ったフランスは、この独立に干渉した。それに抵抗するインドシナでの戦いが始まり、一九五四年まで続くことになった。共産主義国を最大の敵国としていたアメリカは、中国での共産党の勝利からドミノ理論というものを引き出した。ソ連と中国という巨大な中心からその周辺に向けて、次々に共産化が進んでいくというこの理論を、アメリカは本気で信じた。

 インドシナでの戦争の戦費の半分を引き受ける、という援助をアメリカはフランスに対しておこない始めた。フランスはヴェトナムから手を引き、戦争はアメリカのものとなった。一九五五年にアメリカはゴ・ディン・ディエムを傀儡(かいらい)にして、ヴェトナム共和国を成立させた。目的はヴェトナムの統一を阻止し、北と南とに分けておくことだった。日本は南のこのヴェトナム共和国とだけ戦後賠償の交渉をし、一九五九年に協定を結んだ。北に対してたいへんなマイナスをあたえる、というかたちで日本は機能することとなった。そのことをとおして、アメリカによるヴェトナムの分断政策に日本は加担した。

 一九六〇年、南ヴェトナム解放民族戦線が組織された。これはヴェトコンと呼ばれた。一九六一年にケネディがアメリカの大統領になった。アメリカはヴェトナムへの介入を深めていった。この年の末には、三千二百名の米軍がヴェトナムにいた。次の年には援助軍司令部が作られた。この頃のアメリカは宿敵のソ連に押されぎみだった。そのことへの批判に対抗する策のひとつとして、ケネディはヴェトナムに軍事力をさらに投入した。一九六二年にはヴェトナムの米軍の数は一万三千名となった。

 一九六三年にゴ・ディン・ディエム政権が倒れた。ケネディが暗殺された。六四年にはトンキン湾事件があった。米軍は敗北を続けていた。六五年には米軍による北爆がルーティーンとなった。ローリング・サンダー作戦だ。ダナンへ米軍は上陸し、アメリカは地上での戦闘部隊をヴェトナムに本格的に投入し始めた。戦争はもはや完全にアメリカのものとなっていた。そしてそれまでとは比較にならない拡大を、アメリカは試みた。北でも南でも爆撃は常におこなわれた。陸軍だけで八万七千名の米軍がこの頃のヴェトナムにいた。他もすべて合計すると、米軍の数は十五万近くになった。

 一九六八年には、米軍の数は四十万人近くにのぼった。戦死者の数も急激に増えていった。単なる殺戮としか言いようのない作戦が、米軍によって恒常的に展開された。ちょうどこの頃、上空を飛んだ飛行機から、僕はこの戦場を見た。肥沃(ひよく)な水田とジャングルは、本来なら強靭な緑を猛烈な密度で持っているはずなのに、窓から見下ろす地表はそのほとんどの部分が淡い褐色のむき出しの土地で、しかもその土地には丸い穴が無数に重なり合っていた。米軍による爆撃で投下された、爆弾の穴だ。かなり長いあいだ、見下ろす地表にはこのような光景だけが続いた。ヴェトナム戦争をとおして、上空からは八百万トンの爆弾が投下され、地上からもおなじく八百万トンの砲撃がなされた、という数字がある。

 一九六九年にニクソンが大統領になった。この年の四月、ヴェトナムでの米軍の戦死者は三万三千六百四十一名に達したという発表があった。六月に米軍は最初の撤退をおこなった。七月には、この戦争の展開に関する、アメリカにとっての悲観的な見通しを、グアム島で大統領は宣言した。米軍の配置と展開の縮小が始まっていった。七一年、七二年と撤退が続くなか、戦場はラオスやカンボディアに広がり、ホー・チ・ミン・ルートが爆撃の対象となった。七一年、ヴェトナム戦争に関してアメリカ市民が国家によっていかに騙されてきたかを明らかにする文書を、『ニューヨーク・タイムズ』が掲載した。北爆はなおも続き、七二年にニクソンは再選され、北爆は頂点に達した。米軍が最後の兵をヴェトナムから引き揚げたのは、七三年の三月だった。

 アメリカのなかのヴェトナム戦争を、僕がこのようにして感じていた期間はごく短い。長くなればなるほど、僕自身、ある種のシンドロームの深みに落ちていく予感が確実にあった。この期間は、アメリカの新しいロック音楽が、急速にその力やスケールを大きくしていった時期でもあった。アート・ロックやサイケデリック・ロックなどと呼ばれていた。

 ザ・ドアーズ。ビッグ・ブラザーとホールディング・カンパニー。そこで歌っていたジャニス・ジョプリン。クイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス。ジェファスン・エアプレーン。ザ・グレイトフル・デッド。いろんなグループや歌手を僕は見た。だからといってなにがどうということもないが、当時の僕の感じかたでは、こうした新しいロック音楽の発生は、ブリティッシュ・インヴェージョン(イギリスからの侵攻)に対抗してアメリカの草の根が底力を見せた、その動きだ。

 西海岸、特にサンフランシスコだけが拠点のように思われているとしたら、それは間違いだ。内陸にいくつもの強力な拠点があった。ザ・ビートルズにアメリカで初めて対抗し得たグループとしていまも語られているザ・チャーラタンズは、内陸で生まれた。アメリカの草の根が持っている創造力と実行力とは、イギリスからの侵攻をすぐに呑み込んだ巨大な力となった。

 ウッドストックは、そのことのごくわかりやすい目印だ。『ザ・ヴィレッジ・ヴォイス』のような新聞の片隅に、ギターと鳩をデザインした広告が小さく出ていた。はじめに開催地とした場所は自治体の反対で使えなくなり、ウッドストックという別な場所を見つけ、ポスターも作りなおされたというようなことを、いま僕は久しぶりに思い出している。このウッドストックを重要な契機のひとつにして、ロック音楽はその内部にハイエラルキーを構築し、外部からの資本参加も始まった。ロックはビジネスとして成功していくこととなった。

 そのことも含めて、さまざまなロック音楽のそれぞれが、声であったことは確かだ。声とは、音声による言葉、つまり言葉としてもっとも正しい姿による言語活動、というような意味だ。歌や音楽は、アメリカの歴史のなかでは、情報や考えかたを多くの人々に伝え広めるという、社会的な役割を持ってきた。英語は音声言語であり、ロック音楽の言語活動としての機能を見落としてはいけない。

 音声による言語活動という、英語にとっての正しいありかたは、余計な迂回路なしに、いっきに高度に抽象化されて本質に迫ることを、たやすく可能にする。かたちは音楽活動であっても、たとえばそのときそこでの歌手や演奏者たち、そしてステージと観客席というような、具体的な関係をあっさり離れ、じつは抽象の次元での言語活動がおこなわれていた。

 過去を振り返り、あの頃のロック、としてとらえられるロック音楽は、ひとまとめにされやすい。さらには、観客や購買者を厳しく想定した上での音楽活動、という具体的な姿で理解されることがほとんどだ。しかしロックは言語活動だった。そしてウッドストックをへてそのスケールが拡大されたときには、早くもその言語だけでは不足となった。時代の進展は、社会がかかえる問題のやっかいな複雑さを、加速度的に深めていくいっぽうだったから。

底本:『日本語の外へ』角川文庫 2003年


『日本語の外へ』 アメリカを知っているのか?
2018年8月24日 00:00
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