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町を囲んだ黄色いリボン

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この作品は、『日本語の外へ』「第1部 アメリカ──湾岸戦争を観察した」
に収録されたものです。

 八月の第一週、CBS『イーヴニング・ニュース』のアンカー、ダン・ラザーは、釣りにいっていた。つまり休暇を取っていた。八月六日のアンカーを務めたコニー・チャンは、ダンはヨルダンへいっていると言い、彼によるヨルダン国王フセインのインタヴューを紹介した。

 例のとおりアメリカ的に脚を組み、唇を両側へつり上げぎみに引っ張り、目を丸くして相手を見るというしぐさおよび表情で、ダン・ラザーはヨルダン国王と向き合っていた。

「これは敬意とともに申し上げるのですが、陛下はたいそうお疲れのご様子にお見受けします」

 とラザーは言った。

 彼が言うとおりの、疲労に心労の重なりきった様子をしていたヨルダン国王は、

「サダム大統領が取ったクエート侵攻という行為は、アラブ世界をばらばらにするものであり、アメリカの軍事力によるそこへの介入は、アラブ世界を最終的には崩壊へと導くものだ」

 という意味のことを答えた。正解ではあるけれど、表向きのあたりさわりのない言葉と表現を選ばなければならないこのような状況は、彼の心労をさらに深くしたのではないか。

 ヨルダン国王は、アラブにおけるアメリカの画策を、知り抜いていたはずだ。アメリカの支援に安心したクエートは、交渉を望むイラクに挑戦的な態度を取り続けた。ヨルダン国王フセインはあちこち飛びまわり、調停役を務めようと必死だった。しかしことは思いどおりに運ばず、アメリカへいってブッシュに会っても相手にされず、敵国のような扱いさえ受けた。そのような疲労と心労の蓄積を、国王は見せていた。ダン・ラザーはそのことを知っていたのだろうか。

 おなじ頃、国防長官のリチャード・チェイニーはサウディ・アラビアにいた。サウディへのアメリカ軍の出動を、サウディに認めさせるためだ。出動を認めさせたのち、その出動はサウディの要請にもとづくものである、とアメリカは言いたいと思っていた。そしてすべてをそのとおりにした。

 ダン・ラザーはかなり長く中東に滞在した。八月十四日には、横須賀を母港とするインディペンデンス号というアメリカの航空母艦から、彼はレポートを送っていた。このときのインディペンデンスは、彼の言葉によれば、「位置は明言出来かねるけれど、ホルムーズ海峡を出た海域のどこかにいる」ということだった。インディペンデンスは一九五〇年代に建造された、八万トンの空母だ。乗組員の数は五千人を越える。戦闘機を七十機はかかえ込むことが可能で、デッキには一千フィートの滑走路がある。都会のなかの建物になぞらえるなら、二十五階建てのビルディングに匹敵する大きさだ。ペルシア湾での戦略にとって、重要な中心となるひとつだった。

 このときのインディペンデンスは、すでに臨戦態勢だったのではないか。あるいは、臨戦態勢の一歩手前の状態だ。こういう状態にある八万トンの空母の船体深くもぐり込んで取材すると、戦争という異常事態が生み出す異様なまでに強力なエネルギーの集積と集中に、誰もがかならず圧倒される。空母の内部という、限定され閉ざされた場所では、集積と集中の密度は耐えがたいほどに強い。

 インディペンデンスのダウン・ビローで、ダン・ラザーも興奮ぎみだった。「百十度という高温のなかで一日じゅうたいへんな作業が連続しているここは、映画のなかの一場面ではない。トム・クルーズが演じたような役は、ここにはどこにもない」などと彼は言っていた。乗組員の年齢は、十八歳から二十二歳くらいまでが中心だ。その若いクルー・メンバーのひとりが、ラザーからアメリカへのメッセージを求められた。Hi, Mom. Dad.と言ったきり、あとは照れて言葉にならなかった。若くあどけない、頼りなさそうでおだやかな、そしてたいそう純な笑顔で、彼はヴィデオ・カメラのレンズを見ていた。「あなたの知っている人がこの空母に乗り組んでいるなら、どうか手紙を書いてあげてください」と、ラザーはレポートを結んだ。

 海上封鎖の様子。クエートにいるアメリカ人たちに向けて、勝手に国境を出ようとするな、と伝えているVOA。サウディからバグダッドまで、F–15で往復四時間の飛行となる、夜間訓練の様子。ジェット燃料の補給基地としてもっとも近いのはシンガポールであること。ヴァージニア州の基地からサウディまで、F–15一機の片道の飛行にかかる費用は、二十五万ドルであること。サウディに向かう軍艦が、非常緊急時の最高速度で航行すると、一隻につき五十万ドルも費用が増加すること。

