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大問題を語り合えない日本語の閉塞感

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〈書評〉滝浦真人著日本語は親しさを伝えられるか

 日本の人たちに深く浸透している出口のない閉塞感について、多くの人が語るのをこの数年しばしば目にする。しかし僕の記憶によれば、おなじような議論は一九六〇年代の初めからあった。じつに半世紀を越えて問題が存在しながら、いまもって出口が見えないとは、どういうことなのか。

 問題の核心は日本語という言葉にあるのではないか。あらゆる領域において、人々をかならずや閉塞させずにはおかない力を、日本語は内蔵しているのではないか。『日本語は親しさを伝えられるか』という本を読むと、僕がかねてより抱いていたこのような危惧が、危惧でもなんでもない、問答無用の現実であるらしいことがわかって、愕然とする。

 すべての社会システムは言葉によって作られ、そのなかですべての人が言葉によって生きていく。その言葉は、明治の日本国家が、西欧の文明国と肩を並べる目標で、国民の底上げを図っておこなった国語教育の土台であった、標準語だ。

 それぞれの方言や候文のような階級語のなかに分断されていた江戸時代までの日本人を、明治の日本は標準語のなかへ強制的に解放した。人々が話すことが出来、書くことも出来る、言と文の一致した、しかし現実のどこにも根ざさない、無理やりに作った標準語だ。

 国語教育の成果は上がり、富国強兵も戦争も、そして敗戦後の経済復興も、すべてこの標準語が支えたと誰もが思っているが、日本を支え続けたのは各地の方言と、会社内だけで通用する言葉、そして人々を統制する行政官僚用語などではなかったか、と僕は思う。

 そして標準語は、いまなお強固な枠組みとして機能している敬語と合体して、作法の言葉となった。上下関係の序列のなかで、上位者に対する失礼のない立ち居振る舞いのぜんたいを、作法と呼ぶ。相手とのあいだに、取るべき距離を取っておけば、とりあえず難はないことを保証するのが、敬語だ。現実のこのような側面を、標準語は強力に担って現在にいたっている。

 相手を敬し遠ざけて難を逃れる、という種類の現実を引き受ける標準語は、それ以外の現実を相手に出来ない。上下関係をなくして話をしたいという願望は、これまでの言いかただと、腹を割ることだし、いまの言葉で言うなら、ぶっちゃけた話をすることだ。敬語の枠組みが強力に残ったままだから、このような試みはうまくいかない。「この百年のあいだ、日本語は対人距離を大きくする手段によってコミュニケーションの型を作り上げようとしてきた」と、この本の著者は言う。そのとおりだ、という同意のなかに、冒頭に書いたような閉塞感の原点がある、と僕は感じる。

 敬語などまず必要のない、ごく親しい、したがって範囲の狭い人間関係は、誰にでもある。親子や兄弟姉妹など、近親者を中心にした関係であり、そこでは親しさのための言葉が多く用いられる。「日本語は、そうした親しさのコミュニケーションをどれだけ磨きあげてきただろうか? むしろ、誰でも自然にできるようになるものとして、ただ放任してきたように見える」と、著者は書いている。

「上下ではなく親疎をベースとする人間関係の中で、磨かれてこなかった親しさのコミュニケーションは語彙も表現も十分でない。そのことによる息苦しさを、人びとは感じ始めているように見える」

 上下関係の作法である敬語を中心にした標準語と、日常生活のなりゆきのなかに習得が放任されてきた、ごく親しい人たちどうしのコミュニケーションとの中間に、じつは大問題がある。自前の考えをどこの他者とも自由闊達に交換し、そこからそれまでは見えていなかった新しい道の始まりをともに見つけていく、という関係のための言葉の欠落だ。

出典:『週刊朝日』2013年9月13日号


『週刊朝日』 片岡義男の書評
2018年4月27日 00:00
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