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「日本はアメリカとともにあります」と首相は言った

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 八月三十一日の夜、国連事務総長デクエヤルと、イラクの外相テリーク・アジズとのあいだに、二回めの会談が二時間にわたっておこなわれた。国連安全保障理事会の決議にもとづいた、イラク軍のクエートからの即時撤退と人質の解放とを、デクエヤルはアジズに要求した。「問題の解決はアラブのなかでなされるべきだ」と、アジズは回答した。言葉と言いかたを選んでいくと、こうとしか言いようがなかったのだろう。そして、そうとしか言いようのないイラクを見越して、国連つまりアメリカは、そのような要求をした。

 国連の決議を取りつけたアメリカは、この戦争は西側の先進文明国およびその側につく国々と、孤立する悪のイラクとの対決である、という図式を作り出すことに成功した。世界を守るアメリカの正義という大義名分を押しとおすために、アメリカは国連を介して西側諸国を巻き込み、表面上の体裁を整えた、という見かたは正しいと思う。その向こうに、自信がなかったアメリカ、あるいは自分の弱点をよく知っていたアメリカというものが見える、と僕は思う。

 ソ連を相手にした二極対立の冷戦という構図が崩れた直後に、世界で最強の軍事大国としての実力を、アメリカは石油の供給元という現場で、実際に試してみなくてはいけないことになった。経済力におけるアメリカの大きな弱点は、誰でも知っている。途方もない額になるはずの戦費をまかなうためには、西側の連合がどうしても必要だった。インフレーションの年間上昇率が現在は十六・六パーセントである、とアメリカのTVニュースの記者があげる数字を、残暑の夜に僕はメモした。前年の同時期にくらべて、ガソリンの価格は十六・九パーセント上昇し、ホーム・ヒーティング・オイルは三十八・八パーセントの上昇を見たという。オイルとガソリンの価格が上がると、アメリカではかならずリセッションとなるから、今度もきっとそうなるだろう、と経済記者は伝えていた。

 石油会社がガソリンの価格を上げることに関して、ブッシュ大統領がTVをとおして語った言葉が、僕のメモのなかにある。彼の言葉は次のとおりだった。

 I’m asking the oil companies to do their fair share. They should show restraint , and not abuse today’s uncertainties.
(石油各社にも正当な負担的協力を要請してあります。価格に関しては抑制力を発揮してもらわなければいけませんし、現在の不安材料を価格の上昇に結びつけるようなことがあってはいけないのですから)

 彼のこのような言いかたは、たいへんにソフトだ。意図的にソフトにしてある、と言ってもいい。イラクとサダムに対して彼が使っていた言葉、あるいはアメリカが自由世界の民主と平和を守るのだ、というようなことについて彼が使っていた言葉と比較すると、石油会社に向けたこういう言いかたの柔らかさは、際立ってくる。石油の価格に関して、大統領はエア・フォース・ワンのなかで、記者たちに次のようにも言った。

 There’s nothing we can do on an Opec decision.

 この時期のアメリカの市場での原油の価格は、TVニュースの記者が間違っていなければ、一バレルにつき三十一ドルだった。「オペックの価格決定に関して、自分たちアメリカはまったく無力である」という大統領の言葉は、皮肉でもなんでもなく、含蓄に富んでいる。

 九月の十日前後だったと思うが、アメリカのTVニュースによる湾岸戦争の報道のなかに、日本が登場するのを、僕としては初めて見た。ケンタッキー選出の民主党下院議員、キャロル・ハパッドが議会でおこなった発言のなかに、次のような一節があった。

 The ongoing contemptible tokenism of the Japanese government merits the world’s contempt and American hostility. US awaits Japan’s commitment to equitably share the international responsibilities of the world power.
(この戦争に関していま日本政府がおこなっている、唾棄すべきほんのおしるし主義は、世界じゅうから軽蔑の対象とされ、アメリカからは敵意の標的とされてしかるべきであります。世界の大国としての、国際的な責任を正しく公正に分担していくことへの彼らのコミットメントを、アメリカは待つものであります)

 いわゆる日本叩きの、例によって例のごとき発言としてこれをとらえるなら、では叩かれた日本はどう反応すればいいのかという問題が、日本のものとして出てくる。叩かれなければならない理由は、日本にはない。しかし、このさい中立などはあり得ず、だとすればアメリカにつくほかないと判断し、相応のアクションに出た国に比較すると、日本の反応は国内文脈としての反応であり過ぎた。

