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水になった氷の悲しみ

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 仕事の用件で編集者に電話をかけた。用件をめぐる話が終わると、

「ちょっと待ってね、替わります」

 と彼は言い、数秒後、

「もしもし」

 と、編集長が電話に出た。

「八時にはいつもの店にいるから、暇なら来なさい」

 と、彼は言った。

 一九六五年、二十代なかばの僕は、四谷駅前の電話ボックスのなかにいた。その日の僕は夕方まで仕事の予定があったが、夕食の時間をとったとしても、八時には暇になっているはずだ、と思った。僕は店の名を確認した。

 いつもの店と彼が言ったそのバーに、八時過ぎには彼はすでに来ていた。カウンターのまんなかのストゥールにすわっていた彼を別にすると、客は奥の小さなテーブルを囲んだ三人連れだけだった。若いふたりのホステスはその客についていた。カウンターのなかにいる三十代の女主人が、バーテンダーも兼ねていた。

 編集長の手もとにはオン・ザ・ロックスのグラスがあった。氷とともにそのなかにあるウイスキーは、まだ充実した琥珀色を保っていた。僕もおなじものを注文した。ひと口めはかなりおいしいと思う。そうか、世のなかにはこんな飲み物もあったのだ、という気持ちになる。失われていた小さな記憶が蘇生するような感覚だ。

 僕より二十歳は年上の編集長を相手の世間話の発端として、

「最初のひと口は、なにかをふと思い出したような気持ちになりますね」

 と、僕は言った。

「ははあ、なるほど」

 と、彼は言った。そのまましばらく黙っていた彼は、やがて次のように言った。

「最初のひと口のあと、ふた口、み口と飲んでいると、そのうちなんとなく悲しい気持ちになってこないか」

 ウイスキーはダウナーだ。飲んでいると気持ちは下向きとなり、ふさいでいくはずだ。しかし二十代なかばの頃の僕は、そんなことは知らなかった。

 このときから十数年後、

「ウイスキーの水割りを飲んでると、すっかり忘れていた昔のことを思い出す」

 と言った人がいた。

「結婚する前につきあっていた女性の名前とか、彼女のアパートの名称。さらにはその所番地を思い出したりもする」

 と、その人は言っていた。

 昔のことを思い出すのと悲しい気持ちになるのとは、どこかでつながっているのではないか。僕がそう言うと、

「水がいけないね」

 と、編集長は言った。

「水ですか」

「うん」

「どこの水ですか」

「このグラスのなかにある、この水だよ」

 そう言って編集長は自分のグラスを指さした。

「飲んでいて悲しい気持ちになるのは、その水のせいですか」

「そうだね」

「なぜですか」

「この水は、氷が溶けた水だろう」

「そうですね」

「氷は溶けたくはなかった」

 と、彼は言った。

 氷は溶けたくなかった。いいフレーズだ、といまの僕は思う。短編小説の題名に使えるではないか。ウイスキーが重要な役を果たすといい。

「氷は溶けたくなかった」

 と、編集長は繰り返し、

「こんなところで」

 と、つけ加えた。

「こんなところとは」

「小さなグラスの底で。歌舞伎町のバーのカウンターで。東京の新宿で」

「水はグラスの底で、居心地良さそうに見えますけれど」

「溶けたくないのに、氷は溶けた。小さなグラスの底で。溶けて水になった」

「溶けたから悲しいのですか」

 僕の言葉に編集長は短く笑った。

「違うよ」

 首を振って彼が言った。

「溶けていく悲しさが、水になっている」

「ああ、そうでしたか。溶けたから悲しいのとは、ずいぶん違いますね」

「我々はその悲しみを飲んでいる」

「悲しくなるわけですね」

「悲しくなって当然だ」

「氷を入れずにストレートでいかがですか」

 なかば冗談のつもりで、僕はそう言った。

「それは考えなくもない。しかし、音は欲しいんだよ。こうしてグラスを持ち上げたとき、なかの氷の動く音がね」

 編集長はグラスを持ち上げた。グラスのなかで氷の動く音がした。僕もグラスを持ってみた。そして口へ持っていき、なかのウイスキーを少しだけ飲んだ。

「見合いをしなさい」

 僕のかたわらで、編集長はいきなりそう言った。

「見合いですか」

「いい女性がいる。きみより三つ年下で、誰もが認める美人だ。もの静かで、おだやかに気が利いている。勤め人は嫌だそうだ。だからきみに向いている」

「それだけで見合いをするのですか」

「充分だろう」

「いまの僕には、なんにもありませんよ。あちこちの雑誌に雑文を書いたり、週刊誌の記事のアンカーをしたり。あるいは冗談のような新書を書いて」

「仕事はたくさんあるだろう」

「ありますけれど、それはただそれだけのことですよ」

「あれこれ手を広げて、やがて軸になるものが見つかったら、それを育てればいい」

「いまその女性にお会いしたら、断れませんよね」

「断ってくれていいんだ。おたがいの相性には、あるなしがつきまとうからね。それは彼女もよくわかってる」

「なにをなさってる人ですか」

「料理の学校で、料理の先生の助手をしている」

「料理は上手なのですね」

「たいていのことは出来る。うちへ遊びに来ると、女房を相手に料理を作ることがよくある。動作が静かなんだよ。無駄な音を立てない。動きが滑らかで。これはなかなか得難いよ」