 このような途方もない費用の総額を、いったい誰が支払うのか。平和の配当はすべて中東に消えるのではないか。アメリカの本土から十分おきにサウディに到着している、補給のための輸送機。アメリカの米作農業にとってクエートは最大の輸入国だったが、イラクの侵攻によって米が輸出不可能になったこと。典型的な戦車カントリーであるクエートやイラクの砂漠での戦争では、制空権を手にすることが絶対の条件であること。アメリカの偵察衛星はイラクのどのような動きも見逃しはしないはずであること。戦争は何か月も続くとして、米軍の死傷者を国民はどのように受けとめるか。

 というようなことが、おなじ日の三十分のニュース番組のなかに、ぎっちりと詰め込まれていた。アメリカの軍事偵察衛星の性能には、恐るべきものがある。僕になぞらえて言うなら、僕が自動車で外出すると、そのことは写真を分析するまでもなく、見ればすぐにわかる。二階のヴェランダで新聞を読めば、もしそれがスポーツ紙なら、少なくとも一面の見出しは、三百キロの上空から衛星のカメラは読み取ってしまう。クエート国境に集結したイラク軍がたいした兵力ではないことは、最初からわかっていた。サウディに攻め込むに足る兵力ではないことも、はっきりしていた。しかしアメリカは、サダムの率いる精鋭の大群がサウディに侵攻しようとしている、と言い続けた。戦争が始まってからは、通称をJスターという、ボーイング702を改造したレーダー機が、戦場の上空を飛んだ。上空からレーダー偵察した地上の様子は、地上のアメリカ軍に送られた。地上でのイラク軍の車輛の動きは、一台ずつくっきりと明瞭に、レーダー・スクリーンに映し出されて、筒抜けだった。

 八月のうちに四万七千名のナショナル・ガードが召集された。国家危機の状況下では、大統領はナショナル・ガードに召集をかけることが出来る。しかしそれも二万三千名までであり、それを越える数の場合は議会の承認が必要だ。ナショナル・ガードが四万七千名もコール・アップされるのは、たいへんなことだ。ナショナル・ガードは、陸軍と空軍の、志願による予備兵たちだ。それぞれの州、テリトリー、そしてワシントン特別区にナショナル・ガードのユニットがあり、総勢は五十万名ほどだ。パートタイム・ソルジャーと呼ばれている彼らには、年間に四十八回の演習と二週間のトレーニング・キャンプが、義務づけられている。そして給料が支払われる。本職での収入に加わる別途収入となる。戦争ごっこを中心にした、男たちの同志愛や愛国心の発露などの機会でもあり、平時のナショナル・ガードはなかなか快適だ。

 最前線の戦闘要員としては訓練不足だしソフトに過ぎるけれど、本業での専門知識と経験は、兵士としてそれが生かされるなら、たいへんに貴重だ。召集されたナショナル・ガードたちは、ひと言で言うなら、一般市民社会でのそれぞれに重要な現場での、熟練した技術者および責任者たちだ。彼らを安い給料で予備兵としてつなぎとめておけば、いざというとき、ただちに、高度な現場要員を大量に動員することが出来る。

 自宅へ夜明けにかかってくる電話一本で、出頭命令が言い渡される。そのまま車で直行し、基地のゲートを入って出頭したなら、その瞬間からはひとりのアメリカ軍兵士であり、兵士としてあらゆる命令に従わなくてはいけない。どこへ配属されるのか、いつ帰ることが出来るのかなど、まったくわからない。本業の収入はゼロになるから、家計は半減以下となる。ローンをかかえていたりすると、その手当てに留守家族は途方に暮れたりもする。召集されるのは男性だけではない。妻や母が、アメリカ兵士として、大量にサウディに向かった。

 マサチューセッツ州のナショナル・ガードとして騎兵隊に籍を置いていた、五十七歳のサージャント・ファースト・クラスのレイ・バーソロミューは、かつて陸軍に七年間いたことがあった。年金がつく状態になることをめざして、ナショナル・ガードはすでに十一年続けていた。彼が召集されたとき、取材に来たTVニュースの記者に、彼は所信を次のように述べた。

 My commitment to my country is that when I’m needed, I’m ready to go. (自分が必要とされるときが来れば、出動する用意はいつでも整っているというのが、自分の国に対する自分のコミットメントです)

 サウディの軍事基地に大量動員され続けたアメリカ軍の中心のひとつに、F–15というよく知られた新鋭の戦闘機があった。ひと目見ただけではなんのことかわからないのも一興だと思いつつ片仮名で書くと、ファースト・タクティカル・ファイター・ウイング・オヴ・ザ・ユーエス・エア・フォースは、このF–15を数多くかかえていた。コマンダーのひとり、ジョン・マクブルームという大佐は、ヴェトナム戦争当時の最新鋭機であり、サウディでの戦争準備にも参加したF–4を、F–15と比較して次のようなことを言っていた。