 湾岸戦争が国外から日本国内に入って来ると、アメリカから要求されている戦費の負担額を国家予算のどこから持って来るかという、大蔵省内部の事務処理へと変質した。中東での戦争は、日本に入ると、家計のやりくりへと変わった。自動車を外国に輸出するときに使う輸送船を、アメリカの軍事車輛を中東へ運ぶ作業にまわしてほしいと頼まれた日本は、船の予定はびっしりとつまっているし、戦地へ出向いてなにかあった場合、誰がどのようにして保障してくれるのか、と言って日本は断った。アメリカがおこなおうとしている戦争への参加を、日本の会社が業務のつごうで断ったという、記念すべき出来事だった。イラクとクエートを相手にアメリカがなにをしようとしているのか、そのためにアメリカがどのような準備を重ねてきたかについて、日本はどの程度まで知り、どこまで見通していたのだろうか。イラクによるクエートの侵攻が報じられたその日、あるいはその次の日、「日本には、まあ、たいした影響はないだろう」と、日本の首相が言ったという記事を、僕はあとで新聞で読んだ。

 アメリカよ、あなたは画策しただろう、その画策に我々は同調しかねる、とはとても言えないなら、とにかくまっさきに、アメリカにとって日本は敵か味方なのかを、はっきりさせるべきだった。最初だから言葉ありきだけでいいわけで、言葉ではっきりと、連合国側であることを、日本は明言すれば良かった。そしてその言葉に、ほかの国には言えない日本独特のものがあったなら、なお良かった。日本のアメリカ軍基地、特に沖縄のそれへの五十年におよぶ深い関与は、日本にとってたいへん有利な事実だったのに。敵か味方なのかはっきりしない状態を、味方であることの言明を避けつつ日本は引き延ばしている、とアメリカは解釈した。戦費が出るのも遅かったようだ。しぶしぶ戦費を少しずつ出した、と一方的に言われた日本は、アメリカにとっては敵とおなじなのだと、アメリカに判断された。戦争が終わってから、日本は敗戦国として扱われた。そのなかには、必死になって調停役を務めようとしてアメリカに嫌われた、ヨルダンもあった。

 アメリカが西側の同盟国を国連でまとめ、イラクに軍事的に対抗する連合国軍をたやすく作ることが出来たのは、西側の各国の国益が中東に密度高く集まっていたからだ。西側の国益の、中東における集積を、イラクへの対抗力としてアメリカがリードした。このようなアメリカに、現実間題として日本は相当に一方的に、加担しなければならない位置ないしは状態にある。しかし、アメリカに対する単純で一方的な加担を宣言してしまうと、その宣言は、アメリカにとっての当面の敵への、宣戦布告となる。どちらか一方への完全な加担は、もう一方を無視したり敵にしたりすることへ直接につながっていく。そのような間違いを世界に向けて公表することを避けながら、世界ぜんたいの利益に対して日本は貢献するのだということを、最初にはっきりと具体的に、日本は世界に向けて言えば良かった。

 ではその貢献はどのようなものかと言うと、どこからも文句の出てこないものとしては、戦後の復興に役立つあらゆる平和的な技術を提供することしかない。日本はかつての連合国との戦争を、二発もの原爆という人類史上でまだ一度しかない、すさまじい終わりかたで体験している。そしてその終わりかたのなかから復興していき、現在にまでなった。復興にかかわる技術だけではなく、敗戦と復興をとおして学んだことのすべてを、世界に通用する理念として掲げている国なのだということを、湾岸戦争に関する自分の態度として、日本は発信すれば良かった。言いかたにもよるが、これは説得力として最大のものになり得たはずだ。こんなふうに考えていくと、湾岸戦争と日本の憲法の第九条は、ほとんどなんの関係もない。

 湾岸戦争が終わったあと、ニューポート・ビーチでのブッシュ大統領との会談で、日本の当時の首相は大統領をジョージと呼び、ジョージ当人と関係者たちを不愉快な気持ちに、あるいは場違いな奇妙な気持ちにさせてなお、「日本はアメリカとともにあります」と、明言した。彼は日本語で言ったから、この言葉の真意をあとで厳しく問いただされたなら、言い訳はなんとでも出来ただろう。しかし英語に翻訳されると、日本はアメリカとともに戦う国であります、という意味に最終的にはまっすぐにつながる。

