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『カサブランカ』を観て、読んで、聴いた日

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 幼少の頃からはじまって、小学生、中学生、高校生をへて大学生と、どの段階でも、僕は映画を映画館で観てきた。大人になってからもそうだし、いまでもたまには映画館で観ている。

 たまに映画館でも観るけれど、ほとんどの場合は、ヴィデオで観ている。テープあるいはディスクを手にいれてきて、自室で観る。

 映画を映画館で観たという体験、つまり映画館というものの記憶がはっきりといまでも自分のなかに残っているのは、すくなくとも個人的にはたいへんいいことだ。

 なぜなら、僕がいくら映画をテープやディスクで観ても、観終わったとたん、その映画は記憶のなかにおさまり、映画館で観たものとして記憶されることになるからだ。三十二インチのTVスクリーンで観た映画は、僕の記憶のなかに入りこむと同時に、しかるべき映画館の大きなスクリーンで観たものへと、質的と言っていい変換をとげる。したがって、僕がどんなかたちにせよこれまでに観た映画は、結果的には、すべて映画館で観た映画なのだ。

 つい先日、『カサブランカ』を観た。CBS/FOXヴィデオのテープを買ってきて、ひとりで観た。画質は良かったし、音はハイファイだと、パッケージにうたってあった。モノクロームによるスタンダード・サイズの画面を持った、ワーナー・ブラザーズの作品だ。アメリカでは一九四三年に公開された。

『カサブランカ』を、僕は幼い頃観ている。そのときの記憶では、この作品は、面白くない映画のなかに分類されている。いまで言うアクション映画だけを面白い映画として認めていた幼い頃のことだから、『カサブランカ』をつまらない映画に分類したとしても、それはしかたのないことだろう。

 大人になってから、もう一度、このときは巻頭からちょうど半分あたりまで、観た。サンフランシスコの、大学のちかくにある映画館で『カサブランカ』が上映されていて、友人たち数人といっしょに観にいったのだ。

 いまの若い大学生たちが笑いながら観る昔の映画として、そのときの『カサブランカ』は、上映されていた。古めかしくロマンチックなところとか、かつては真面目にやっていた部分がある程度の時間をへるといつのまにか一種のコメディのようになっていく、というような部分を待ちかまえてみつけては、大学生たちは笑っていた。

 はじめのうちは、僕もいっしょになって笑っていた。しかし、彼らの笑いかたがやがて気にいらなくなり、席を立ってロビーに出た。彼らの笑いは、あまりにも彼らの現在のなかのものでありすぎた。三度目である今回は、笑わなかった。微笑ましい部分はもちろんいくつもあるが、そのようなところでも笑ったりはせず、おだやかに微笑しながら、僕は『カサブランカ』をたいへん面白く観た。

 面白いか面白くないかを判断するときの自分の立脚点は、何とおりかあり得るだろうが、『カサブランカ』の場合は生理的な立脚点がいいと思う。生理的に判断して『カサブランカ』がなぜ面白いかというと、ヒロインのイルザ・ランドを演じるイングリッド・バーグマンが涙を流すとき、彼女の頰を流れ落ちる涙は、いつも一滴であったからだ。

 ストーリーを進展させていく中心人物であるイルザが涙を流す場面は、何度かある。そのつど、かならず、彼女の頰を流れおちる涙は、一滴だった。バーグマンがそうしたのではなく、演出としてそうなっているにちがいないのであり、頰を流れる涙がいつも一滴という演出はスタイリスティックでありすぎると、現在の感覚では思うかもしれない。しかし、この一滴の涙は、作品ぜんたいを支えているスタイリスティックな力の象徴として、僕には感じとれる。

 いろんな意味でたいへんによくできたこの映画の、よく出来ているありさまぜんたいの象徴としてこの一滴の涙をとらえたい、と言ったら、へんな言いかたになるだろうか。象徴とは言わずに、安心感と言ってもいいだろう、そのほうがいいかもしれない。常に一滴である涙によって、ぼくたちは安心して『カサブランカ』を観ていることが出来る。

 安心して観ていることが出来るとはどういうことかというと、この映画がスクリーンに映写されたとたんにそこからスタートするひとつの物語に対する期待感が、物語の結末、つまり映画の終わりの部分において、かならずや完璧に充足されるのだと信じきったうえで、スクリーンのうえでのストーリーの展開を、共感を持って追っていくことが出来るということだ。

 ストーリーというものは、小説にせよ映画にせよ、それがはじまったとたん、読者や観客に対して、ひとつの期待感を抱かせる。スタートしたところからその期待感をひっぱり続けて百三分経過したところで、『カサブランカ』の場合には、きわめて深い完結度をたたえたフルフィルメントが、観客のまえに提示される。期待というものに対して深い充足でこたえるひとつのストーリーの典型を、僕は『カサブランカ』に見ることが出来る。

『カサブランカ』のラスト・シーンには、いくつもの充足が、ごくみじかい時間のなかに、手際よくかさなりあい、詰まっている。イルザ・ランドは夫のヴィクター・ラズロとともに、アメリカにむかう飛行機に乗ることが出来る。彼らふたりが持っている渡航証は、ハンフリー・ボガートが演じるアメリカ人、リックが、相当な自己犠牲を承知のうえで彼らにあたえたものだ。ふたりを追うナチス・ドイツの手先は、リックによってあっさりと射殺される。そして、警察署長のルノーは、その射殺されたストラッサーを見下ろしながら、

「例によって、容疑者たちをみつけ出してこい」

 と、部下たちに命令をくだす。ルノーがさりげなく言うこのひと言を観客が聴いた瞬間、期待に対する充足は完璧に成立し、同時に、完結する。

 サンフランシスコで大学生たちと笑いながら『カサブランカ』を観たとき、後半は僕はロビーにいて人と話をしていたのだが、ラスト・シーンにおけるルノーのこのひと言が発せられた瞬間、観客席からは大喝采があがった。

 ストーリーの開始によって観客が持たされた期待が、ラストにおいて充足された瞬間、こんなふうに大喝采があがる映画を、僕たちは最近の出来事として身のまわりに持っているだろうか。昔に観たような映画が作られなくなって久しいね、という言いかたが定型句として英語のなかにあるが、そのような言いかたは僕たちのいまの状況にもあてはまる。物語がいったんはじまってしまうと、観客はその物語が終わるとき、深い充足を期待するのだという、基本のなかの基本すら心得ていない映画が、特に日本映画のなかに多い。

『カサブランカ』のテープのほかに、一九四三年四月二十六日にアメリカのCBSラジオで放送された三十分のラジオ・ドラマをそのまま収録したLPレコードと、さらに本を一冊、僕は手にいれた。その本には、完成した作品からおこしたスクリプトが、全篇、収録してある。何人かの書き手によるみじかい評論文がいくつかと、撮影台本としてのシナリオづくりを担当したハワード・コッホの文章が、あわせておさめてある。テープ、レコード、本と、三点セットだ。日本語に訳されて東京で出版されたことがあると僕は記憶しているこの本は、とても役に立つ(邦訳は新書館)。LPのなかのラジオ・ドラマは、三十分だからあっけない。それに、イルザが頰に流す一滴の涙は、ラジオ・ドラマでは観ることが出来ない。

底本:片岡義男エッセイ・コレクション『自分を語るアメリカ』太田出版 1995年

今日のリンク|今日は、71年前(1946年)、日本で『カサブランカ』が公開された日

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2017年6月20日 00:00
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