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川があり、橋があり、ホテルもあった

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 僕が十歳だった年、夏の終わりのある日の小さな出来事を、いまでも覚えている。僕宛に葉書が一枚、届いたのだ。現在のよりもひとまわりは小さいサイズの、当時の日本の官製葉書だった。宛名は日本語で書いてあったが、文面は英語だった。学校では優等生だったに違いないと思える、美しいペンマンシップによる女性の筆記体の、鮮やかに青い色のインクが、陽ざしのなかで見るとひときわ印象的だった。

 当時の僕は東京から山口県の岩国へ移っていた。そこでふた月ほど前に会った、日系二世の米軍兵士の、おなじく日系の奥さんからの葉書だ。僕宛に届いた最初の郵便物だったかもしれない。彼女の両親の出身地が山口県で、ハワイ生まれの彼女は初めて、敗戦五年後の父母の地を訪れたのだった。

「あなたに会えてとてもよかった。あなたといっしょに畑へいって収穫したエンドウ豆でお母さんが炊いてくださった豆ご飯を、すぐ裏の山の香りがそよ風に乗って届く離れで食べたときには、ほんとうに日本を感じました。次にあなたに会うのは、ハワイでしょうか、カリフォルニアでしょうか。夏は元気に遊びましたか」というような文面の最後にサインがしてあり、その下にRiverview Hotel, Tokyoと書き添えてあった。

 この葉書をめぐって僕の記憶にもっとも強く残ったのは、リヴァーヴュー・ホテルという名称だ。陳腐と言うならきわめて陳腐な名前だし、風情があると言うならそうも言えなくはない。この葉書を受け取ってから四年後には、僕は東京に戻っていた。リヴァーヴュー・ホテルという名のホテルのある東京だ。

 十歳の夏の終わりから現在にいたるまでの、個人的なスケールでは充分に長いと言っていい時間のなかで、平均すると三年に一度ほどの頻度で、僕はこのリヴァーヴュー・ホテルという言葉を思い出していた。ふとしたなにかのきっかけで、思い出すのだ。このホテルはどこにあるのだろうか、と最初に思ったのは高校生の頃だ。探してみようと思って電話帳を見たのは、大学生のときだった。それ以後も、たいそう不徹底ながら、リヴァーヴュー・ホテルがどこにあるのか、僕は探そうとした。リヴァーヴュー・ホテルはどこにもなかった。

 川の眺めと言うからには、すぐ近くに川があるのだろう。東京で川と言えば、当時の僕にとってはまず隅田川だった。部屋の窓から勝鬨橋かちどきばしが見えたりするのだろうか、と僕は思った。運河やそれとつながった湾の海をもリヴァーと呼ぶなら、竹芝桟橋たけしばさんばしのあたりも含まれるのではないか、というような見当違いの思いを、見当違いゆえに、いまでも記憶している。そしてつい先日、じつに半世紀もの時をへて、謎は偶然にも解けた。

『東京いつか見た街角』(持田晃・河出書房新社・二〇〇五年)という本を買ってページを繰っていたら、日本橋川にかかる日本橋の側面を中心にその周囲の光景を、川上から見開き二ページいっぱいの横画面にとらえた白黒の写真があった。昭和二十五年に撮影したものだという。日本橋の向こう、日本橋川の西岸に接して、クラシックな雰囲気の七階建てほどの建物があり、その建物の角に沿って上から下へ、RIVERVIEW HOTELと、英文字が取り付けてあるではないか。

 リヴァーヴューのリヴァーは日本橋川だった。そしてそのホテルの建物は、いまもおなじ場所にある野村証券本社の、現在の建物に建て替えられる以前の、旧館とも言うべき建物だ。戦後はGHQに接収され、ホテルとして使用されていた。日本に進駐した占領軍の兵士や家族が、移動のための拠点のひとつとして使っていたのだろう。接収は昭和二十七年に解除された。

 首都高はまだ影もかたちもないこの時代に、日本橋三越の前あたりからふと京橋のほうを見た人にとって、この建物はたいそう目立つものとして、印象的に目にとまったはずだ。このホテルの部屋で、あるいはロビーないしは食堂で日系の女性が書いた一枚の葉書が、あの夏の終わりのある日、十歳の僕に届いたのだ。

底本:『白いプラスティックのフォーク──食は自分を作ったか』NHK出版 二〇〇五年

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1950年代 『白いプラスティックのフォーク──食は自分を作ったか』 岩国 戦後 葉書
2017年8月24日 00:00
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