 サウディ・アラビアに到着したアメリカ兵たちの様子は、TVニュースの画面で同度も見ることが出来た。戦争が始まったなら戦闘要員として中心的な役割を果たすはずの彼らの、なんという年齢的な若さであることか。戦闘要員は、訓練がゆき届いていて、なおかつ若く健康でなければ、なんの役にも立たない。したがって彼らは若い。前線へ送られて来た若い兵士たちに、統合参謀本部議長のコリン・パウエルが、砂漠の陽ざしのなかで次のように言っていた。「アメリカとソ連は協力する時代になったんだよ。国連も動き始めたよ。でも世のなかには、まだ悪い奴がいるんだ。ミスタ・サダム・フセインはその悪い奴なんだよ」

 TVの映像のなかに見るコリン・パウエルには、最初から最後まで、少しだけだが確実に、不思議な印象があった。映像という微妙な外側だけを見ていた僕の判断としての印象だが、大動員による戦争に対して、不本意ないしは賛成出来かねる気持ちを持っている人、と僕は感じた。こういう雰囲気が彼の持ち味なのかな、とも僕は思った。戦争には彼は正面から反対で、経済制裁そしてあくまでも示威的な軍事動員にのみ賛成していたことを、僕はあとになって知った。

 アメリカ軍の最新のハイテク武器、そしてやや旧式あるいは期限切れの武器や弾薬など、ありとあらゆる物資が、すさまじい勢いでサウディ・アラビアに向けて集結されていく様子は、武器というものが人によって見られたとたんに持つ、威圧的な効果というものをあらためて認識させてくれた。その時代の技術のすべてが注ぎ込まれている軍事兵器という現代の最先端が、聖書に描かれている背景といまもなんら変わるところのない砂漠に、大量に持ち込まれた。砂漠に出会ったハイテク、という光景には興味深いものがあった。

 海兵隊が使っているハリアーというジャンプ・ジェットは、離着陸のときに使う重要な部分に、故障が続発することがわかった。製作したノースロップ社は、テスト結果に虚偽の報告をしていた事実が判明した。マクドネル・ダグラス社が製作したアパッチという攻撃へリコプターは、コンバット・レディの状態に達し得るのが、五十パーセントでしかないことが明らかになった。構造が複雑すぎてメインテナンスに難点が多くあり、故障や作動不良も多発し、根本的なデザインのやり直しが必要だとわかった。経費がかかりすぎるという理由で、設計や製作の段階で手を抜いたことが大きく影響している、ということだった。

 砂漠の砂嵐のなかを飛ぶヘリコプターは、視界ゼロの霧のなかに入ったのとおなじような状態となる。空と地表との境界が見えなくなる。敵のレーダーを避けて地上五十フィートほどのところを飛ぶから、砂丘が前方に見えたときにはすでに遅い。回転するローターが強力に巻き上げる砂は、機体と擦れ合って静電気を発生させる。その放電によって、機体ぜんたいは、すっぽりと包み込まれてしまう。放電のさいに発生する明かりで、夜間には乗員は外が見えなくなる。アメリカ軍のへリコプターは、ハロウィーンまでに七機が墜落した。

 ちょうどおなじ頃、アメリカのシカゴでは、八十年以上にわたって存続してきたコミスキー・パークという球場で、そこでの最後のプロ野球の試合がおこなわれた。この球場を本拠地としているシカゴ・ホワイトソックスは、シアトル・マリナーズとの試合を二対一で勝った。球場はすぐに取り壊され、駐車場となった。道路をへだてた向かい側に、ニュー・コミスキー・パークが出来ている。その新しい球場での試合で最初にホームランを打ったのは、阪神タイガースにいたセシル・フィールダーだった。

 さらにおなじ頃、カーティス・ルメイが他界した。ベルリンを空襲するにあたって、戦略爆撃という無差別大量殺戮を考え出したアメリカの軍人だ。その考えはベルリンだけではなく、日本にも応用された。きわめて破壊力の強い高性能な爆弾を大量にかかえた巨大な爆撃機が、何度となく敵国の上空に出撃し、あらかじめ狙いをつけた効果のありそうな場所に、爆弾を投下していく。第二次大戦での死者の半分は一般市民だったという事実は、この戦略爆撃が作り出した。「北ヴェトナムには核爆弾を落とし、石器時代へ叩き返してしまえ」という彼の言葉は、記憶しておくといい。

(『日本語の外へ』1997年所収)

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1997年 『日本語の外へ』 アメリカ 日本
2017年2月11日 05:30
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