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せっかく季節が夏なのだから、タイトルに夏のある小説を読んでみよう、と僕は思った

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 ある年の夏、僕はふと妙なことを思いついた。せっかく季節が夏なのだから、タイトルに夏という言葉が使ってある小説を読んでみよう、と僕は思った。ペーパーバックの山のなかをさがしてみたら、タイトルに夏のつく小説は何冊かあった。そのうちの数冊を、その夏のあいだに僕は読んだ。ハーマン・ローチャーの『一九四二年の夏』は、そのなかのひとつだ。

 一九七〇年の夏の終わりに、ひとりの中年男性が、ニュー・イングランド沖にあるパケットという小さな島へひとりでやって来る。彼はマーセイディスのオープンに乗っている。靴はグッチィだ。人生という処世術のなかで、ひとまず彼は成功をおさめた人だ。

 夏が終わっていく季節の島の光景を懐かしそうに見ながら、彼は一軒のコテージの近くまで来て、マーセイディスを降りる。砂浜に出てそのコテージを眺める。二十八年まえ、彼がまだ十七歳の童貞の少年だった頃、そのコテージは彼が家族とともに夏を過ごすときに使うコテージだった。夏のあいだずっとそこにいて、父親だけは週末にマンハッタンから戻って来るのだった。

 いまは見ず知らずの他人が住んでいるそのコテージをあとにした彼は、すこし離れた場所にあるもう一軒のコテージのまえに出る。砂浜にたたずみ、彼は感慨をこめてそのコテージを眺める。そのコテージには、一九四二年の夏、少年の彼にとってはとうてい手の届かない、遠い憧れでしかなかったはずの、素晴らしく美しい大人の女性がひとりで住んでいた。そしてその女性は、彼が童貞ではなくなるという、一回しかない体験の相手となった女性だ。

 ここで物語は一九四二年へフラッシュ・バックする。凡庸な映画なら、画面ぜんたいが水に映る光景のようにゆらゆらと揺れて溶け、淡く薄れていくのではないか。

 家族とともに夏を過ごしながら、十七歳の少年ハーミーは、この夏のあいだにはなんとかしたいものだ、と思っている。なんとかしたいとは、童貞である自分の状態をそうではなく変えたい、ということだ。おなじように家族とともにその島へ来ているふたりの少年、オシーとベンジーで三人組を作り、三人一様になんとかしたいと思いつつ、どうにもならずにいる。

 ぜんたいにわたってこの小説は、ごく気楽なユーモア小説のような書きかたおよび出来ばえであり、少年期の性の問題を充分な苦しみのなかに浸しつつ、切実で息づまる緊張感のなかで描ききっていく、というような小説ではない。すくなくとも僕はそのように読んだ。だから途中ではかなり退屈もした。

 ハーマン・ローチャーという作家はもっとましなものを書く人なのだが、と僕は思ったりすらした。

 一九四二年と言えば第二次世界大戦中だ。この年の夏にはマンハッタン計画がはじまった、と年表には出ている。ニュー・イングランドの小さな夏の島にも、戦時色は淡くかぶさっている。たとえば、映画館の外にある照明電球の上半分が、黒く塗ってある。半灯火管制のためだ。当時の歯磨きのチューブは金属製だった。使いきったチューブを、ドラグストアの外に置いてある箱のなかへ、人々は入れていた。供出するためだ。そのドラグストアでアイスクリームを買う。ストロベリー・アイスクリームをコーンにダブル・スクープ。チョコレートのチップをふんだんにふりかけて、ひとつが十二セントだった。

 この小説を作者がなにを思って書いたのか、僕にはいまもよくわからない。物語の前後が一九七〇年で、ぜんたいの大部分をしめる中間はその二十八年まえだ。そして主人公は現在にいて過去を回想しているから、ひとまずは、回想的な物語なのだろう。