「F–4を車にたとえるなら、一九四九年のシェヴィーですよ。そしていまのF–15は、たとえるならアキュラやレジェンドです」

 そのF–15にかかわるすべての兵士たちを、TVニュースの記者たちが、たとえば「アメリカン・ファイティング・メン・アンド・ウィメン」と表現し、その映像が若いアメリカの女性兵士だったりすると、そこにきわめてアメリカ的な光景が生まれるのを、僕はTVのスクリーンに興味深く見た。見たところごく普通の若い女性が、F–15に装着する各種のロケット弾の、メインテナンスや装塡の専門技術者であったりする。百数十名の男性部下を従え、楽しげにさえ見える態度で、砂漠の炎天下で作業をこなしていく。アメリカの人たちのみが作り出し得る、徹底して屈託のない、合理的な風とおしの良さのようなものを、彼女たちの姿は感じさせた。

 砂漠の現場での発言だったと思うが、ジム・マティスという中佐の次のような言葉が、僕のメモに書きとめてある。

 I hope the lessons of Vietnam is not forgotten, but I think the clear cut moral issue, the outrage of the entire world community, leaves no doubt we are the good guys. (ヴェトナム戦争の苦い体験を忘れていないことを私は願いますけれど、道義上の明確な問題として、世界全体が今回のことに関して怒りを表明しているのですから、今度は私たちが正義の味方であることになんら疑問はありません)

 当事者として事態の末端に深く巻き込まれている人たちの、典型的な発言の一例だ。自分は当事者ではないし、なんら巻き込まれてもいないとしか思っていない人の典型的な発言は、たとえば、「イラクによるクエートの侵攻は国際法違反であり、人道上も許せない」というようなものとなるだろう。中東の五か国を歴訪中だった当時の日本の外相は、トルコのアンカラでこう発言し、日本へ帰っていった。バグダッドには日本人の人質もいたのだが。

 アメリカの町のいたるところに黄色いリボンが結んである光景を、僕はTVニュースの画面のなかに、八月中だけでも何度も見た。戦場におもむいた兵士たちが無事に帰って来ることを祈って、近親者や友人、知人たちが結んだリボンだ。玄関の柱に、郵便受けに、電信柱に、立木の幹に、人々は数多くの黄色いリボンを結んだ。湾岸戦争に関して、TVでもっとも頻繁に見たのは、この黄色いリボンの映像ではなかったか。黄色いリボンを結ぶ行為は、TVニュースによって全米へ広く伝播したのだろう、と僕は思う。銃後であるホームフロントは戦場の兵士たちを全面的に支持しつつ無事な帰還を祈っている、というかたちでの愛国心の表現手段として、黄色いリボンは中心的な役割を果たした。

 ひとつひとつのリボンを結んだ人たちのもっとも切実な気持ちは、なんでもいいからとにかく無事に帰って来てほしい、ということであったはずだ。ヴェトナム戦争のときの、続々と死体で帰還する兵士たちの、悪夢としか言いようのない映像は、湾岸戦争では町のいたるところに結ばれた黄色いリボンの映像に変わった。リボンを結ぶこの風習は、南北戦争の頃からあった。当時は緑色で、時代とともに色は変化した。朝鮮戦争のときは白だった、と僕は記憶している。いまはなぜだか黄色だ。

 反戦運動の映像を、八月二十八日になって、僕は初めて見た。八月中旬、サンフランシスコのベイ・エリアにある市民団体が二十いくつか参加して、中東でのアメリカによる戦争を阻止する緊急委員会というものを、急いで作った。この委員会がおこなったデモは、二十七日の午後、石油会社シェヴロンの社屋前にいた。戦争反対を訴える人たちが持つプラカードのひとつに、18 males to the gallon.という文句を僕は読んだ。自動車の燃費を言いあらわすための、定型的な言いかたをもじったものだ。日本語にするなら、「戦費はガロン当たり十八人の兵士」とでもなるだろうか。そしてその戦費としての兵士たちだが、地上戦になったときに攻撃の最前線に立つスピアヘッドの海兵隊員たちは、TVニュースの画面のなかで圧倒的に若かった。あどけなく率直な、つまりこの上なく頼りなさそうに見える、少年や青年たちだった。「自分はいま自分がいるべき場所に来ています。やるべきことにそなえて、準備をしています。あとは、あとは──」と、彼らはTVニュースの記者に語っていた。彼ら若い兵士たちに対して、砂漠の強烈な陽ざしのなかで、中年の指揮官が叱咤していた。「あとは実戦あるのみだ。人がばたばた死ぬぞ。めちゃくちゃになるぞ。すさまじいリアリティだぞ。映画じゃないぞ」

 若いとは、非常に多くの場合、無知ということだ。無知が言い過ぎなら、世界を知らない、と言い換えておこう。世界のなかで自分の国であるアメリカがなにをしようとしているのか、表向きの大義名分のいちばん外側しか知らないでいる、ということだ。

底本:『日本語の外へ』角川文庫 2003年


『日本語の外へ』 アメリカを知っているのか?
2018年8月17日 00:00