「しかし、僕には、なにもありません」

「いまのまま仕事を続けていけば、やがてなにかにつながって、なんとかなるだろう」

「答えようがありませんよ」

「無理に家庭を作らなくてもいいんだ。ふたりで暮らして、ふたりの生活を作っていけばいい」

「いきなりふたりになるのですか」

「腹をくくればそれでいい」

「くくるのはいいですけれど、腹そのものが、いまの僕にはありません」

 編集長はグラスを手にした。氷の溶けた水でやや薄まったウイスキーを飲んだ。グラスのなかは小さな氷だけとなった。店の女主人の美代子さんが僕たちの前へ来た。そして僕に向けて、

「お話の内容は深刻なの?」

 と、訊いた。

「一種のお説教でしょうか」

 僕の返答に編集長は笑った。女主人は深い魅力的な微笑を編集長に向けた。

「せんだってもここで誰かにお説教なさってたわね。それだけ内面の蓄積が出来てきた、ということにしておきましょうか」

「もう一杯」

「はい、はい」

 彼女が僕たちの前を離れてから、

「彼女はどうだ」

 と、編集長は言った。

「彼女と正式に見合いをしてみないか」

 編集長の冗談だろう、と僕は思った。だから僕は気楽な笑顔で、

「接点がまるでありませんよ」

 と、言った。

「こうしてバーのなかでカウンターをあいだにはさみ、客と女主人として向き合えば、世間話くらいはしてもらえるでしょうけれど、それ以上の接点はなにもありません」

「彼女からは写真を預かっている。この店へ来る写真家に撮ってもらった見合い写真」

「僕より七、八歳は年上でしょう」

「嫌かい」

「彼女にとって迷惑ですよ」

 編集長のオン・ザ・ロックスが彼の手もとに届いた。自分の前に置きなおし、グラスに片手の指をかけたまま、

「僕がいまのきみの年齢のとき、僕は復員して来た。南の島の戦場から。戦死もせず、病死もせず、怪我もなしに、日本へ帰って来た。不思議だったよ。なぜこうなのか、と思ってね。いくら思っても解答は出ない。不思議さに浮き上がったような気分で、復員後の一年ほどを過ごした。そして次の年に結婚した。姉が持って来た見合いだった。まず写真を見せられてね。いい写真だった。見合いして、気持ちをきめて、相手に伝えて、相手も承諾してくれて、所帯を持った」

「戦後すぐの、混乱期ですよね」

「大変だった」

「腹をくくったのですか」

 僕の言葉に編集長は笑った。

「もっと飲めよ」

「飲んでます」

「腹をくくったのは、もっと前のことだよ」

「いつですか」

「赤紙が来た日だよ。充員召集令状。ある日いきなり、兵隊にとられるわけだ。赤紙という言葉くらいは、きみも知ってるだろう」

「知ってます」

「その赤紙がまるで招き寄せたかのように、いくつかの出来事がほとんど瞬間的に重なった。その重なり合いの底で、僕は腹をくくった。二十二歳の夏の終わりだった」

「聞かせてください」

「美代子にも聞かれると、またお説教をしてると言われる」

「小さな声で。聞こえないように」

「ちょっと用事があるから、仕事が終わったらそのまま帰らないで、うちに寄ってちょうだい、とその日の朝、姉に言われた。うちとは、僕たちの実家だよ。姉はまだ嫁いでいなかった。仕事は早くに終わり、僕は午後三時過ぎに自宅へ立ち寄った。茶の間のちゃぶ台に向かって畳にすわってると、姉が差し向かいにすわって、僕に差し出したものがある。ボール紙をふたつに折ったフォルダーのようなもので、おもてには御写真と印刷してあった。写真を預かって来たからよく見てちょうだい、そしてその人と見合いをしてちょうだい、と姉は言った。彼女は台所へ立ち、冷蔵庫の氷をかち割って、グラスに一杯の氷水を作ってくれた。砂糖を入れてほんのり甘くしてね。それを持ってちゃぶ台へ戻り、僕の前に氷水のグラスを置き、写真を見てよ、と言ったとき、玄関に人の気配があり、姉はちゃぶ台を立って玄関へいった。まっ青な顔をして戻って来て、突っ立ったまま僕を見下ろしていた。その彼女の手にあったのが、配達されたばかりの召集令状さ」

「見合いどころではないですね」

「そのとおりだよ。震えないように必死にこらえながら、僕は懸命に考えた。考えてどうなるわけでもないけれど、見合いの写真はとにかく見ないでこのまま姉に返す、というところまで考えて、写真のフォルダーを彼女の前に置いた。そしてふたたび、必死に考えたよ。その結論が、腹をくくる、ということだった。召集には応じなければならない。だから僕は姉から令状を受け取った。そのまま二人とも無言でいた。夏の終わりの一日が、午後から夕方へと移っていこうとしていた。じつに静かでね。あの静けさは、いまでも忘れられない。そしてその静けさのなかで、氷水の入ったグラスのなかで、かき氷が、からん、と小さな音を立てた。姉は泣き始め、僕は目を閉じた」

 編集長が語る物語は、段落まで到達した。彼はそのまま黙っていた。目を閉じてじっとしていた。だから僕も無言でいた。しばらくそのままに、時間だけが経過した。編集長のグラスのなかで、氷がひとつ、その位置を変えた。グラスの内側にその氷は当たり、小さな音を立てた。

「この音だよ。いまのこの音だ。そっくりだね。あの時の音と、まるでおなじだ」

底本:『白いプラスティックのフォーク──食は自分を作ったか』NHK出版 二〇〇五年


1960年代 『白いプラスティックのフォーク──食は自分を作ったか』 オン・ザ・ロックス バー
2017年8月30日 00:00
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