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作家とはなにか

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 日本の書き手によって小説が書かれるとき、ごく一般的に言って、舞台は日本そして時はいまとなる。過去を舞台にした物語でも、書き手はいまの日本の人なのだから視点はすべて現在にあり、したがって過去のことを題材にしてはいても、語られる物語じたいは現在のものだと思っていい。舞台を外国にしてもおなじことだ。

 いま日本で日本語を使って小説を書くと、そのなかに登場するのは、これもごく一般的に言って、日本語の男と日本語の女となる。そしてそれを読むのも、日本語の男女たちだ。日本語で書くのだからすべては日本語になる。一冊の小説のどのページを開いても、見慣れた日本語がならび、男と女がいつもの日本語で会話をしている。

 日本の読者のために日本語で書かれた小説のなかに登場して会話するのは、男と女、男と男、女と女の、三とおりの人たちであり、彼らの誰もが日本語で語り合う。語り合うための言葉が日本語であることはひとまず置いておくとして、登場人物たちの性別が男と女でしかないことに、あるとき僕はたいへんな束縛感を持った。どんな物語でも、それを発端させ進行させていくのは、男と女のふたとおりの人たちだけなのだ。

 男と女のほかに、もうひと種類、人を作り出すことは出来ないものかと考えた僕は、男性でも女性でもなく、そのどこか中間で生きている人を登場させるという、初歩的な工夫をまず実行してみた。もとは男性なのに、いまは少なくとも見た目には完璧な女性である人、という種類の人をいくつかの物語のなかに登場させてみた。書いている当人である僕にとっては、その人はそのような人として最初から最後まで認識されているのだが、文字で書いてしまうと、女性の名を持ち女言葉で喋る、単なる女性になってしまう。この人はもとは男なのだよ、という念押しをたびたびおこなう必要があり、不便きわまりない思いをした。念を押せば効果が上がる、というものでもないのだし。

 もとは男でいまは女性の人、あるいはその逆に、かつては女性でいまは男である人は、小説のなかでどのような言葉を持てばいいのか。この問題に関する答えを、僕はまだ手に入れていない。そしてここから派生した試みとして、外国人を登場させたらどんなことになるか、これも何度かおこなってみたことがある。日本語を完璧に喋る外国人だ。

 意図的に限度いっぱいに端正で正確な言葉づかいにしてみたのだが、さほどの効果はなかった。どんなふうに喋ろうとも、活字になっている台詞を見るかぎりでは、それは日本語でしかなく、他の登場人物たちの日本語と、なんら見分けはつかないのだった。苦しまぎれに、彼女の青い瞳がうっすらと曇ったとか、喋る言葉のセンテンスが終わるたびに金髪が揺れたなどと、映像的なことをしばしば書くはめとなり、しかもそれらがすべて陳腐なことばかりなので、こういう試みはもうやめたほうがいい、とそのとき思った。

 ここからさらに考えを進めていくと、いま僕がここで書いているような問題への回答が、明確に見えてくる地点に立つことが出来る。日本語で書かれた小説を開くと、そこにあるのは見慣れた日本語だ。男も女も外国人も、すべてその日本語を喋っていて、見分けはつかない。これは確かに現実だが、この現実は簡単に変えることが出来る。

 なにごとかが叙述されたり描写されたりする地の文と呼ばれる部分の日本語は、登場人物たちが交わすかぎ括弧に入った会話の台詞に対して、基本的には従の位置にある。会話を補完するものとして、叙述や描写がある。ということは、会話の問題さえ解決されるなら、地の文のすべては、会話によって解決された方向へと向うということだ。問題は会話だ。会話のなかでなにが語り合われるかだ。

 僕が自分で書く小説のなかの会話で、絶対にやりたくないことを列挙すると、およそ次のようになる。主観のニュアンス。心の揺れ動き。気持ちの綾。ふとした言葉による関係のもつれ、いき違い、解釈の相違。一方的な押しつけ。解説。お説教。馴れ合い。引きずり下ろし合い。では小説のなかの会話をとおして、登場人物たちになにをさせたいのかというと、それは彼らが置かれている状況の核心、進展させていく物語の質、おたがいに守るべき距離、新たなアイディアの提示とそれに対する反応、そこから生まれるそれまではなかった価値といったことにかかわる、可能なかぎり正確な認識の照合や確認だ。

 見た目には見慣れたいつもの日本語の会話であっても、そこに語られている内容がまるで日本語世界のものでなければ、読者は最初からそのような世界を受けとめざるを得ず、したがって否応なしにそのなかへ入っていくことになるから、最終的には地の文も含めてぜんたいが、見慣れた日本語によるものではあっても、じつはまるで日本ではない別の世界のものとなる。作家とは、こういうことがごくあたりまえのこととして、出来る人だ。英語で書く、というような馬鹿げた試みよりもこちらのほうが、新しい地平を開く可能性ははるかに高い。そのへんにいくらでもいるありきたりの日本の人が、日本になじみきった証拠であるような日本語で小説を書くことに、もはや意味はほとんどない。

底本:『自分と自分以外──戦後60年と今』NHKブックス 2004年

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2017年4月15日 00:00
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