 童貞ではなくなりたい、と願っている三人の少年たちは、その強い願いとは裏腹に、童貞のままどうにもならない。夏は一日また一日と過ぎていく。そして、自分たちが童貞である事実には、なんの変化もない。

 コテージにひとりで住んでいる美しい大人の女性には、恋人がいる。そしてその恋人は、いまはアメリカの兵士として、戦場へいっている。映画に出てくる主演の二枚目のような男性であり、兵士として軍服を着ているとさらに頼もしく美しい。ひとりで住んでいる彼女とは、まさに好一対だ。彼女の描かれかたから、僕は踊りのうまい往年の美人女優、リタ・ヘイワースを連想した。

 ひとりで夏を過ごしている彼女は、つまり恋人の帰りを待っている。その彼女のところへ、ある日、電報が届く。恋人は戦死した、という知らせの電報だ。

 悲しみのなかでほんのいっとき自分を見失ったらしい彼女は、慰めの言葉を述べに来てくれたハーミーと性的な関係を持つ。そしてそのあくる日には早くも、という感じで、彼女はコテージでの生活をたたみ、いなくなってしまう。ハーミーに宛てて、簡潔な置き手紙がしてあった、と僕は記憶している。

 ハーミーひとりではどうすることも不可能な戦争という巨大な出来事が生む成りゆきの一端によって、ハーミー少年はとにかく十七歳のその時点では最高の女性と、必然ではないかたちで、窓の外に光る稲妻を見るように、はじめての性というものを体験することが出来た。

 ハーミーの童貞喪失は、ある意味では、これ以上を望むことはとうてい出来ないほどの、最高のものだったかもしれない。と同時に、いつまでたっても彼の心の内部に深刻な影をおなじ濃度で落とし続ける、やっかいな体験だった、と言ったほうが正解だろうか。性的な行為へむかう必然において、おたがいに対等なふたりの男女が、行為にかかわる状況のぜんたいを等分に負担する場合が理想的だとするなら、ハーミーとその素敵な大人の女性との関係は、理想からはたいへん遠いものだったと言わなければならない。

 ハーミーという童貞の少年にとって、その大人の女性は、外見のたいへんに素晴らしい、したがって中身も相応して素晴らしいのではないかと淡く想像するにとどまる対象であったと、僕はこの小説のなかの彼女を読んだ。性をまだ知らない少年が、観念のなかで理想化と美化をくりかえして作り上げた幻想としての女性、というような深刻なものとしては、彼女は描かれていなかったと僕は思う。

 彼女に対してハーミーは憧れを抱いているけれど、その憧れは彼女の恋人であった若き兵士を経由していた。自分もやがてあの男性のような颯爽とした美しい兵士になれば、そのときには彼女のような恋人が手に入るのかな、そうだといいな、というかたちでの憧れの対象だ。

 ハーミーにとって、彼女がいまの自分からは遠い理想であることは、確かだ。はなはだ近い現実として、ハーミーと同年齢の、ほとんどなんの魅力もない少女を、作者は登場させている。現実の問題としては、この夏に自分はこの少女を相手に童貞を失うことになる可能性が大きい、とハーミーがなかば観念せざるを得ない状況が、この小説のなかに出てくる。しかしそれは、小説的な面白い状況をもうひとつ作るために作者がごく軽く作ってみたものであり、それ以上ではないはずだと僕は思った。

 異性による最初の性的な体験をほぼ一方的にハーミーに対しておこなった大人の彼女は、簡単な、したがってほとんど意味のないような置き手紙を残し、夏の海岸から消えてしまう。彼女がなにを思ってハーミーと一度だけの性的な関係を持ったのか、説明はされていない。その後の彼女がどうなったのかも、不明だ。それでいいと僕は思う。説明してもつまらないし、その後の彼女にはほとんど意味はないからだ。

 恋人は戦死したという悲しい知らせに、彼女は一夜だけ自分を見失った、というような説明はまったく意味をなさない。いま自分を抱いているのはあの恋人だと、ほんの二、三秒のあいだ錯覚するために彼女はハーミーをベッドへ誘った、というような説明も、おなじく見当はずれだ。

 彼女は、愛している大切な恋人を、自分にはなんら制御することの不可能な戦争という状況のなかで、一方的に、突然に、失った。いっぽうのハーミーは、彼にはどうすることも出来ない状況のなかで、童貞であるという自分の状態を、突然、一方的に、失わされた。突然の一方的な喪失を、ふたりは共通して受け身で体験している。もっとも重要な問題は、このあたりにありそうだ。

 作品としては失敗したのではないか、と僕は思う。成功するかしないかは、要するに書きかたの問題だ。ハーマン・ローチャーは書きかたをまちがえたのではないか。ほろ苦く淡く甘い青春の回顧を、ノスタルジックにそしてユーモア小説的に背景に敷きつつ、重くて深刻な題材をそうとは見せずに書きたかったのではないか。

 重いままに書けばよかったのに。『ビリー・ジョーへの頌歌』という長編は、それで見事に成功していた。真夏のなかのもっとも夏らしい晴天の日の午後、風とともに時間も停止してしまったような重くるしい感触のなかでの、明るいけれども重い話として書けばよかったのではないか、と僕は思う。

 半分以上は失敗していると断定するにしても、それでもなお、この小説は単なる回顧趣味的なユーモア小説ではないし、甘くほろ苦い少年期の思い出を小品的に描いたものでもない。それだけはどうやら確かなようだ。

 この小説は、一九七〇年にアメリカでベストセラーになった。そして翌年には映画になりヒットしたという。その映画を僕はまだ見ていない。ハーマン・ローチャーが自ら脚本を書き、ロバート・マリガンが監督した。音楽を担当したのはミシェル・ルグランだった。

 少年と年上の女性とのあいだの、ひと夏の性的な出来事を、甘くほろ苦いノスタルジーをこめてふりかえっただけのような映画を、ロバート・マリガンがわざわざ作るわけがないと僕は思う。映画になってはじめて、つまり映像による表現を採択してはじめて、『一九四二年の夏』という作品は、その本来の姿を見せているのではないか。きっとそうだろう、と僕は勝手に結論している。この結論が正しいかどうかを確認するために、僕は映画のほうも体験しなければいけない。日本で公開されたときの題名は、『おもいでの夏』といったそうだ。

『一九四二年の夏』には、テーマ・ソングと呼ぶべき歌がひとつ登場させてある。作者ハーマン・ローチャーにとって思い入れのある歌、あるいは、少年の頃に実際にあった出来事と深く重なっている歌なのだろう。『ザット・オールド・フィーリング』という、往年のジャズの名歌だ。

 物語がスタートして間もなく、歌詞の一部分が引用してある。そしてタイトルがくりかえし登場し、最後には歌詞が長く引用してある。作者にとっては、自分が書いたこの物語とこの歌はぴったりと重なるものであるらしいが、僕はまったく不似合いだと思う。

『ザット・オールド・フィーリング』は大人になりきって久しい人の歌であり、大人が何度もくりかえし体験する恋愛的な感情、たとえば不倫のような関係にこそ、ふさわしい。一度は別れたはずのきみを昨夜見かけたら、新たな気持ちですっかりそそられてしまった、というような内容と感情の歌だ。少年がある年の夏に体験する、絶対に一回こっきりの奇妙な出来事の象徴になれる歌ではないと、僕は思う。ロバート・マリガンの映画に、この歌が出てくるか出てこないか。出てはこない、と僕は思う。ついでに書いておくと、この歌をきわめて効果的に使った映画は、ローレンス・カスダンが監督した『白いドレスの女』だった。

▶︎Summer of ’42(1974/2015), Herman Raucher,Dell.

底本:片岡義男エッセイ・コレクション『本を読む人』太田出版 1995年

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2017年7月30日 00:00
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